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病院から離れ、ヒイたちが向かったかもしれない道を進むマジメは早くも焦燥を覚えていた。
道を戻ることがないため、迷子にはなっていないがそれも時間の問題だろう。いや、むしろ既に迷子になっているのかもしれない。真っ直ぐに進むだけなら誰でも出来ることだ。地理がわからない以上、もはや迷子だ。
もしかしたらこっちの道は間違いかもしれない。前に進むごとにそう考えてしまうのは仕方のないことだろう。しかし、実際にヒイたちが通った痕跡は一切なく、不安に駆られるのも致し方ない。
せめてもの救いに、黒丸たちとはまったく遭遇しないがそれも時間の問題だ。
「やばいな。これ、合流出来ないかもしれないぞ……」
思わずそう呟いてしまって、マジメは我に返った。どうにも弱気になってしまっている。
元から合流出来るとは考えていないのだ。なんのヒントもなしに、数十分、あるいは数時間前に別れた人間と再会できるなんてそれこそ奇跡だ。こんなことになるなら、せめて合流場所でも決めておけばと後悔するが詮無きことである。
ため息混じりに髪を掻き回してマジメは走り出した。
あれこれ考えても全ては過ぎたことなのだ。今更考えてもどうにもならない。
そんな益体もないことを気にしているより、少しでもヒイたちとの距離を詰めた方がよっぽど建設的だ。
故に走り出したのだが、少し先の三つ又路から黒丸がぬっと姿を現した。出鼻を挫かれたマジメはなんとも言えない表情を浮かべつつも、急いで脇の路地へと飛び込んだ。
路地とはいっても、一切建物がないためただの道路と化している。しかし戻るのは危険だと判断したマジメは、開けた路地を進むことにした。
独特な雰囲気とでもいうのだろうか。暗く、じめじめとした空気は建物が密集していなくても漂っているらしい。薄気味悪い空気に生ごみの臭いが混じっているような気がして、思わず鼻を摘まんだ。
こころなしか、日の当たらない路地裏そっくりに暗くなっているような気がするが、黒丸の前に出るわけにも行かない。顔をしかめながら先を急いだ。
マジメの歩く路地は、元々ビルの隙間に存在しているらしく、建物は存在しないものの普段見かける路地よりも遥かに距離があった。その出入り口、壁がないため開けているその先に、一つの影が通り過ぎていった。誰かいるのか、と目を凝らすと、続いて二つ目の影が横切って、マジメは駆け出した。
路地の先、もう一つの影が出入り口で立ち止まり、背後を振り返った。その所作のおかげで人影の素顔がはっきりと見えるようになった。
ポニーテールが体の動きにつられて水平に伸びた。
「見つけたっ……!」
マジメの目の前を走って過ぎたのはハギリだった。ということは、彼女の前に通っていった人影はヒイともう一人、助けた少女になる。
無意識のうちに頬が緩んで、喜び勇んで合流しようとそのまま駆けると、黒丸の巨体がハギリを追いかけていった。
三人は追われていたのだ。思わず歯噛みしたマジメは、走りながら武器になるものが転がっていないか見回した。
マジメが走っているこの元路地裏を見てわかるように、この近辺は建物が密集していた地域だ。しかしこの白黒の世界では建物がほとんど存在していない。そのため、建物が密集していた土地は必然的な広大な空き地になってしまうのだ。そんな場所で黒丸から逃げ続けるのは不可能に近い。
ならば選択肢は一つ、戦うだけだ。
しかし不幸にもここは路地裏で、武器になりそうなものなど転がっていなかった。だが素手で勝てるような相手だとも思えないマジメは、苦し紛れに砕けたアスファルトの欠片らしい石片を両手に拾った。
両手に石ころ、まるで黒馬と対峙したときのようだ。それを思い出して、マジメは笑ってしまった。
「よくこんな石ころで勝てたよなぁ」
とどめこそ刺せなかったものの、それはセガワがきっちりやってくれたことをおぼろげながらも見ていた。だが、そこまで黒馬を追い詰めたのは紛れもなくこの石ころたちだった。
