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これからの詳細な目的を決めた三人だったが、マジメの疲労具合を見て翌日から行動する、ということになった。
というのも、ポーカーフェイスで怪我も疲労も隠していたマジメをハギリがあっさり見抜いてしまったのだ。
たった一日で疲れが消えるわけもなく、大丈夫だというマジメの言葉を封殺したヒイは無理やりに彼をベッドに寝かせると、ハギリと一緒にマジメを見張りはじめたのである。
流石に大袈裟だ、と抗議したが彼女たちはまったく聞く耳を持たず、逆にマジメを睨みつけた。
「ダメですよ小田原くん。少なくとも今日一日は体を休めることに専念してもらいますからね」
「そうそう、先輩も大人しく休んだ方が身の為ですからね。こんな状態で外を出歩くなんて危ない……危ないんですよね?」
「ええ、本当に危険です。体調が万全になるまではここで休んでいきますよ。丁度ベッドもありますから」
まさに有無を言わせぬ威圧感であった。普段は心優しいヒイがこうまで強固な姿勢になるのは珍しい。それだけ心配させているのだが、当の本人は首を傾げるばかりで気づいていないようである。
これだけ止められて拒むほど馬鹿ではないマジメは、おとなしく体を休めることにした。
想像以上に監視の目は厳しく、小さく寝返りを打っただけでも二人の視線が飛んでいるのだから気になってしょうがない。これでは気が休まらないと起き上がろうとすると、すぐさまヒイの鋭い目が突き刺さるのでそうもいかない。
とはいえ、この状況がいつまでも続くようでは休むこともままならないのではないだろうか。そう判断したマジメはベッドから起き上がり、二人の視線が刺さるのにも構わず、意を決して口を開いた。
「あのさ、そんなに見られると視線が気になって休めないんだけど……」
「へ? あ、ああ! ごめんなさい! そうですね、いくらなんでも心配しすぎでしたね」
「ですね。ここまで監視されていることを知って休まないわけにはいかないですもんね。もう監視しなくても良さそうですよ先輩」
「お前……最初からそれが目的だったのかよ……」
なんて奴だ、と嘆息したマジメは諦めたようにベッドに転がった。変わらず視線は感じるが、気になるほど凝視されてはいないのでこれで休めそうだ。
二人は休まないのか、と疑問に思い、少々失礼ながらも聞き耳を立ててみると、なにやら小声で話しているらしい。自分に対する配慮のようで、申し訳なく思う。
内容こそは聞き取れないものの、どうやら会話が弾んでいるようで、楽しげな笑い声を漏らしている。仲良くなるのが早い。羨ましい限りだ。
友人の少ない自分に、是非とも欲しいスキルだ。
そんなことを考えながら二人の声を耳にしていると、徐々に瞼が重くなってきた。眠るつもりも、眠気もまったくなかったのだが、二人の声が思いのほか心地良かったようで、ついうとうととまどろんでしまった。流石に眠るのは二人に迷惑だと懸命に抗うのだが、二人の楽しげな声はマジメにとって子守唄になってしまい、ついに眠り込んでしまった。
すやすやと寝息を立てるマジメには気づかず、親睦を深める二人はこの殺伐とした世界には似つかわしくなかった。
と、そんなときだった。
スイカは野菜か否か、について自論を交えながら語っていた二人の耳に、甲高い悲鳴が突き刺さった。その声は廊下に反響して拡散され、眠っていたマジメの耳にも当然届いた。
かっと目を見開き、半ば転げ落ちるようにしてベッドから下りたマジメは、椅子から立ち上がったヒイと顔を見合わせてどちらからともなく扉へと向かった。
だが、そんな二人を止める声がすぐ傍から発せられた。
「行かないほうがいいですよ、先輩」
思わず振り返った二人は、驚きのあまり頬を引きつらせて目を見開いた。
吐き捨てるように言葉を紡いだハギリの目は、まるで道端に転がったゴミを見るかのように冷め切っていたのだ。
その冷えた表情は大の大人でも肝を冷やしてしまいそうなほど、まったく色が存在していなかった。感情が抜け落ちていたのだ。まさに能面といって相応しい。
そんな彼女に違和感を覚えると同時に、ヒイが恐る恐る声を掛けた。聞き間違いであってほしいという願望が乗ったような、弱々しい声色である。
「あの、ハギリちゃん、どうした? どうしてそんなことを……」
「ただの忠告ですよ。先輩たちってば、お人好しそうだから騙されないように、です」
「騙されるって、誰に……」
「さっきの悲鳴の持ち主ですよ。だから、行かないほうがいいですよ?」
無理には止めませんけど。そう言ったハギリは忌々しそうに、それでいて投げやりに口を噤んだ。判断は二人に任せるという意思表示だろう。
なにか釈然としないものはある。だが、
「私、行ってくるね。もし騙されたとしても、見捨てられないよ」
すべてはヒイの言葉に集約されていた。
「俺も同じだ。行ってくるよ」
ヒイが一人ではなにかと不安だ。それに、自分がついていけば騙されてもなんとかなるに違いない。自惚れもあったかもしれないが、まずは人を疑ってかかる自分の性根は自分が一番理解している。
