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誰かが夢見るシロクロシティ  作者: 水島緑
オレンジ・パープル
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24

 気持ち良さげなヒイの寝顔を見ていると、マジメまで眠くなってくるのだから不思議だ。

 ときおりうなされるように表情を歪めるヒイの額を、その都度撫でて落ち着かせること数度。体感的にはもう一時間ほど経過しただろうか。

 眠気を誘うヒイの寝顔から視線を上げて、異常がないかロビーを見渡した。

 気分は子熊を守る親熊である。

 カウンターの裏や廊下の角、玄関先のロータリーなど、ロビーは目を向けて警戒しなければいけない場所が多い。その分だけ逃げ道も多いのだが、それでも疲労は溜まるものだ。

 このままも何も起きないでくれ、というのは、いささか無理な願いか。

「ん? 揺れてる?」

 長椅子を伝う振動に気づいたマジメがさっと視線を走らせる。見たところ周囲に異常はないが、振動は続いている。どこから揺れているのだろうと、すぐ傍の柱に触れると、一際大きく震えた。

 上からの振動だ。おそらく二階か三階。何かが起きていることは間違いない。

 すやすやと眠るヒイを起こすか迷ったが、何かあってからでは遅いので、気乗りしないものの起こすことにした。

 肩を揺すって呼びかけている間にも揺れは続いていた。いや、むしろ強くなっているように感じられる。

「んぅ……んん。あ……小田原くん」

「起きて、郡山さん。危ないかもしれない」

 眠たげな様子で目をこするヒイにそう言うと、彼女は戸惑いながらも頷いて大きく伸びをした。寝起きは悪くないらしく、彼女は素直に目を覚ました。

 どことなく恥ずかしそうに身なりを整えるのは、マジメに寝顔を見られたからだろうか。ヒイは照れながらも手早く服装と髪の乱れを直した。

「具合はどう? 顔色は良くなってるように見えるけど……」

「はい。ちゃんと休めたのでもう大丈夫ですよ。ありがとうございます」

 長椅子から起き上がってあくびを隠すヒイの顔を見つめて、言葉の真偽を確認してみる。確かに嘘は言っていない。言っていないが、無理をしているように感じられる。疲れも全て取れたわけではないのだろうから当たり前だ。

 疲労の色が濃いヒイに出来るだけ無理はさせたくないのだが、もうここも危ない。

「さ、ここから離れよう」

 振動に気づいて天井を見上げるヒイにそう言って、マジメは立ち上がった。

 しかし、それを待ち構えていたかのような一際強い揺れと、真上、頭上から何かの破砕音が轟いてきて、二人は天井を見上げた。

 何かが崩れる遠雷のような轟音に思わず身をすくませたヒイは、その拍子に体をふらつかせ、危うく転倒するところだった。

 万全にはほど遠いヒイの体調に歯噛みしたマジメは、彼女を支えながらロビーから遠ざかっていくのであった。



◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎


 思った以上に、ヒイの体調は芳しくなかった。

 ロビーから離れ、療養病棟とは反対側の廊下を歩いてすぐ、ヒイは立ちくらみを起こしたように壁に寄りかかってしまったのである。無防備に転倒することだけは避けられたが、先ほどまでの血色の良さが嘘のようなヒイの顔色に、マジメは自分の目が甘かったことを感じた。

 ヒイの体調不良はおそらく精神から来ているものだ。少し休めば回復するようなものではなく、ゆっくりと時間をかけ、落ち着いた場所で休まない限りきっと指先ほども回復しないだろう。

 呼吸も荒く、あまり焦点も定まっていない瞳を見る限り、マジメの見立ては大きく間違ってはいないはずだ。今は何よりもヒイには休息が必要だった。

 ヒイに肩を貸して半ば引きずるように歩くマジメの顔は、苦渋で満ちていた。

 何かがいるこの建物では落ち着いて休むことも出来ない。かと言って外に出てしまえば簡単に黒丸に捕まってしまうだろう。同じような理由で、距離のある光栄塾に戻ることも却下だ。

