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「おじいちゃんが勝手に決めてることなんだけどね。杉浦学園に、私と同い歳で学年一優秀な男がいて、生徒会長と寮長をやってるって。その人が高時祐真なんだけど、おじいちゃんがひどく気に入っちゃって。相手方も了承してるらしいの」
それを聞いた涼は、
「そんなもん口約束だろ? 踏み倒しちまえよ」
と彼らしいワイルドな意見を口にする。
麻穂は首を横に振った。
「ううん。私の父も、祖父の娘である母と学生の頃から婚約者として結ばれててそのまま結婚したの。ゆくゆくは杉浦家を継ぐ人間にって」
「麻穂は一人っ子なのか?」
麻穂は黙って頷いてみせる。
あちゃー、と涼は額に手をついた。
「だからね、私は高時祐真の婚約者に相応しくない点を見つけるために、この学園に入り込んだの。おじいちゃんも、どうしようもない欠点が見つかれば婚約解消をを認めてくれると思って」
「高時のあら探しか。おもしれえな」
涼はニヤッと笑う。
麻穂はふぅと大袈裟にため息をついた。
「転入二日目でなんとか接触できたけど、あんなナンパ野郎絶対に嫌!」
高時のことになると妙に声を張る麻穂を、珍しそうに眺めながら涼は言う。
「でも、今日はその高時に助けてもらったんだろ?」
「かなり不覚なんだよね。そもそも高時祐真が一緒についてきたりするから……」
ぶつぶつと祐真への不満を言い出す麻穂。
涼はまた、疑問に思った点を尋ねる。
「高時は麻穂が婚約者だって気づいてないのか?」
「名前を言っても顔を見られても反応がなかったし、理事長の孫娘としか聞いてないみたい」
「ふうん。お前、気に入られちゃったんじゃん?」
「なんで?!」
おかしそうに笑う涼に麻穂は食いついた。
「だって、あのモテ男・高時祐真が寮まで送ってくれるなんてさ」
涼は思ったことを素直に口にした。
「どうせ誰にだってそうしてるのよ」
麻穂はふんとそっぽを向く。
「なんでそんな意識して高時を嫌おうとするのさ? 婚約者なんだから、好きになっちまえば早いだろ?」
涼の言葉に、麻穂は尋ね返した。
「涼は恋したことないの? 私は自分で選んだ相手を自分で好きになりたい」
麻穂の真剣な眼差しに、涼は真顔で「恋ねぇ」とつぶやく。
「俺は中学からずっと女の子やってるから、恋はしようがねえからな。小学生の頃なんてガキだったし」
そう語る涼の前で、麻穂は今更になって頬を赤らめて言う。
「……あのさ、やっぱり服着てもらえないかな? 目のやりどころに困るって言うか」
「ああ、悪い」
ジャージの間から覗く筋肉は確かに男性のもので、麻穂は先ほどか気になって仕方がなかったようだった。
「とにかくさ、お互いの秘密も分かち合ったわけだし、これからも仲良くしようぜ」
涼は再び偽のブラジャーを着け、女の格好に着替え終わると、髪をほどいて麻穂に右手を差し出した。
こうやって見ると髪の長い普通の女の子。しかしよく見ると、骨ばった手や太い首筋が分かる男の子。
自分のおかれている状況も相当大変だと思っていたが、涼もなかなか大変なところに身をおいているんだなと麻穂は思った。
そして涼の手を握り返す。
初めて触れ合った涼の手は、すっぽり自分の手を包み込むほど大きくて、温かかった。
「よろしく、お願いします」
「よろしくな。隠し事してねえと楽でいいや」
涼は片方の口角を上げて、ニッと笑った。
彼の晴れた表情をを見届けてから、麻穂は自分のベッドにもぐりこんだ。
「あぁー」
ベッドに全身を任せて、麻穂が気の抜けた声をあげる。
「おいおい、なんて声出してんだよ。高時のこと悩んでんのか?」
涼は自分の机に向かって、バックの中身を整理しながら返事した。
「うん」
布団に顔をうずめているのか、麻穂からくぐもった返事が届く。
「涼お姉様が聞いてあげるぜ」
「お兄様でしょ」
ふざけている涼に、麻穂は飛び起きてツッコミを入れた。
しかし元気になったのはその一瞬だけ。またしゅんとなり、悩みを吐き出した。
「やっぱりさぁ、高時祐真にお礼を言うべきだよね……いくら嫌な奴でも、かばってくれたわけだし」
「麻穂はとことんいい奴だな。気にするこたねぇよ。喧嘩はこの歳の男にとっては仕事みたいなもんだし」
