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 いつかこの日が来ると思っていた。


 来なければならないと思っていた。


 そのためにここに来たのだから。


 緊張はしているけれど、無理だとは思わない。


 麻穂は一度深く呼吸をして、心を落ち着ける。


「麻穂ちゃん。行くよ?」


 隣に立っているのは、高時祐真。いつもの薄いほほえみを湛えた表情で、麻穂に声をかける。


 普段どおりの彼を見ていると、大丈夫な気がしてきた。麻穂は「うん」とうなずく。


 意を決する。


 目の前にある、理事長室の扉をノックした。




「理事長先生。今日は、麻穂さんとの婚約破棄をお願いしに来ました」


 麻穂の祖父・杉浦学園理事長に、祐真がかしこまった口調で話を切り出す。


 部屋に入って正面の椅子に座っていた理事長は、二人の姿を交互に見てから、うなずいた。


 前のようにバラバラの二人ではない。祐真と麻穂の真剣な面持ちに、以前のように茶化す様子もない。


 まず、はじめに麻穂が口を開いた。


「おじいちゃん。お父さんとお母さんから聞いたよ。お母さんたち、婚約者なんかじゃなかったんだってね」


 祖父は麻穂に、お前の親も学生時代からの婚約者で、そのまま結婚したのだと説明していた。だから、お前もそのようにするのが道理なのだと言っていた。


 でも、それに倣う倣わないではなく、まずその前提が間違っていたのだ。


「お母さんには学生時代から婚約者が決められていて。でもずっと、隠れてお父さんと交際していたんだよね。お母さんの婚約目前に、結婚を許してもらおうとお父さんは何度もおじいちゃんのところに通った。でも、会ってももらえないし、手紙を送っても読んでももらえない。それで……お母さん、『駆け落ちしよう』って提案したんだってね」


 麻穂がすらすらと語っていく事実に、理事長は「そこまで聞いたのか……」と目を丸くする。


「でもお父さんは、絶対におじいちゃんに許しをもらうから待ってほしいと言ったんだよね。おじいちゃんのところに行って、訪れるのをこれで最後にする代わりに初めて会ってもらった。『お嬢さんに駆け落ちしたいと言われています。でも私は、お義父さんから大事な娘さんを連れ去ることはできません。だから、どうか結婚を許してください』って」


 その結末は、ここに麻穂がいることがすべてだ。


 懐かしいその話を聞いて、理事長は目を伏せる。


「そうか……。そのことを知ったか。本当に、お父さんとお母さんとちゃんと話し合ったんだな……」


 理事長の言葉のまぶたの裏には、今までの引っ込み思案な麻穂の姿が見えているかのように、感慨深げな口調だった。


「うん……。お父さんとお母さん、『今まで話さなくてごめんね』って言ってた。全然謝るようなことなんかじゃなくて、ただ私が聞かなかっただけなのにね」


 麻穂はほほ笑む。


 その顔を見て、理事長はいつの間に大きく成長した麻穂を、良い意味で遠くに感じる。


 次は、祐真が口を開く。


「僕の家にとってこれがどれだけいいお話なのか、分かっているつもりです」


 理事長は次は祐真に、厳しい顔を向ける。


「そうだな。前にもそれは確認したはずだ」


 すると、祐真は一通の白い封筒を理事長の机の上に差し出した。


「これを」


 それをいぶかしげに見つめる理事長に、一言で説明する。


「両親を説得しました」


 いつもの余裕のほほえみを湛えた顔で、祐真は言う。


 でも、麻穂は分かっていた。彼にとってそれがどれだけ大変なことだったのか。以前二人で出かけた時に、彼の思いは聞いていた。


 飛びぬけた能力を持った、達観したような、子どもらしくない自分。祐真も両親への複雑な思いや、いろんな葛藤があって、それに折り合いをつけるのに苦労して、家から逃げるように全寮制の学校に入ってきたのだ。


 理事長は封筒の中の祐真の両親からの手紙を読むと、目を細める。


 それから改めて、思いも寄らぬことを祐真に言った。


「高時君。実はな……君のご両親は、わしの教え子だったんだ」


 この情報には、祐真も少なからず驚いたようで、眉をひそめる。


 理事長は、知られざる事実を語ってゆく。


「君のお父さんとお母さんから、君のことで相談を受けた」


「僕の、ことで?」


「君と上手く話すことができないと。親として自分たちの至らなさももちろんあるけれど、能力の高い子だから、一人ですべて考えて、どうにかしようとしてしまうと……」


 祐真は今の話を聞きながら、なぜいきなり自分に婚約などという世間離れした出来事が降ってかかったのか、その本当の理由がようやく分かった。


 両親の思いと、理事長の意図を、理解した。


 もうどれくらいぶりか分からないくらい久しぶりに実家に帰って、両親に今回のことを話した時。本当の意味で、互いの顔をまっすぐ見て話し合ったのは何年ぶりのことだろうと思った。


 こんなことがなければ、もしかしたらもう二度と、真剣に話すこともなかったかもしれない。どうせ分かってもらえないからと、適当に笑顔を向けておいて、上辺でやりすごしていたかもしれない。


