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誰かが夢見るシロクロシティ  作者: 水島緑
オレンジ・パープル
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 小田原くんが有無を言わせずに私たちをお手洗いに押し込めたのはそういうことだったんですね、とヒイは歯噛みした。

 確かにこの威圧感は黒丸の比ではない。マジメが話したような馬の姿から発せられるプレッシャーは、真正面に立っただけで失神してしまうのでは、と思うほど強烈だ。にもかかわらず、マジメは近づいてくる黒馬を見据えたまましっかりと意識を保っていた。

「小田原くん……」

 彼の身を案じて、思わず呟いてしまったが、彼ならきっと大丈夫だろう。

 それに、今のヒイにはやることがあった。

「黒馬の気を引いてるうちに追いかけられている子を助けてくれないか?」

 その頼みを果たすため、ヒイは涙目になってこちらに駆けてくる少女を見つめた。



◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎



 その服装のせいで見つかったのかもしれない、とこちらに向かってくる少女の白いパーカーを見て思った。

 少女は指先や太腿が隠れるほどダボダボのパーカーを着用しており、見様によってはローライズのジーンズが見えないためかなり危ない服装をしているように見える。しかし今は走っているおかげで、パーカーがまくれあがりローライズジーンズが見えるため一安心だ。いや、白い太腿が丸々と見えてしまっているのでそうでもなかった。

 そんなことを考えているが、マジメに余裕はなかった。

 おぼろげな意識だったが、あれだけ苦労して確かに黒馬が消えていくのをこの目で見たはずのマジメの動揺は大きい。それこそ、今すぐにでもここから逃げ出したくなるほど。

 しかしそんなことをすれば、残されたヒイたちが危ない。

 思い出せ、なんのためにあの化け物と戦ったんだ。

 そうやって自分を奮起させようとするが、黒馬の復活、あるいは二体目が迫ってくる光景は気が遠くなってしまうほど苦いものだった。

 更に、あのときとは状況がまったく違う。武器もなければ体調も万全には程遠く、そして甚だ遺憾だがセガワがいない。つまり、倒すことは不可能だということだ。

 二人がかりで、それこそ心身を削ってようやく倒せた黒馬を、セガワもいない状態で二度も倒すことはどう足掻いても無理だ。

 マジメが取れる方法は一つしかない。逃げること。この病院から離れて、馬を撒くこと。全員で生き残るにはそれしかない。

 しかし、全員が同時に病院から逃げ出すのは正直にいって危険すぎる。外で散り散りになることは極力避けたほうが身のためであるが、だからといって、ひとまとまりで逃げれば絶対に黒馬から逃れることは出来ない。

 誰かが囮になって、他の三人を逃がすまでの時間を稼がなければ生き残る道はない。

「そのまま真っ直ぐ走って! 郡山さんたちはあの子に合流して一緒に病院から出るんだ!」

「小田原くんはどうするんです!?」

「俺もすぐに追いかけますから、心配しないでください。葉切さん、郡山さんをよろしくね」

 もうこれ以上話している余裕はなかった。

 もうすぐそこまで迫っている少女に叫んで、彼女が泣きそうな顔で頷くのを見て、マジメは更にヒイたちに向けて叫んだ。

 ヒイは納得いかない様子だったが、そこはハギリがなんとかしてくれると信じよう。

 ハギリに促されたヒイが、押し込めたお手洗いから飛び出すタイミングを窺っている。それを尻目に、マジメはおもむろにパーカーを脱いだ。

 袖を合わせて半分に畳んだパーカーを片手に、マジメは一歩前に足を出した。それと同時に、少女とすれ違ったマジメは畳んだパーカーを薙いだ。

 まるで腕が引きちぎられるかのような衝撃に、マジメは危うく転倒するところだった。しかしなんとか踏みとどまり、パーカーの袖を強く握ったマジメは、その場で軽く腰を落として凄まじい勢いで引っ張る黒馬と綱引きを始めた。

