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誰かが夢見るシロクロシティ  作者: 水島緑
オレンジ・パープル
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 控えめながらも明朗で、純情可憐な振る舞いを見せてくれるヒイには、似つかわしくない言葉だった。

 目の前の少女が何を言っているのか、全くわからない。わかりたくなかった。

 今にも泣き出しそうなほど表情を歪め、懺悔する神徒のように唇を噛み締めたヒイはそれでも、目を見開いて固まるマジメの瞳から、目を逸らすことはなかった。

「な、何を言ってるんだ……? 意味が、わからないよ」

 声が震え、目眩がした。絞り出したような声は小さかったが、静かな病室には十分響いた。

「わたし、現実では体の弱い子供なんです。それこそ、この病室に入院するくらい」

「え……? じゃ、じゃあここは」

「はい。わたしが入院している病室です」

 先ほどの言葉とは別の衝撃を受けて、マジメは思わず病室を見回した。

「待ってくれ。今の郡山さんは健康そのものじゃないか。走ったり、長い間歩いたり、体が弱いようには見えないよ」

「それはここが現実じゃないからですよ。夢の中だから自分の思うままに体が動かせるんです。現実のわたしは、学校に行くのだって一苦労なんですよ?」

 寂しそうに笑ったヒイに言葉を失った。

 到底信じることは出来ない。出来ないが、マジメは現実のヒイを知らない。それに、彼女の表情が真実だと雄弁に語っていた。

「わたしは小さい頃からずっと体が弱くて、あまり学校にも行けなかったんです。この病院にはいつもお世話になっていて、具合を悪くしてちょうど入院しているときでした。暇潰しに絵を描こうと思って、母にスケッチブックを買ってもらったんです。クレヨンや色鉛筆も一緒に。それで、いざ描こうとしたら、いつの間にか眠ってしまって……。目が覚めてから、改めてスケッチブックを開くと見覚えのない絵が描いてあって……」

 それが最初の予知だったらしい。

 それからというもの、幾度となく身に覚えのない絵がスケッチブックに残るようになり、ある日、ヒイは酷い交通事故の絵を描いたという。

「また知らない絵が描いてあって、怖くて。気を紛らわせようとテレビをつけたんです。そうしたら、絵と同じ映像がニュース番組に映っていて。そのとき初めて、わたしは未来の出来事を描いていたんだ、って自覚したんです」

「そんなことが……」

 マジメには未来を見る力はない。だから曖昧に頷くほかなかったのだが、ヒイにはそれでも満足だったらしい。少しだけ微笑んだが、すぐにそれも陰ってしまった。

「でも、それまでは全然、なんてことのない未来予知だったんです。明日のご飯とか、誰がお見舞いに来てくれるかとか、本当にそんな予知だったです。だけど、その事故の予知をしてから……わたしの見る未来は必ず人が死んでしまうものになってしまったんです」

 なんとかしたいと思っても、虚弱な体ではどうすることも出来なかった。

 毎日のように見てしまう人の死。それが、眠るように息絶える人々の未来だったらどれほど良かっただろう。しかしどれもが、むごい死に方だった。

 どこまでも凄惨で、救いようのない死に方。それに重なる自らの虚弱体質は、常にヒイの心を蝕むようになっていった。

 もしもマジメが人の死ぬ未来を見たとして、自らが虚弱であったとしたら。きっと無力感で打ちひしがれてしまうに違いない。

 人が死ぬことはわかっている。わかっているのにどうにも出来ない。それはどれほどの苦痛になるのか想像もつかなかった。

 そんな日々の中で、無力感に苛まれながらもどうにかしようとヒイは足掻いていたそうだ。

 それでも限界は訪れる。

 信じてもらえないだろうと予知能力このことを両親に話していないヒイには、相談出来る相手がいなかった。まだ年端もいかない少女は一人で抱え込んで、徐々に心が病んでいった。それこそ、自分が未来を見るから人が死んでしまう、と思いつめてしまうほどに。