涼はいつも通りの投げやりな口調で話すが、内容は親切なことを言っている。
麻穂は涼の意見も考慮したが、まじめな彼女のこと、やはりお礼を言おうと決心したようだった。
「やっぱり私、筋は通すところは通さないとダメだと思う。お礼は言う。で、それから悪いところを探す!」
「頑張れよ。応援だけはしてるぜ」
涼のひねくれた言葉にも、麻穂は「うん」と頷いて決意するのであった。
翌日。
学園は雨に包まれていた。季節は秋、冬に向かって一雨ごとに寒さを増していくようだった。
麻穂はいつものように寝坊している涼を叩き起こしてから、急いで食堂へ向かい、朝一番の早さで寮を出た。
寮と学校はそう遠くはない。一日で覚えた通学路を一人でたどる。
今頃涼は寝ぼけながら着替えてるところかなと考えると、自然と苦笑いが浮かんでくる。おいてきてよかったのかな、と。
でも今日は祐真と話をしたかったから、朝一で学校に向かっているのだった。
祐真は生徒会業務で部活には参加してないと涼から情報を得ていたので、このくらいの時間に校門で待っていれば、祐真が早起きでも会えるだろうと思っていた。
雨は霧雨に変わり、勢いを弱めている。
麻穂は傘を差して校門の前で待っていた。
登校する生徒が増えてきて、雪乃も登校してきた。何をしているのか尋ねられたが、涼を待っているのだと言い訳して難を逃れた。
時折姿を見せるクラスメイトたちとも軽く挨拶を交わしていると、ついに目的の人は現れた。
傘を差してまっすぐこちらへ歩いてくる祐真。彼を認めると麻穂は足を踏み出した。
「高時……」
「祐真くーん!」
彼の名を呼ぶ麻穂の横から、麻穂より長身の派手な色の傘を持った女子生徒が現れて、麻穂を追い抜いて祐真に挨拶をした。
「祐真くんおはよう」
「おはよう」
麻穂はその場に立ち尽くしてしまったが、一瞬祐真の視線がこちらに来たのを見逃さなかった。この人は確実に、私が今ここにいるということに気づいている、麻穂はそう確信した。
「朝から祐真くんと一緒になれちゃうなんてラッキー! いつもこの時間なの?」
「いつもはもう少し早いかな。生徒会の仕事があるから」
弾けるような声を上げる女子生徒は、祐真の横にぴったりつくと、彼の前で立ち尽くす麻穂に視線をやった。
「……知り合い?」
祐真の顔を見上げて女子生徒が尋ねると、祐真は笑って首を傾げた。
「そういえば、昨日図書室で会った子に似てるな」
麻穂は祐真の言葉に目を見開いた。薄い微笑みを浮かべる祐真と、向き合ってるはずなのに視線は交わらない。
二人の間に女子生徒が割って入った。麻穂は咄嗟に彼女を見上げる。
「ちょっと、一回会ったくらいで知り合い面するなんておかしいんじゃないの? 祐真くんだって迷惑だよ」
麻穂はカチンときて口を開く。
「わっ、私は昨日この人と……」
「うん、迷惑だね」
事情を説明しようとする麻穂の言葉をさえぎるようにして、祐真が女子生徒の言葉を全肯定する。
麻穂は驚いて息を呑んだ。
「ほらぁ。何組の子か知らないけど、まとわりつかないでよね」
そう言い捨てた女子生徒と祐真が、並んで校舎へ去っていく。
麻穂の手で、自然と作られた拳が震えていた。
祐真に近づきたくないはずの自分がお礼を言おうと思っただけなのに、彼にまとわりつく人間だと勘違いされた屈辱。彼にに他人のふりをされた悔しさ。
そしてそれらに勝る理由の分からない悲しさが、麻穂を支配していた。
麻穂が下を向いたまま立ち尽くしていると、後ろから能天気な涼の声が聞こえてきた。
「はよー。って麻穂、こんな所で何してんだよ」
涼の声に麻穂が顔をあげる。その顔を見て、涼はぎょっとした。
「ど、どうしたんだよ、腹でもいてえのか?!」
アワアワと挙動不審になる涼を呆然と見つめて、麻穂は自分の頬に手をやってみた。
「あれ、涙だ……おかしいな、ムカいてるはずなのに」
涙声になる麻穂に、涼はおそるおそる尋ねた。
「なんだ? 何があったんだ?」
「なんでもないんだけど……ホントに大したことじゃないんだけど……」
麻穂は鼻をすすりながら、辛うじて言葉をつむぐ。
二人のそばに、昨日職員室で出会った大柄な男性教師が現れて、遅刻しそうな生徒たちを大声で叱咤していた。
