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誰かが夢見るシロクロシティ  作者: 水島緑
オレンジ・パープル
26/92

25

 診察室を静かに飛び出したマジメは、脇目も振らずに駆け出した。

 向かう先は一つ、セガワのところだ。

 幸い、黒馬の蹄音は廊下によく響き、追跡することは簡単だった。ただ、馬だけはあって非常に足が速い。しばらく走りつづけているのだが、馬の尻尾すら見えてこない。

 だが、蹄の音が聞こえてくる限り、セガワは無事だろう。というか、馬から逃げ続けているセガワの脚力こそ、化け物じみている。

 先回りして追いつきたいのは山々だが、なにぶん病院内は詳しくない。下手に道を間違えてしまうとすぐに迷子だ。だから愚直に追いかけるしかない。

 軽快に駆け抜けながら、マジメは武器になるものを探していた。

 あの馬が黒丸と同類であったとしたら、素手で挑むのは無謀でしかない。いや、ただの馬だとしても素手では勝てないだろう。

 セガワが持っているように、鉄パイプなどが一番扱い易いのだろうが、そう都合よく転がっているはずもない。

 いっそ、診察室で座ったパイプ椅子でも持ってくれば良かったか、と後悔したが、今更だ。

 視線を左右に走らせ、武器になるものがないかと探すと、ちょうど良いところに消火器らしき影を見つけた。

 廊下の曲がり角の隅、白い壁と床に同化しているせいで危うく見逃すところだった。赤いはずの消火器を通り抜けざまに拾い、マジメは白い消火器を抱えると、一目散に走っていく。

 未だ迷いはある。残してきたヒイも気にかかる。

 だが、もう駆け出してしまった。今戻れば、きっと自分は後悔する。だから振り返ることは出来ない。

 どこの科かはわからないが、ヒイを寝かせてきた診察室と同じ扉と、待合場のような広い空間を横切った。そのまま真っ直ぐ蹄の音を追いかけていくと、不意に足音が止んだ。

 おそらく、セガワが足を止めたのだろう。そうなればかなり危ない状況になる。

 息を切らせながら走って、ついに馬の背中を視界に収めたマジメは、驚愕に足を止めてしまった。

 壁際に追い込まれてしまったセガワに、突進を仕掛けた黒馬が、衝突した壁をあっさりとぶち抜いてしまったのだ。

 幸いにも、間一髪で馬の進路から逃れることが出来たセガワも、転がった姿勢のまま目を開いていた。

 崩れた壁の向こうにはベッドがいくつも並んでいた。診察室のように、一つではないことからここはもう別の場所に思える。

 頭部を振りながらこちらに向き直った馬に、またしてもマジメは衝撃を受けた。

 馬の額には、一本の角が生えていた。

 長さ、太さ共に成人女性の指先から前腕ほどだろうか。黒いもやで構成されている体とは違って、黒い角だけには芯があるように思える。

 その角を見た瞬間、階段で発見した骸を生み出した張本人を理解した。

 ほとんど助走をつけないままでも壁を簡単に崩したように、馬の突進力とあいまって角の威力は相当なものだろう。溜めを作って走られてしまえば、分厚い鉄板すら貫通しそうである。

 とはいえ、接近しすぎるのもどうかとマジメは考える。馬の脚力は見た目通り、相当に強いと聞く。馬力なんて言葉もあるくらいだ。もし近づきすぎて後ろ足で蹴られでもしたら、その時点で大惨事だろう。骨は簡単に折れるだろうし、内臓も危険だ。

 離れすぎていても、近づきすぎてもいけない。適切な距離を心がける。言うのは簡単だが実行はほぼ不可能だ。

 立ち上がって身構えるセガワに、マジメは叫んだ。

「おい瀬川! 挟撃だ! 挟み込んで殴るぞ!」

 突然の大声に何事かと振り返ったセガワの、驚愕に満ちた視線が注がれた。

 馬の動向に集中していたようで、マジメの到着にはまったく気づいていなかったらしい。

 一言だけ叫んだマジメは、抱えた消火器を両手で持つと駆け出した。

 壁をぶち抜いて、一本道の廊下の先の部屋に侵入した馬の進路はほぼ決まっているようなものだ。壊した壁を通らなければこちらには戻ることも出来ない。ならばそれを利用することが出来る。