 その頃になると、未来を見ることすら苦痛で仕方がなかった。

 何度もスケッチブックを手放そうと試みたものの、次は助けることが出来るんじゃないか、次こそは救えるんじゃないか、そんな希望が捨てられず、ずっとスケッチブックを持っていた。

 期待と絶望の板挟みになっているときに、白黒の世界に誘われたのである。

 残酷ではあったが、この世界は現実よりもずっとヒイに優しかった。

 夢の世界であるためか、現実の虚弱さはどこにもなく、自由に走ることが出来た。

 大喜びで走って走って、翌日の朝には筋肉痛で動けなくなっても、その日の夜にはまた目一杯走った。

 自分以外はいない寂しい世界だったが、いつしかヒイはこの世界に夢中になっていた。引き出しの奥に、スケッチブックを忘れるほど。

 自由に歩き回れるのは楽しい。しかし、一人というのはひどく寂しかった。動くことに満足しつつあったヒイは、またしてもスケッチブックを開いてしまったのである。

 動けるようになったから、今度は助けられるのではと錯覚して。

 結局、夢の中でしかヒイは動けなかった。夢の中の、白黒の世界でなければヒイは何もすることが出来なかった。何も出来ずにまた、人の死を見てしまった。

 助けられると期待した分だけ余計に傷ついて、ヒイの限界は訪れた。

 やっぱり、自分が未来を見るから人が死ぬんだ、その思い込みはいつしか彼女の中で真実となっていき、ついに彼女は自らの命を手放す覚悟をした。

 いや、覚悟ではない。諦めたのだ。

 最後に、死ぬ気で当たれば誰か一人くらいは救えるのではないか、と考えて、出会ったのがマジメだった。

「本当に死ぬつもりだったんです。もういいやって諦めて。これで最後って思って。でも、どうせ死ぬなら代わりに誰かを助けられないかなって思って。それで、スケッチブックを開いたら、小田原くんが見えたんです」

「そんな、ことが」

「はい。わたし、小田原くんが助かればそれで良かったんです。小田原くんを助けて死ぬなら、それもいいかなって」

 でも、と続けて、いつしかうつむいていたヒイはマジメを見上げて、静かに微笑んだ。

 その笑顔は息が詰まるほど美しくて、目を見開いたマジメはみじろぎ一つ出来なくなった。

「小田原くんがわたしを助けてくれました。小田原くんも生きていて、わたしも……。わたしも、自分が見る未来は絶対じゃないって知ることが出来たんです」

 わたしが助けるつもりだったのに、逆に救われちゃったんです。冗談めかして優しく言ったヒイに、何も考えられないままのマジメは声を出せなかった。

 何も知らなかった。当然といえば当然で、しかしマジメにしてみれば、背中を預け合う間柄であるにもかかわらず、何も知らなかったと反省するしかなかった。

 人の死が、どれほどの負担になるか。つい先日、それを身をもって知ったマジメからすれば、ヒイがどれだけ傷ついたのか想像もつかない。いや、想像だけで片付けていい話ではないのだ。未来が見えるのにもかかわらず、誰一人として救えずに死んでいったのだ。体が弱い上に心にまで重荷が加わってしまえば、それだけ思いつめるというものだ。

 ましてや、ヒイは優しすぎるほど優しい。未来を見てしまった、まあいいか。そんな風に割り切れないからこそ、ヒイの心は日に日にすり減っていたのだろう。

 だからこそ、マジメは自分のおかげではないことを知ってほしかった。

「なんて言ったらいいかわからないけど……その、俺のおかげとか、そういうんじゃなくて。俺のおかげじゃなくて、キミが、郡山さんが自分で……」

 言いたいことが口から出てこない。もどかしくて、頭をかき回した。

「だからその、俺が何かしたってわけじゃなくて、むしろ、俺は……。キミの、キミが俺を助けてくれたんだ。俺じゃなくて、キミが、郡山さんが救ってくれたんだよ。郡山さんのおかげてこうして生きてるんだ。今まではダメだったかもしれない。でもこれからは、俺を助けてくれたように他の人だって助けられるよ」