「コラァ! お前ら遅刻するぞー!」
「うっせぇ! 今それどこじゃねーんだよ!」
涼は麻穂の顔を覗き込みつつ、教師に怒鳴り返す。
「大丈夫、早く教室行かなきゃ」
「麻穂がよくてもあたしがよくねえよ」
怒鳴り返されて驚いている教師を尻目に、涼は片手を麻穂の肩に置いた。ぐいと顔を寄せられて、麻穂は一瞬抱き寄せられたような感覚がして緊張したが、涼には何の気もないようだった。
麻穂は涙を拭い、至近距離で涼を見つめ返した。
「ムカついてんだろ? 話してみろよ」
そう涼が麻穂に迫ったときだった。
「こんなところでイチャついてんじゃないよ」
何者かの声と共に、力強い容赦のない拳が涼のみぞおちに下される。
「なっ」
完全に予測外の攻撃だったせいか、涼はまともにそれを食らってしまい、バランスを崩してふらついた。彼の手から傘が滑り落ちる。
「涼!」
麻穂が「大丈夫?」と、慌てて涼の背中を撫でてやる。
「園山ぁ! 何しやがる!」
振り返った涼が叫んだ相手。その攻撃の主は涼の予想通り、担任であり彼のいとこである園山みことだった。
恐らく生徒指導の応援として校門に駆り出されたのだろう。
「園山先生、おはようございます……」
園山の過激な登場シーンに若干引いた麻穂は、とりあえず挨拶だけはとたどたどしく口を開いた。
そんな二人に、園山は一言言い放つ。
「おはよう、このバカップル」
涼が園山を睨んで舌打ちするのと、麻穂が頬を赤くさせるのはほぼ同じくらいのタイミングだった。
園山は麻穂の反応を見てニィッと笑った。それを涼も確認して、困ったように目を細める。
「いやだなぁ園山センセイ。あたしたちは“女の子同士”ですよ」
「そうだな、悪い悪い」
涼の演技ぶった振る舞いに、一切悪びれた様子を見せずに園山が返す。
恐らく園山は麻穂のこの反応を見て、涼が自分の正体を麻穂に話したのか確認したのだろう。昨日涼が正体を明かすに至った経緯には、園山の後押しがあるとみて間違いないようだった。
先程まで涼に気圧されていた教師が口を挟む。
「園山先生、助かりましたよ。片岡のやつ、俺の言うこと聞きやしないんだ」
「いつでも呼んでください」
曇りのない爽やかな笑みで園山が応える。
園山は教師間ではそういう顔をしているのかと、麻穂は感心してしまった。
「マジ腹いてぇ。朝食のパン全部出るわ」
「おら、早く教室行け。私はちょっと遅れるから、朝のショートホームルーム勝手にやっとけって、日直に言っとけよ」
腹をさする涼の心配など一切せず、園山は二人を校舎へ急がせる。
去り際の涼に、男性教師が仕返しとばかりに言う。
「片岡! お前美人さんなんだから、ちょっと大人しくしてればモテるぞ」
「余計なお世話だ!」
涼はそう一喝してから、麻穂の手を引いて校舎へと急いだ。
自然と掴まれたその手を、麻穂はまじまじと見つめてしまう。
校門からしばらくまっすぐ進み、玄関へたどりつく。突っ切った道の左右に広がる校庭は雨により泥だらけで、今日は使い物にならなそうだった。
麻穂が黙ったままつながれた手をずっと見つめていると、涼が振り返って尋ねる。
「どうした?」
「いや、なんでもないんだけど……」
彼があまりにもスムーズに手をとるものだから、それは照れたり遠慮したりするのが不似合いに思えて何も言えなかった。
しかし、涼は麻穂の視線の先をたどるとすぐに手を離した。
「わりぃ」
涼が謝る。それは「本当は男性なのに、勝手に女性の手を取ってしまった」ということへの謝罪だったのだろう。
それを感じ取った麻穂は、自分の手のひらや指先に残る温もりを感じて、心臓の高鳴るのを感じてしまう。涼が本当は男の子だということを改めて意識させられる。
「あ、園山先生以外の先生って、涼の性別のこと知ってるのって?」
「ちらほら居るよ」
先程校門にいたあの男性教師は、恐らく涼の性別を知らないんだろうなと麻穂は思った。
涼が美人に見えてしまうのは麻穂にも分かる。麻穂も涼が男だと知らなかったときに、彼に美人だと一生懸命言っていたのだから。顔立ちが整っていることや肌が白いこともあるだろうけど、それ以上に男らしさからくる凛々しさがあった。
二人はそれぞれ傘を畳んだ。
麻穂の今朝の話を聞いた涼が行動を起こすのは、その昼のことだった。