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寮の部屋に戻った麻穂は、涼の行動に驚いた。
ただ目を丸くするしかない。
「涼……何してるの?」
ぱちぱちとまばたきしながら問う彼女に、涼はさらっと、
「荷造り」
と答える。
そう、帰ってくるなり涼はてきぱき自分の荷物をまとめ、ダンボールや大きなバッグに次々と私物を詰めだしたのだ。
「あ。俺が持ってきたゲーム用のテレビ、麻穂が使うなら置いていくけど? この部屋テレビ線ないからテレビはうつんねえけど」
そう言いながら自分のゲーム機、ソフトをダンボールに手際よくしまっていく。
麻穂はこの流れに全然ついていけていない。
「ね、ねぇ。なんで荷造りなんてしてるの?」
忙しなく動き回る涼の腕をつかみ、不安な顔をした麻穂が上目遣いに問いかける。
ようやく手を止めた涼が、「何も分かってないのか」と説明してくれる。
「俺はなるべく早くここを去るよ。まず一番に、高等部の入試の準備をしなきゃならない」
「え……でも涼、学年でも成績いい方だし、大丈夫じゃないの……?」
あまりに楽天的な麻穂の考えに、涼は苦笑いするしかない。
「こういうエスカレーター式の私立の学校って、ずっと中にいると分からないかもしれないけど、高等部から入試で編入するのってメチャクチャ大変なんだぜ。内部生よりはるかに頭が良くないとまず無理だ。しかも特待生狙いだろ? 合格するだけじゃなくて、ぶっちぎりの一位くらいで通過しないと駄目だろうな」
理事長の提案にまっさきに喜んで食いついたのは麻穂だった。涼は冷静にその成功確率について自分なりに分析していたのだが、とても麻穂のように手放しで喜べる状況ではないというのは分かっていた。
涼は文化祭後に受けた試験を思い出してみるが、その後廊下に張られていた成績表によると、特待生待遇で試験突破できていたは学年でも高時祐真ただ一人だけだったのを覚えている。二位とは圧倒的な差をつけて一位の彼だけが。
要するに編入試験当日は、祐真レベルまで成績を持っていかないといけないわけで。
今はもう1月。入試が2月末から3月頭にあるとしても、長めに見積もっても2ヶ月しかない。
それに、理事長が言っていた「贔屓は出来ない」というのも本当の話だろう。涼の正体を、すなわちこの隠れた制度を知っている教師は多くはない。全員が承知しているならまだしも、そうでない状態では入試で贔屓などしようもない。
「俺、高校生になったら、ガリ勉になって瓶底眼鏡になってるかもしんねえなあ」
余裕ぶって冗談を飛ばしてみせているが、麻穂はそれどころではない。
「でも、だったらなおのこと、このまま学園にいて、こっちで勉強した方がいいんじゃないの……?」
涼は首を横に振る。
「理事長は俺が男の姿で戻ってくることを認めてくれたが……性別が変わるとはいえ、髪を切って男の服を着ても、顔立ちや姿形はこのままだ。さすがに卒業式まで一緒にいたやつと『別人です』と言い張るのは無理があるだろ。春休みなんてほんの少しの期間しかないんだ。その間、寮でも顔を合わせるしな。それにもし万が一、体に傷なんて負ったりしたらそれこそ本当に言い逃れできない」
涼の言っていることに間違いはない。でも麻穂は、こんなに急に訪れると思っていなかった別れに気持ちがまったくついていかない。自然と眉がさがっていく。
「まあ、だから理事長もあんな風に言ってくれたんだと思うぜ。『この制度も、もうやめるすることにする』って。だからもう俺はここにいる必要は無いんだ。しかもちょうど明日から他の奴らはスキー合宿だろ? 荷物を運び出しても怪しむ人はいないし、俺がいなくなるにはうってつけだ」
麻穂がどんどんうつむいていくことに気づいて、涼は彼女の顔をのぞきこむ。
一生懸命気持ちに折り合いをつけているのだろう。自分に言い聞かせているのが伝わってくる。
涼は麻穂の髪にそっと触れた。
「泣くなよ、麻穂。俺だって、こうやって慌しく動いてないと、色々考えちまって押しつぶされそうなんだ」
しばらく黙りこんでいた麻穂だが、勢いよく顔を上げる。
「泣いてないよ! 今ここを去るのは、涼が男の子として戻ってくるため、なんだもんね。そう考えたら全然、つらくなんてないよ。あ、ちょっとだけ寂しいけどね」
笑いながら、冗談めかして付け加えた最後の一言が、麻穂の一番の本音なんだろうというのは、涼も痛いほど分かっていた。
もし、涼が入試に失敗したら。そのままもう会えなくなる。
二人ともプラスの面の話だけして、口には出さないけれど、それはよく分かっていた。
でも、空元気でもいいから振り絞らないと、この部屋は御通夜のような空気になってしまう。
麻穂のそれが強がりだと分かっていても、涼はそれを指摘せず、ほほえみを返す。
「ああ。俺も、つらくないけど、ちょっとだけ寂しい」
言葉の裏を読んで、麻穂は深くうなずく。
「……荷造りの手伝い、するよ」
そう言って、麻穂もほほえんでみせた。
どちらかが弱音をはいたら、互いに崩れてしまいそうだから。
いつもは泣き虫の麻穂も、今夜は絶対に泣かないと決めた。
そして、翌朝。
早朝から何台ものバスが女子寮の前に並んでいた。