 何の根拠もない言葉だと、言ってしまってから後悔した。何様のつもりで、何をわかったような口ぶりで言っているのだろうと自問することを止められなかった。ヒイが背負っているものは、ほんの数日一緒にいただけのマジメでは代わりに背負うことも出来ないだろう。でも、それでも、心が耐えられないほどの苦痛を、少しでも取り除きたかった。

 その意図を正しく理解してくれたのかはわからない。大きく見開いた瞳からこぼれる雫の理由も、マジメにはわからなかった。

 だが、彼女が泣き止んだその後で、また綺麗な笑顔が見られたのなら、乏しい語彙を駆使して頭を悩ませた甲斐がある。

 どちらにせよ、マジメが出来ることは言葉をかけることしかないのだ。

 静かに涙を流していたヒイが、顔を両手で覆って大声で泣き叫ぶようになるまでそう時間はかからなかった。

 触れることさえ憚られる今の彼女に、マジメは近づくことも躊躇われて、口を開きかけては何も言葉に出来ず、ただ待つことしか出来なかった。

 自分が傷つけてしまったのかと、自問自答の時間は長く続いた。

 次第に泣き声は弱まっていき、嗚咽だけが響くようになった病室は元の静けさを取り戻していった。

 必死に目元を拭うヒイを止めようとして、マジメは動けなかった。泣かせてしまった。ただそれだけのことがとんでもない大罪に思えた。

「ごめっ……ごめんなさい。もう、大丈夫です」

「あの、俺、泣かせるつもりはなくて……ごめん」

 うなだれたように頭を下げたマジメに、ヒイは慌てて首を振った。目元は赤く、鼻声ではあるがその表情はすっきりとしているようだった。しかしうつむいたマジメには見えていなかった。

「ち、違います! わたし、悲しくて泣いたわけじゃないんです! あの、わたし、自分のことを誰かに話すのは初めてで……父にも母にも話したことなくて。ずっと一人で悩んで、苦しくて。だから本当に嬉しかったんです。嬉しくて、泣いちゃったんです」

 嬉しかった。そう言ったヒイはマジメに近づいて、彼の両手を握った。

「小田原くんがああやって言ってくれて、慰めてくれて、そんなこと今までで一度もなかったから……」

「慰めで言ったつもりじゃ……」

「はい、わかってますよ。大丈夫です。小田原くんが伝えようとしてくれたこと、ちゃんとわかってます。小田原くんはわたしが助けたって言いましたけど、やっぱり逆ですよ」

 大切なものを包むように、ヒイはマジメの手を優しく握った。乱れた前髪の間から見える涙の跡をそのままに、優しく微笑んだ。

 その笑顔は今まで見たどの笑顔よりも透き通っていた。どんな言葉でも言い表せないほど綺麗で、息を呑むほど可憐で、ただ見惚れることしか出来なかった。

「小田原くんの言葉で、わたしは救われました。ありがとう」

 マジメにはわからなかった。どうして自分がヒイを救ったことになるのか、何が彼女を助けたのか。わからないが、今彼女はマジメが求めた笑顔を浮かべている。ならばそれで構わない。ヒイが笑顔でいられるのならそれでいいのだ。

 ヒイの苦悩を理解することは出来ない。ヒイが語り尽くしてくれてもその表層でしか共有出来ないであろう。そういう意味では、助けられたマジメがもっとも適任だったのかもしれない。

 照れた様子で乱れた前髪を直すヒイは、今まで以上に明るい表情を浮かべていた。この病室に来た当初の緊張も思い詰めた様子もさっぱりと消えているようである。それはきっと、彼女が言った通りに救われたからなのだろう。積もりに積もった心の重荷が全て消えたわけではないのだろうが、それでも楽になったようだ。だからこそ、こうしてヒイは笑っているのだが、マジメは自分が何をしたのか、あまり理解していない。

 彼はヒイの話を聞いて、拙いながらも自分の感じたことを彼女に伝えただけなのだから、無理もない。

「もうここに用はないかな……。うん、もう大丈夫。じゃあ小田原くん、行きましょ?」

 わずかに赤みの残る頬に笑顔を浮かべ、ヒイはマジメに手を差し伸べた。

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