 一番良いのは近くに別の建物が存在していることだが、それもなかった。

 追い詰められている自覚はある。だからといってヒイを足手纏いだと切り捨てることは出来ない。

 彼女の体験を聞いて、彼女の苦しみを感じて、たくさん泣いた彼女がそれでも自分を助けてくれたように、マジメも決して彼女を見捨てるつもりはなかった。

 だから、しがみつくヒイの顔が無力感で満ちていて、今にも泣き出してしまいそうになっていても、マジメは彼女の気持ちを無視してひたすらに歩いた。

 客観的に見ても、最善だとは言えない判断だろう。彼自身にも自覚はある。

 それでも、彼女の手を離すことだけは出来なかった。



◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎



 いくら女の子といえど、人一人抱えて長い距離を歩くのは不可能だった。

 ずいぶんと長く歩いて、額に玉のような汗を浮かべたマジメに、心底申し訳なさそうな表情のヒイが休憩を提案した。

 それを受けて、素直に休むことにしたマジメは手近な扉を開けて中に入ると、そこにはおあつらえ向きにベッドが存在していて、マジメは一息ついた。

 白い部屋はヒイの病室と同じか、それよりもちょっと広いくらいの空間だ。

 真っ白い机やベッド、パソコンのように見える白い物体、部屋の奥にはいくつもの戸棚があり、おそらくここは診察室だろうと当たりをつけた。

 あまり力の入らないヒイをベッドに寝かせ、マジメは壁際のパイプ椅子らしき物体を引っ張り出すとベッドの脇に組み立てて腰を下ろした。

 枕元にヒイのスケッチブックを置いてから、額の汗を雑に拭ってゆっくりと息を整えた。

「ん……大丈夫ですか?」

「俺よりも、自分の体を心配して」

 顔色の悪いヒイがマジメを見上げて言うが、彼はにべもなく返すとヒイの目を手の平で塞いだ。

「ほら、今は休んで。動けるようになったらまた歩こう」

「……はい」

 悔しそうに唇を尖らせ、それでも大人しく従ったヒイが寝息を立てるのはそれからすぐだった。

 ここで少しでも長く休ませたいところだ。

 ここから先、ベッドなんて上等なものが存在しているかわからないのである。

 十二分に休むなら今しかない。できるだけ体力を回復して、今日もまた生き延びるのだ。

 夢の中で眠るというのもおかしな話だが、眠りに落ちたヒイを横目で見たマジメは、彼女を起こさないように嘆息した。

 思った以上にマジメも消耗しているようで、先ほどから横になりたい欲求が止まらないのである。しかし生憎とこの診察室のベッドは一つだけだし、別のベッドを探しに行くとしても離れるのは好ましくない。

 せめて気分だけでも、とパイブ椅子に全身を預け、半ばずり落ちながらだらしない座り方に変えたマジメはそのままの体勢でしばらく固まった。

 完全に気を抜くことは出来ないが、多少なりとも心身ともに休めるであろう。楽な姿勢でしばし瞼を閉じていたマジメだったが、危うく自分まで眠りそうになって慌てて瞼をこじ開けた。

 自分が思っている以上に疲れているみたいだ。

 呟いて、やはりため息をこぼした。

 あまりよくない状態だ。ヒイはまともに歩けないほど具合が悪いし、マジメも疲労が溜まっている。

 なんとか緊張感を保っているものの、精神的にも疲弊している今、耳をそばたてることもすら億劫だ。

 物音一つしなくなったということもあって、徐々にではあるがマジメの集中力は低下していった。

 そういえば、とだらしない格好のままマジメは振動が止んだことに気づいた。いつの間にか頭上から轟いていた音も消えている。

 静かだ。ただ静かならば良かったのだが、今、このタイミングで音が消えるのは不吉な予感しか想起させないのである。まるで嵐の前の静けさだ。

 だが、いくら神経を張り巡らせていても、聞こえるのはヒイの寝息だけだった。勘違いならばそれで良いのだが、捨て置くにはこの世界は危険だ。

 椅子から立ち上がって引き戸を開けようとした。

 ここにヒイを置いていくのは気が引けるが、どうしても気になってしまうのだ。ひとまず診察室付近を見て回ろうと立ち上がったのだが、やはりというかなんというか、手が止まってしまう。

