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みんなを見送るとすぐさま、無人になった寮に戻った。
年末年始休みのように生徒がいなくなるので、食堂のおばさんたちや管理人も続々と帰っていく。
部屋に戻ると涼は女子制服を脱ぎ、荷物にまとめる。
室内を見ていない他の部屋の人々はまったく知りようもなかったが、今涼たちの部屋は、すぐにでも引越しが出来そうな状態である。ダンボールが二箱、肩にかけられる大きなバッグが一つ。空になった二段ベッドの上段。何も置かれていない勉強机。
麻穂の私物だけが取り残されたように、今も部屋の中に置かれている。
男女が一つの部屋で暮らす上で涼と麻穂が決めた、いくつかあるルールの一つ。着替えない方はトイレの個室に入って待つ。
涼の着替えを待っていた麻穂が、個室から出ると。
「麻穂、ちょっと手伝ってほしいんだけど」
そう言う涼の格好は、男物のズボンにシャツ。もちろん、胸に膨らみもない。
長い髪がかなり不自然だ。
そんな涼がハサミを手に、麻穂に頼んだことは。
「切ってくれ」
麻穂は慌てる。
「えっ。私、人の髪なんて切ったことないよ!」
髪を巻いたりまとめたり、ヘアアレンジするのは好きだけれど、それと切るのは全く違う。
涼は苦笑する。
「いや、別に完璧にヘアカットしてくれって頼んでるわけじゃねえよ。適当にざっくり長さを切って、少し縛れる程度にしてくれたらいい」
そう言うと涼は髪を低い位置で一本にしばり、髪の毛先の方もいくつかのゴムでしばって、髪が散らばってもいいように下準備をする。
「ここを出たら男で通すから。男子の格好で、こんだけ長い髪は流石にまずい」
言われるがまま、麻穂はハサミを受け取る。
椅子に座った涼の背後に回って、手元が狂わないように慎重に刃を開く。
杉浦学園に転入することが決まってから伸ばしていたという髪。麻穂もヘアアレンジがしたくて何度も触らせてもらった。
それが今、落とされた。
女の子のそれとはもうごまかしようのない、太さがあって骨ばった首筋があらわになる。
涼が最初に言った一言は。
「あ……頭が軽りぃ!!」
だった。
衝撃的な軽さだったのか、目を見開いている。
それもそうだろう。涼の髪の長さなら、まとめればかなりの重さになるはず。それを四六時中頭からぶら下げていたようなものなのだから。
肩に落ちた毛を払うと、麻穂の机上にある鏡で確認する。
「ま、許容範囲だろ」
少し髪の長い男の子が、邪魔で結っている、くらいには見える。
それに、格好が完璧に男の子のそれなので、疑われようもない。
麻穂は涼が男の子の格好をしているのを見たのなんて、片手で数えられるほどしかない。
いつもドキドキしていたのも、沢山おしゃべりをしたのも、好きだと告白したのも、もっぱら、髪が長くて女の格好をした涼だったわけで。
完全に男の子に見える今の見た目の涼には、なんだか慣れない。妙にソワソワしてしまう。
言っては失礼だと思うので、絶対に言わないけれど、「涼って、やっぱり男の子だったんだ」と思う。
涼は自分の物や痕跡を何も残していないか最終確認すると、ある人に電話をかけ「準備できたから」とだけ伝える。
そんな彼を終始じっと見ていた麻穂。これが涼の本当の姿なんだ、と確認するかのように。
「……どうしたんだ?」
不審がって手を伸ばしてきた涼に、麻穂は反射的に体がビクッと動いてしまう。
首をかしげる涼。
赤面した麻穂は、視線をさまよわせるしかない。
「あ……、ごめんね。なんか、いつもの涼と全然違うから、ちょっぴり緊張しちゃって……」
照れ笑いを浮かべながら理由を口にする麻穂に、涼は「おいおい」と呆れ笑いを浮かべるしかない。のばした手を引っ込める。
そういう風にいつもしている表情や仕草でも、いつもの涼と全然違う感じがする。男の子と部屋に二人きりでいるみたいで、なんだか緊張してしまう。男の子と部屋で二人きり、というのは麻穂が転入してからはずっとそうだったはずなのだけれど。
涼は、「あ、そうそう」と思い出して、耳に麻穂からクリスマスにもらったイヤーカフをつける。