麻穂と涼以外の、中等部ほぼ全員が行くスキー合宿。迎えのバスが寮の前に列をなしている。
男子寮で先に男子を乗せてから女子寮の前に来たようで、バスの中はすでにかなり盛り上がっているようだ。
女子寮から出てきたスキーウェアやジャージ姿の女子生徒たちが続々と、自分のクラスのバスに乗り込んでいく。
涼と麻穂は、見送りをしに玄関前まで出てきていた。
二人とも、いつもの女子制服姿。
ただ寮の前に出るだけで、別に学校に行くわけではないので、制服を着る必要はない。
でも、涼が「最後だからな」と言って制服に着替えたので、麻穂も同じようにした。
麻穂は、これで見納めになるであろう涼の女の姿を見て、
「やっぱり、涼って美人だね」
と改めて言ってみる。
「……だから、嬉しくねえって」
涼はいつものように言い返す。
もうこのやりとりも、これで最後だ。
ちょうど自分たちのクラスのバスが見えていて、大きな窓から皆がはしゃいでいる様子が見て取れる。
涼と麻穂の姿を発見した何名かの男子生徒たちが手を振ってくる。
二人は手を振り返した。
涼が名残惜しむようにみんなの顔を一人ひとり見ているのが、隣に立つ麻穂には分かる。
すると同じクラスの女子生徒の一人が、涼の背を叩いて現れた。
「ねー、二人ともホントに行かないの? もったいな~い」
本当に惜しんでくれている様子の彼女に、「私たち、申し込んでないから」と麻穂が申し訳なさそうに理由を述べる。
「まったくー。なんで申し込みしないかな~。涼がいないとつまんない、ってみんな言ってるよ」
その女子生徒は、優しさからか「あ、もちろん麻穂ちゃんもね!」と付け足してくれる。
麻穂は分かっている。自分がいなくたって、別にクラスは物足りなくなんてない。でも、涼がいないクラスはきっとすごく物足りないと思う。それは自分のことを悲しく思って言ってるわけではけしてなくて、涼のことを自慢に思うからこそだ。
「じゃあ、行ってくるからね!」
そう言ってバスに向かう彼女に、涼は「じゃあな」と手を振る。
みんなにとっては何気ない挨拶でも、涼にとっては別れの言葉になる。今日で、“片岡涼という女子生徒”はいなくなる。
すると、最後の方に。寮生全員が出たことを確認した雪乃が、大がかりなスキー用の大荷物を携えて出てきた。
「あら。お二人とも見送りに出てらしたのね。お部屋にいらっしゃらないからどこにいるのかと思ってましたわ」
そう言うしっかり者の彼女に、涼は最後の笑顔を見せた。
「スキー、あんま得意じゃないのに。めちゃくちゃスキー用品そろえたんだな」
そう指摘されて、雪乃は頬を赤らめる。
「わ、悪くて? わたくし、何事もまずは形から入りたいんですの」
スキーウェア、帽子、手袋、ゴーグル、スキー板、ストック、などなど。今日のために雪乃の家の者がそろえてくれた新品のものばかりだ。
涼は首を横に振る。
「いいや、悪くない。……頑張れよ、雪乃」
雪乃、と。涼はそう呼んだ。
中等部一年のスキー合宿からの付き合いの涼と雪乃。雪乃が寮長になる前は、ずっと彼女のことを“寮長”ではなく“雪乃”と呼んでいた。だから実際は、彼女のことは”寮長”でなく、”雪乃”と呼んでいる期間のほうが長かったのだ。
懐かしい呼び名と、涼の優しいまなざしに、雪乃はまばたきを繰り返す。
「頑張れ」
涼が繰り返し伝える「頑張れ」は、スキーのことだけを言ってるんじゃないと、麻穂には分かっていた。
麻穂を除き、涼にとって一番近くて一番長い友達が雪乃だったのは間違いない。
しっかり者で、規則を大事にし、でも頑固というわけではなく柔軟性もあって、周りの人のことをよく見ている、完璧に見えるけれど実はきっと悩みも多いであろう、涼しい顔をして一生懸命な雪乃。
別れの言葉は言えないけれど。彼女にどうしても、それだけは伝えたかった。頑張れ、と。
「友達に誘われたからって、自力で滑れないところまで上るなよ。もう、助けに行ってやれないからな」
いつかの出来事に絡めて、涼は冗談めかして言う。
雪乃は涼の瞳の奥を探るようにじっと見つめる。
「……分かりましたわ」
バスのほうから引率教諭が呼んでいる。雪乃で最後の一人のようだ。
「片岡さんも、頑張って」
雪乃がそう言うと、涼は笑って嘘をつく。
「頑張るって、寮で留守番してるだけだけどな」
雪乃は涼のいつもの笑顔を見つめて、
「そうでしたわね」
と、少し寂しげにほほえんだ。
「では、行ってまいりますわ。……ごきげんよう」
そう言って去る雪乃は、名残惜しそうに何度も振り返っていた。
バスが出るその瞬間まで、雪乃は窓から二人を見つめていた。涼も見つめ返していた。
“片岡涼”はもう二度と、雪乃には会えない。
雪乃はもう二度と、”片岡涼”には会えない。
そのことを考えると、なぜか麻穂の目がうるんでしまう。ごまかさないとと思って、何度もわざとらしく目を大きくまばたきさせる。
バスは、興奮に包まれた生徒たちを雪山へと運んでいく。
過ぎ去るバスの一台の窓に、高時祐真の姿を発見する。
祐真の目は涼の姿を捉えた。涼は軽く手をあげる。祐真もそれに応えて、手をあげた。
それだけ。
それだけだったけれど、十分だった。