「そうですか……。先輩たちがそう言うなら止めません。あたしも行きます」
「ううん、大丈夫だよ? 私はともかく、小田原くんが一緒に来てくれますから」
「行くったら行きますよ。先輩たちだけじゃ心配ですから」
なんともまぁストレートな物言いだ。まるで遠慮というものを知らない。
だが、本音を隠されたまま付き合うより、ズバズバと言ってもらったほうがこちらも楽だ。人間関係の少ないマジメは特にそう思っていた。
ヒイと二人、顔を見合わせて苦笑を浮かべると、不敵に口角を吊り上げるハギリに頷いてみせた。
結局、三人で悲鳴の元へ行くことになり、彼らは揃って診察室を出た。
廊下に出るや否や、うわ、と思わず声を上げたのはマジメだった。
「ここ……そうか。そういえば俺、運ばれてきたんだっけ」
目の前の惨状に、自分がどのようにしてベッドまで運ばれたか思い出して、マジメは亀裂の入った壁を撫でた。
三人がいた診察室は、マジメが黒馬と戦った場所からそう遠くない場所にあった。二人がかりでもマジメを運ぶのは少々骨が折れ、かといってそのまま廊下に寝かせておくわけにもいかず、すぐ近くの診察室に運んだのである。
この壁に刻まれた傷跡の中で、大した怪我もなく生き残ったことは未だ不思議だ。一生に一度、奇跡が起こるとすればマジメはもうここで使ってしまったのかもしれない。そう思えるほどの光景であった。
「さ、行こう。悲鳴かしたのはこっちのはずだ」
どこか心配そうな面持ちでマジメを見上げるヒイに微笑んで、マジメは先導するように先を歩いた。
黒馬を倒したからといって、決して警戒を怠ってはいけない。気が緩んだそのときが命の終わるときだと言い聞かせて、どうにも気だるい体を動かした。
それに感づいているのか、マジメの後ろに続くヒイの目はどこか不安そうだ。
最後尾にはハギリが。やはり気乗りしないのか渋々といった様子でついてくる。そこまで嫌そうな顔をするのであれば無理についてこなくても、と思うがそれは今更だ。
ハギリの口ぶりからして、先ほどの悲鳴は顔見知りなのだろう。その上で人を騙す、と断言しているのなら、一考の余地は十分にある。しかし、それを鵜呑みに出来ないのもまた事実だ。
出会ってほんの数時間の少女に、背中を預けられるかと問われればマジメは首を横に振る。実際に彼はまだハギリのことを信用しきれていなかった。マジメの目から見て、ヒイは恐らくもう信用しているのだろう。彼女が信用しているのなら、と思わなくもないが、それはただの思考停止だ。むしろ、ヒイが信用しているからこそ、マジメはハギリを疑っていた。
ヒイが飴なら、自分は鞭だ。
優しいヒイでは非情になることは出来ないだろう。それでも二人が安全に生きていくには、どちらかが常に疑って、警戒していなければならない。
密かにそう考えて、自ら茨の道を行くことに決めていた。
たぶん、それがもっとも賢い選択だ。ヒイにバレてしまうと厄介なことになりそうな予感はするが、それでもやめるつもりはない。
三人はしばらく粛々と歩き、ロビーへと出た。
あれから何度か悲鳴が聞こえたが、果たして無事なのだろうか。疑問を感じているのはヒイも同じようで、彼女は不安げな表情を浮かべていた。
悲鳴のした方向はこっちで間違いないはずだ。まるで自分の位置を知らせるように、道がわからなくなりかけたときに悲鳴が上がるものだから、ハギリの言葉が徐々に信憑性を帯びているように感じられた。
しかし、とマジメは歩調を緩めた。こっちには確か、死体があったはずだ。せっかくヒイの体調が回復したのに、もう一度同じところを通るのは避けたい。だが、悲鳴の主はどうにもあの階段の踊り場へ向かってしまっているようで、このままでは再び骸と鉢合わせしてまうのではなかろうか。
思わず、苦虫を噛み締めたような表情を浮かべたマジメだったが、廊下に反響して聞こえてきたのは、足音と悲鳴だった。
「二人とも、そっちに隠れていて」
「え……ですが」
「いいから。ほら、早く」
突然表情を険しくしたマジメが、すぐ傍のお手洗いらしき空間を指差した。四角いプレートこそ天井からぶら下がっているが、いつものように真っ白で何もわからない。お手洗いだ、という確証はないが、今はそんなことどうでもよかった。
足音が徐々に近づいてきて、マジメは深く呼吸を繰り返した。まるで早鐘を打つように、脈拍が落ち着かない。
意識せず悪態をつきかけたが、喉から出すことだけは避けられた。不安そうにマジメを見る視線が二つ、すぐ傍から感じられる。
次だ、次でくる。徐々に近づいてきた足音は、もう引き返せないところまで接近していた。角を曲がれば姿が見えるだろう。逃げる悲鳴の主と、追いかける何か。
かつん、かつん、と硬質な音が嫌に響いて、マジメの脳裏に黒い巨体が瞬いた。
次の瞬間だった。
廊下の角を曲がり、一人の少女が姿を現したのである。
そして少女の後ろから、現実の馬よりも数倍は大きい巨躯の黒い馬が猛然と駆けてきて、マジメは頭を抱えてしまった。