男らしい涼に本当によく似合っていて、麻穂はそう伝えたかったのだけれど、なんとなく言葉が上手くでてこない。
するとその時、建物の外から、クラクションが鳴らされる音がした。
「園山、来たな」
先程電話をかけていたのは、迎えを頼んでいた園山だった。
涼はジャンパーを羽織る。それは随分厚手のもので、北海道でのことを想定しているのは間違いなかった。
「園山に空港まで送ってもらう。昼過ぎにもう一度園山が寮に来るから、悪いけどこのダンボール箱を渡してくれ。あいつが実家に送ってくれる手はずになってる」
着々と進んでいく、退去の手順。
麻穂はその説明を聞きながら、ようやく実感を取り戻してきた。
男の姿の涼に慣れず、気持ちがふわふわしてしまっていたけれど、もうあと数分後には涼は目の前からいなくなる。
それを自覚すると、急に胸が忙しなく鼓動を刻み出す。
「寮の前で乗り降りすると人目につくかもしれないから、近所のあの公園の前に車を停めてもらってるんだ。麻穂も、見送りはいい。ここを出た瞬間、女の子でも、片岡涼でもない存在にならなきゃいけないから。麻穂と一緒にいるところを誰かに見られたら、まずいからさ」
少しだけ寂しそうにそう説明した涼は、麻穂に正面から向かい合う。
「麻穂……。俺、必ず帰ってくるから。待っててほしい」
麻穂はじっと涼を見つめ返す。もう、しばらく涼を見られないから。目に焼き付けるように。
写真一枚ない涼。部屋からも、学校からも、そこにいた痕跡を一切残さずいなくなる。
もし戻ってくるのに失敗したら、なんて想像すると怖くて送り出すことができなくなりそうで、考えられない。
「うん。信じてるよ。涼が頑張る間、私も頑張る。そばにいられなくても、気持ちは一緒だよ」
麻穂は頑張って笑って見せる。泣き顔でお別れなんて、後味が悪いから。
「あ……それで、さ。今の携帯はすぐ解約するから、何かあったら遠慮なく園山に言ってくれ。それから、周りの奴らに俺の話をされても、無理にとぼけたりとかしなくて、いいから。あと、忘れてる物とかがあったりしたら、俺に確認しなくていいから、すぐ処分して」
これできり良く部屋を出るのかと思いきや、急に、いくつか事務連絡をしはじめる涼。なんとなく、どこか落ち着かない感じがする。
「園山先生が待ってるんじゃないのかな……」と麻穂が心配しはじめたとき。
涼はいつもの声の半分くらい小さな声で、
「最後に、麻穂に触れても、いいか?」
と視線を逸らしながら訊いた。
あまりに刺激的なセリフに、麻穂はビクッと肩が跳ね上がるのを感じた。
確かに先ほど、手を伸ばそうとした涼を避けてしまったから、彼は遠慮していたんだろう。
でも、もう最後だと思うと、断ってでも触れておきたかったようだ。
顔を真っ赤にしてうつむいた麻穂は、蚊の鳴くような声量の「うん」を、喉からひねり出す。
それをなんとか聞き取った涼が、そっと体を寄せる。
胸に強く抱きしめて、その感覚を、熱を、忘れないように記憶しようとしているかのように。
涼の腕に包まれて、麻穂は「いつもの涼だ」と感じる。これまで、トラブルにせよ意図的にせよ、何度か涼にこうして抱きしめられることがあった。そのときと、一緒の感覚がする。涼の香りがする。
麻穂も遠慮がちに涼の背中に手を回す。
どのくらいそうしていただろうか。
窓の外から、一際大きなクラクションの連打音がして、二人ははっと体を離した。
「やべ……園山がブチ切れてる」
園山の鉄拳制裁を思い出して、涼の顔色が悪くなる。
涼は慌てて荷物を取った。とりあえずすぐに必要なものや勉強用具だけを詰め込んだ、肩にかける大きなバッグ。
「じゃあ、麻穂。行ってくるから」
さよならは言わない。ちょっと寮から出るくらいの、軽い挨拶。
「うん、行ってらっしゃい」
麻穂も、笑って手を振る。
涼は玄関を避けて、部屋の窓から外に飛び出す。いつも、夜に抜け出すときと同じように。
麻穂は彼の姿が見えなくなるまで見送って、姿が見えなくなってからも、しばらくその窓を開いたままでいた。
まだ、体に涼の熱と、抱きしめられた感覚が残っている。手には、涼の背中の硬い感覚を思い出せる。それをなるべく忘れないように、もうしばらく、このままでいたかった。