 マジメの動きに呼応して、セガワが鉄パイプを手に取る。同時に黒馬も床を蹴る仕草をして、角を見せびらかすように頭を振った。

 そのまま走り続けると、威嚇する馬がついに我慢出来なくなったのか、踏みしめた床が砕けるほどの脚力をもって弾丸のようにスタートを切った。

 気分はさながら闘牛士だ。まったく笑えない例えだと、口元を引きつらせる。

 リノリウムの床を軽々と砕いては迫ってくる馬の迫力は筆舌に尽くしがたいものがあった。今すぐにでも身を投げ出して射線上から退避したいくらいである。逃げようとする足を前に向かわせることだって一苦労だ。

 ぐんぐんと接近してくる馬に冷や汗が止まらないが、もう覚悟は決めている。

 音高く響く蹄とのすれ違いはほんの一瞬だった。

 胴体を右へ倒しつつ、両手で白い消火器をすくいあげるように振り上げた。タイミングはわずかに早いが、素人だということを加味すれば上出来だ。

 風を押しのけて振るわれる消火器の先端が、角を突き出して突進する馬の鼻面にぶち当たった。

 がつん、と確かな手応えと共に、角の軌道が少しばかりずれてマジメの左半身をかすめるように黒馬は通り抜けていった。

 幸いにもマジメに怪我はない。だが、衝撃に痺れた腕から消火器が離れて宙を舞った。

 白い壁にぶつかって落下した消火器だったが、拾う間もなくマジメは慌てて壁に背中を押し付けた。同時に風が吹き付けて、マジメは目を細めながら黒い影が視界を横切るのを見た。

 蹄の音がよく響く廊下で心底良かったと思う。おかげで黒馬が動くタイミングが手に取るようにわかるのだ。

 マジメを逃がした黒馬だが、もう一人が正面にいる。セガワを狙ってより加速する馬はそのまま突貫した。

 しかし、黒丸を撃滅してみせたセガワにとって、直線的な突進など児戯に等しい。

 半身になって馬の突進を回避すると、セガワはいつの間にか振るっていた鉄パイプで左前足を横から打ち据えた。

 打撃音はないが確かに命中した。しかし黒馬はなんてこともないかのように急停止すると、マジメたちに振り返って床を蹴る仕草をする。

「おいおいマジかよ。色付きでぶん殴られてんのに全然効かないのかよ……」

「色付き……?」

「んあ? ああ、その様子じゃ知らないのか……っくるぞ!」

 セガワの呟きに眉根を寄せて訝しんだマジメだったが、頭を振って突進の予兆を見せる黒馬に二人は一斉に駆け出した。

 距離を詰めてしまえば突進を避けることは簡単だ。流石に戦い慣れているだけあって、セガワの動きは迅速で、マジメはわずかに出遅れた。

 黒馬との距離を一気に詰めて、突進されてもほとんど被害を受けないようにするのが目的だ。だが、馬は突進する様子を見せず、むしろ待ち構えている風であった。

 それに気づいたのはセガワである。表情を険しくした彼は突如として反転するが、訝しげに見るマジメに気づいて、セガワは声を荒ららげた。

「小田原くん、戻れ! これは誘いだ!」

 この言葉に、反射的に踵を返そうとしたマジメだったが、既に黒馬は予備動作に入っていた。

 いや、元々予備動作だったのだ。誇示するように頭を振ったのも、今にも突進するかのように床をかく仕草も、全てが次の行動への布石と罠だったのである。

 突き上げるかのごとく振り上げられた黒馬の角は、マジメの腹部を狙っていた。

 せめて直撃だけは受けまいと、のけぞったマジメの黒シャツが臍付近まで二つに裂かれてその下の肌にも赤い線を刻んだ。

 鋭い痛みに顔をしかめるも、そのまま後方へと下がることに成功した。

 生死を分けたのは、セガワの声に反射的に足を止めたことだ。あのまま馬に接近していたのなら、マジメは今頃串刺しにされていただろう。

 歯噛みしながら腹部の傷にそっと触れると、わずかに血が滲んでいることが感じられた。

 危うく死ぬところだった。深い呼吸を繰り返して痛いくらいに脈拍する心臓を落ち着かせる。

「くそっ、厄介だな……。小田原くん、あいつ、考える頭があるみたいだ」

「え? そりゃあるだろう?」

「じゃあ聞くが、きみたちの言う黒丸がフェイントを使って殺しに来たか?」

「それは……確かにない。いつも直線的で、潰しにかかってくるだけだった」

「だろう? 黒丸は単純だったが、ほとんど同類のあの馬には知性がある。それも、罠を仕掛けるくらいの知性だ」

 死体を前にしても軽薄に笑っていたセガワが険しい表情で言う。それほど手を焼く相手なのだろうと身をもって理解したところだ。

 傍らに転がる白い消火器を拾い上げ、マジメは軽く腰を落とした。

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