「よし、いける気がする」
もちろん油断はしない。黒馬と戦ったことはあれど黒丸と戦った経験はないのだ。慎重に、それでも及び腰にならないように、マジメは唇を結んで路地から飛び出した。
「やっぱりそうだ、郡山さんたちだ!」
路地を抜け、黒丸を追跡するマジメの目には見覚えのある服を着用した後ろ姿がしっかりと刻まれていた。
無事な姿に安堵したが、今まさに危機的状況に陥っている。
ときおり振り返る彼女たちの横顔を見て、確信を得たマジメのテンションは更に高まった。
黒丸の後ろにいるせいでヒイたちにらマジメの姿が見えていないようだが、同時に黒丸もヒイたちの姿しか見えていない様子だった。
がら空きの背中に一撃、それも強烈なヤツを叩き込んでやりたいが、黒丸の動きは軽快で、遅れないように走るのがやっとという有様だった。足音もしない、重量もない、とんだペテンだ。そう悪態をついたマジメの体はここへきて、疲労が足枷となってしまっていた。
しかし、マジメはそれを理由に諦めるような男ではない。疲れがなんだ、とばかりにより速度を上げ始めたのだ。
徐々に距離が詰まり黒丸の背中に手が届く寸前、前方から悲鳴が上がった。
驚いてわずかに失速したマジメだったがすぐに持ち直し、黒丸に手が届く数歩前という位置をキープしてヒイたちを見た。
悲鳴はおそらくヒイのものだ。ぐっと息を詰めたマジメは目を見開いて、咄嗟に右手の石片を黒丸に投擲した。
ヒイは荒れた路面に足を取られて転倒してしまったのだ。先頭を走っていたヒイが地面に身を投げてしまい、ハギリともう一人の少女が慌ててブレーキをかけたが当然間に合うはずもない。二人が悲鳴を上げてヒイを助けに向かうが、彼女たちの瞳は絶望でいっぱいだった。
立ち上がる暇もなく、追いかけてきた黒丸が恰好の餌食とばかりに腕を振り下ろす。
その腕を狙って、マジメは投石したのである。
本気で投擲された石は寸分違わず黒丸の肩口に命中し、倒れたヒイの頭上に迫っていた右腕を根元からちぎり飛ばした。
胴体から分断された腕は一瞬で霧となり、ヒイを押し潰す前に消えていったのだ。
突然の出来事に唖然とするハギリたちとは流石に踏んだ場数が違い、ヒイは急いで黒丸と距離を取った。
「三人とも無事か!?」
「え、あ、小田原くん……? 良かった、無事だったんですね!」
「無事かどうか聞いてるのは俺ですよ! とにかく下がって!」
黒丸を挟んだ見えるマジメに、不用意に近づこうとしたヒイを窘めるがむしろ彼女は更に近づいて叫んだ。
「ダメだよ! 戦っちゃダメ! 逃げないと……」
「こんな開けた場所で逃げられるわけないですよ! 隠れる場所もないのに、それこれ郡山さんの二の舞になるって!」
「……でもっ!」
長々と話をさせてくれるわけもなく、黒丸が振り向き様に裏拳を放った。遠心力の加わった裏拳は風切り音を生み出して、マジメの顔面を粉砕しようとした。しかし、マジメも無警戒なまま言葉を交わしていたわけではない。黒丸の初動を見逃さず、残った腕が持ち上がると同時に飛び退いていたのだ。
眼前の凄まじい速度で通る黒丸の腕に背筋が冷たくなりながらも、マジメは怯むことなく黒丸の懐に飛び込んだ。
逃げるないどころか自ら黒丸に飛び込んだマジメにヒイは声にならない悲鳴を上げた。次いで、マジメを助けようと近づこうとしたのだが、痛いほど強く肩を掴まれた。
「なにやってるんですか先輩っ! ふらふらしてたら死んじゃいますって!」
「葉切ちゃん離して! 早く小田原くんを助けないと……!」
「助けるって、そんな必要あるんですか?」
なんでそんな冷たいことを、と思わず激昂しかけたヒイはハギリに詰め寄った。だが彼女は言葉通りに不思議そうな顔をしてマジメを見ていた。
「だってほら、あの化け物、もうボロボロですよ?」
「え?」
そんなことを言われてヒイは振り返った。
マジメは無傷だった。彼は無事立ったまま、倒れ伏した黒丸を見下ろしていた。