 マジメが振るったパーカーは、彼の想像通りに動いた。フード部分を黒馬の横っ面に被せて視界を奪い、強く引くことで強引に進行方向をずらしたのだ。そのおかげで黒馬は壁に体を押し付け、一時的に減速した。

 マジメが振り返り、合図を出そうとするが、三人は既に駆け出していた。徐々に小さくなっていく背中が、角を曲がるのを見て、これなら無事に逃げ切れそうだとマジメは冷や汗を垂らした。

 手の中で暴れるパーカーの袖は凄まじい抵抗を見せていた。黒馬ががむしゃらに頭を振るものだから、それに引きずられるマジメは体を強く壁に打ち付けてしまった。手綱を手放すまいと踏ん張るが、黒馬の膂力に叶うわけもなく、頭を振り上げた拍子にマジメの体は軽々と宙に浮き、黒馬の後方に落下した。

 体勢を整える間もなかったが、幸いにも、背中から落ちたため息が詰まる程度の負傷だ。だが、黒馬の視界を奪っていたパーカーはひらりと天井付近を漂っていた。

 気づいたときにはもう遅かった。

 起き上がるよりも早く、黒馬の体が驚異的なスピードで迫ってくる。

 起き上がることはすぐさまあきらめ、体を転がして射程範囲から逃れようとした。あわや踏み潰される、というところでマジメの体が真横へ転がり、ことなきを得た。

 がりがりと床を削りながらブレーキを掛ける黒馬に対し、マジメはようやく起き上がって駆け出した。

 向かったのはヒイたちが逃げた正面玄関ではなく、まったくの逆方向、病院の奥へ奥へと走った。

 たちどころにマジメの背中を追いかける黒馬もまた、彼を追いかけて病院の奥へと走った。これでヒイたちが無事に逃げられる時間を稼げば、あとはマジメもずらかるだけだ。

 だが、振り返ったマジメの目にはもうすぐそこまで迫りつつある黒馬の姿があった。馬と人間のかけっこで勝ち目などあるわけもなく、呆気なく追いつかれたマジメは苦し紛れに廊下を曲がった。

 勢いのままに角へ入ったため、体が壁にぶつかるが立ち止まっている暇はなく、よろめきながらも体勢を整えた。

 壁際から離れた直後、硬いはずの壁角を粉砕しながら強引に方向転換した黒馬が姿を見せ、マジメの頬が引きつった。

 体調が万全ではないせいか、いつもより体力が持たない。既に息が切れ始めていて、限界が近いことを嫌でも理解させられた。

 再び曲がり角に飛び込んで難をしのぐがそれもほんのわずかな間だけだ。黒馬がすぐさま壁を破壊して追いかけてくる。早くもジリ貧だ。だが、まだ時間稼ぎは十分ではないだろう。そうは思うが、マジメ自身、とっとと逃げ出したかった。

 腕を振って走るのさえ一苦労だ。もはやリズムもなにもグダグダで、呼吸も苦しくなったマジメの頭は次第に白く染まっていった。

 またしても、苦し紛れに角を曲がろうとした。だが、廊下の先に階段が見えたマジメは、目の前の泥舟に乗り込むことなく、そのまま走った。

 息は荒く、足も棒のようだ。しかし、マジメは無意識のうちに最善の一手へと腕を伸ばしていた。

 それはまさに経験だ。短くとも濃密な戦い記憶は、マジメによりよい道筋を指し示していた。彼自身が意識したわけではない。意識的に動くには、まだまだ時間が足りないのだ。経験が馴染まないうちに、次の戦いへと身を投じ、その戦いの中で前回の経験を自分の物としているマジメでは、馴染ませる時間が圧倒的に足りていなかった。