 わずかに開いた引き戸の隙間から外を覗くと、一面には真っ白い壁が広がっている。体を横にずらし、右方向を見ようとしたところ、マジメの視線の先から足音が響いてきた。

 断続的な足音は、人間が走っているときのそれに似ている。

 徐々に音が大きくなっていることから、マジメに近づいているのは明白だ。

 より警戒を深めてじっと待つ。扉に体を隠しているし、音も立てていない。見つかることはおそらくないだろう。

 すると、わずかに開いた引き戸から視線を飛ばすマジメの目に、一つの人影が映った。

 ほんの一秒あるかないか、一瞬しか視界に入り込まなかったが、マジメは確かに見た。

 セガワだった。

 一瞬だったせいで顔までは見えなかったが、青い服装といい、ちらりと光った長物といい、十中八九セガワだろう。

 何故まだここにいるのだ、と眉を寄せたが、次いで響いてきた足音にマジメは身を固くした。

 凄まじい勢いで迫ってくる足音は、蹄の音にしか聞こえなかった。

 これは紛れもなく蹄の音だ。やはり、何かがいるのだ。マジメの表情に緊張が走り、彼は息を止めて目を凝らした。

 ほんの一瞬だった。

 マジメの目に映ったのは黒い影だ。霧のようなもやを纏い、丸みを帯びた体をしていた。だが、黒丸ではなかった。

 馬だ。丸っこい馬。その表現が一番的を得ている。

 蹄のついた足は四本。顔は見えなかったが首は長く、胴体も長い。

 ロータリー前や病院の廊下で見かけた、四つ一組のへこみは、あの馬の足跡だったのだろう。

 姿はほとんど黒丸と相違はなかった。なのに何故、黒馬は白い建物に入れるのだろうか?

 形が似ているだけで制限はないのかもしれない。もしそうなら、今下手に動くのは得策ではないだろう。駆け回っている馬に見つかりでもしたら目も当てられない。

「あ……」

 駆け回っていた? 違う。気づいたマジメはわすがに表情を曇らせると、ヒイに振り返った。

 黒馬の前に見たのは誰だったか。セガワだ。馬はセガワを追いかけていて、先に通っていったセガワは馬から逃げていたに違いない。

 となると、あの馬はやはり黒丸の性質を持ち合わせていると考えた方が良いだろう。おそらく、階段で発見した死体もあの馬の仕業に違いない。

 敵の正体はわかった。だが、どうすればいいのかわからない。

 ヒイには出来るだけ休んでいてほしいし、この診察室にいれは、少なくとも外に出ない限り誰にも見つからないだろう。

 マジメもここにいれば恐らく安全だ。ヒイが目覚めるまでマジメも休み、彼女が起きた後にこの病院から出ればいい。

 だが、あの無惨な死体が頭から離れないのだ。

 今、黒馬に追われているセガワも、あんな風に首なしの骸になってしまうかもしれない。だが、マジメとしてはそれでも良かった。

 良かったはずだった。

 なのに無性に動きたい。見捨てたくないと考える自分がどこかにいるのだ。

 時間稼ぎになるから捨て置いてしまえ。

 危険を冒してまで、大嫌いな人間を助ける必要は一切ない。

 そう考えている自分も確かに存在している。

 もしかしたら、どこかおかしくなっているのかもしれない。深々とため息を吐きながらマジメは頭を抱えた。

 そもそも選ぶ余地なんてないはずだ。セガワを信用することはないし、頼るつもりもない。

 ヒイを一人にする、なんて選択肢はないはずなのに。

 きっと、感化されたのだ。投げやりだったが、それでもマジメを助けようとしたヒイに、感化されてしまったに違いない。

 選びかねたマジメは救いを求めるようにヒイを見た。

 安心して眠れているのだろう。うなされることもなく、穏やかな寝息を漏らしている。

 失敗だった。

 ヒイを見るんじゃなかった。

 どうしようもなくて、マジメは立ち上がった。

 彼女は、ヒイはヒイであるからこそ、きっとセガワを助けにいくだろう。ヒイはどこまでも勇敢で、優しい少女なのだ。

 マジメは黒いパーカーを脱いで、ヒイの体に掛けた。これで少しはカモフラージュになるだろう。

 もう、止まらない。

 眠るヒイに背を向けた。

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