 それでも、目先の糸に飛びつくことはなく、もっと遠くに存在する、確かな綱を選び取ったのだ。

 だが、いくら最善を選んだとしても、そこまで辿り着かなければ意味はない。猛然と迫る黒い塊に追われるマジメは、最後の一滴まで絞り出すように、ひたすら足を動かした。

 目的の階段まで残り数メートル。しかしその距離が恐ろしく長く感じられた。

 肺に針が突き刺さるような痛みに喘ぎながら、それでも足を止めることはない。

 足が棒になるまで走り続けた甲斐あって、階段はもうすぐそこだ。

 だが、希望を持った故にほんのわずかにマジメの気が緩み、かすかに失速したときだった。まるでその瞬間を狙っていたかのように、黒馬は更に速度を上げてマジメを跳ね飛ばしにかかった。しかし、マジメも自分が失速したことには気づいていた。気づいていたが、速度をあげることは難しいのである。

 足の筋肉には乳酸が溜まりもはや膝から崩れ落ちる一歩手前だ。

 強く奥歯を噛み締めて踏ん張るマジメは、ついに階段前の踊り場まで辿り着いた。しかし背後には黒馬が迫っている。一か八かに賭けて、マジメは右へと踏み切って階段に飛び込んだ。

 後先考えずに飛び込んだ甲斐あって、いまにも背中に突き刺さりそうだった黒馬の角はそのまま廊下の先を突っ走っていった。だが、壁の向こうに消えた後、すぐに床を削るような音と振動が伝わってきて、マジメは慌てて階段を上った。

 でたらめに飛び込んだせいで、体の前面を段差にぶつけてしまった。じんじんと痛んで熱を持つが、それはまだ大丈夫だ。問題は、立ち上がれそうにない、ということである。

 這いずるようにして腕の力だけで段差を上っていく。背後から近づいてくる蹄の音に急かされるが、焦ったせいで転げ落ちでもしたら目も当てられない。

 迅速に、かつ落ち着いて。

 まるで復活の呪文のように繰り返し唱えていたおかげで、黒馬の足元にずり落ちるということはなかった。だが、振り返ればそこには、黒馬が段差に足を掛けていた。

 悪態をついて階段を上る。幸い、両腕はまだまだ大丈夫だ。

 黒馬よりも一足先に階段を上り切り、二階へ。周囲に視線を走らせ、隠れる場所がないか探すマジメの目に、窓ガラスの嵌っていない窓枠が見えた。

 彼自身、もう走って逃げることは不可能だと理解している。そのため、見つけた窓枠に近寄って指を掛けた。

 背後からは蹄の音が大きく響いてくる。考えている余裕はない、とマジメは窓枠に掛けた指に力を込めてよじ登り、窓の外へ身を投げた。

 いくら二階とはいえ、受身も取れない状態ではただではすまないだろう。必死に体を丸め、頭を腕で守ると同時に、内臓が浮く感覚を覚えた。

 それもつかの間、左半身に強い衝撃を受けたマジメは咄嗟に視線を巡らせて、ほっと一息ついた。

 窓から飛び降りたマジメは、幸運にも雨避けの屋根に落下したのだ。

 駐輪場らしき場所はどうやら病院の裏のようで、雨避けの屋根に落ちたマジメは緩慢な動作で起き上がり、周囲を見た。

 自分が飛び降りた窓を睨みつけて、数分が経った。黒馬が壁をぶち抜いて飛び出してくるのでは、と身構えていたが、大丈夫らしい。流石に知性があるだけ危険な行動は取れないのだろう。

 荒い息を整えながら、マジメは大の字になって寝転んだ。

 本当は、すぐにでもヒイたちと合流したいのだが、合流場所も決めていない。更に、この足では歩き回ることも難しいだろう。ひとまずは休むしかない。

 とにもかくにも、これで逃げ切ることが出来たに違いない。まさか黒馬も、屋根の上にいるなどとは微塵も思わないだろう。

「俺の勝ち……いや、勝ってないか。はぁ、もう疲れた」

 小さく呟いて、マジメは腕で両目を覆った。


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