 理事長が、今度は二人に向けて詫びる。


「二人とも。良かれと思ったことだったとはいえ、大変なことを課してしまったな……。迷惑をかけた」


 二人の顔を交互に見て、うなずく。


「分かった。この話は、なかったことにしよう」


 そして嬉しそうに、口元をゆるめた。


「二人が真剣に向き合ってくれて、本当に良かったと思っとるよ。この短い期間に、どうしてこんなに変化できたのか、不思議なくらいじゃ」


 そう笑うさまはいつもの好々爺のそれだった。


 だが、麻穂は勇気を出して口を開く。


「それは……」


「ある人が、僕たちに勇気をくれたんです」


 麻穂の言葉を途中から奪ったのは、もちろん祐真だった。


 驚く麻穂が見上げるも、祐真は理事長から視線を外さない。これは祐真が想定していた展開、用意してきたセリフだったのろう。


「その人は、僕の友達で、麻穂さんの恋人です」


 はっきりそう言い切る祐真。


 麻穂は目を剥くしかない。


「ね? 片岡さん?」


 いつもの笑顔で、祐真が扉の外に声をかける。


 外に涼が待機していたのは麻穂も知っていたけれど、ただそばで待っているだけだと思っていた。


 だが、こんな展開を予想していなかったのは涼も同じのようで、仕方なく入ってくるなり、探るような視線を祐真にぶつけていた。


 理事長は焦った様子で祐真と涼を交互に見て、動揺を隠せない。


「こ、恋人とは……片岡、高時君に正体を――」


「何を言ってるんです? 先生。若者にとって、今時女の子同士のカップルなんてぜんぜん普通ですよ。普通」


 最後まで言い切られる前に、祐真が“あくまで自分は何も知らない”という体を確かにする。察しのいい祐真のこと、涼が秘密を外部に漏らしてしまうことで、何かしらの契約違反になる可能性があるのではないかということを想定してのだろう。


 そして。


「僕たちに迷惑をかけたなどと思ってくださるのなら、僕らが変わる勇気をくれた片岡さんを、高等部からもこの学園に通わせてもらえませんか?」


 彼の言葉に、麻穂は思わず口元を両手でおおう。


「高時くん……」


「高時……」


 まさか彼がそんなことを考えていてくれたなんて思いもせず、涼も彼の名をつぶやくしかない。


 祐真はまず麻穂を見てほほえみ、次は涼を見て、「あとは任せる」とでも言うように小さくうなずく。


 さきほど祐真は涼を呼び込むとき、“僕の友達”と言った。


 涼はそれに応えるように、うなずき返す。


「こみ入ったお話になりそうなので、僕はここで外させていただきます。理事長先生、どうかご検討よろしくお願いします」


 自分ができることはこれまでと、祐真は一礼してそのまま理事長室から退室した。廊下を歩き、彼が遠のいていく足音が響く。


 それが聞こえなくなると、理事長は険しいまなざしで口を開いた。その両の目は涼を見据えている。


「……と、高時君は言っているが?」


 さらりとした長い髪に、短いスカート。女子制服に身を包んだ涼は、理事長からの圧をしっかり受け止めながら、言葉を返す。


「高時に先に言われちまったが……俺も、そうしたいと思ってる」


 涼は、自分のことを“俺”と言った。


 事情をすべて知る理事長と麻穂しかいないから、別にそれは構わないことなのだろう。


 でも、この一人称は、「今からは男として喋るからな」という一種の意思表示のようでもあった。


「契約は中等部まで。その後、姿を消して地元に戻るはずだったな?」


「ああ、分かってる」


 詰問するような理事長の言葉を、涼は受け止める。しかし、それでも。


「でも、俺は、”男として”ここに居たい。麻穂と約束したんだ」


 理事長の責めるようなまなざしを受けながらも、一歩も譲る気配はない。涼はそこにしっかりと立って、理事長から目を逸らさない。


 拮抗してどうにもならなくなったような空気を感じ、麻穂が身を乗り出す。


「おじいちゃん、お願い!」


 先程の婚約破棄の話の時には見せなかった、それ以上の熱意をもって訴える。


 考えこんで黙ったままの理事長に、麻穂はとんでもないことを言い放つ。


「……お母さんは、おじいちゃんが許してくれなかったらお父さんと駆け落ちするって言ってたんだよね? 私だってお母さんの娘だよ。おじいちゃんが許してくれなかったら、私、涼を追いかけて勝手に北海道に行っちゃうんだから!」


 これには涼も仰天するばかりである。


 滑稽な啖呵かもしれないけれど、麻穂としては至極大まじめなのだ。「本気だよ!」と付け足す。


 理事長もうつむいていた顔を上げ、今まで見たこともない孫娘のあまりの勢いに圧倒されて目を丸くしていた。


「だから、お願い、おじいちゃん……! 私、これからも涼とずっと一緒にいたいの……!」


 理事長は黙って考え込む。


 涼は緊張で汗ばんだ手を握り締めている。


 麻穂はまっすぐ理事長を見つめている。


 すると。


「……学費・寮費全額免除の、特待生制度があるだろう? それでもし、お前に双子のようによく似た男子生徒が入ってきても、周りは何とも思わないだろうな……」


 涼が頭の中でその言葉の意味を整理して、返事をするより早く。


「おじいちゃん……!」


 麻穂が歓喜の声をあげる。


 喜ぶ孫娘の顔を穏やかな顔で見つめてから、涼に静かにこう告げる。


「学園や、わし自身が、お前の学費やその他諸々負担することは、どう考えても不自然だし、おかしいだろう。だから片岡、お前の実力で、再びここまでのぼってこい」


 そしてもう一つ、大事なことを伝える。


「そうじゃ。この制度も、もうやめるすることにする。女子寮はもう昔のように荒れてはいないし、次の奴にまたこんなことを言われたら大変だからな」


 そう言って、いつもの好々爺のそれで、笑ってみせる。


 涼は一歩前に出ると、


「理事長。今までありがとうございました」


 と、深く頭を下げた。


 彼の突然の行動に、慌てて麻穂も倣う。


 頭を下げた涼に、理事長は目を細め、小さく、


「迷惑をかけたな。贔屓は出来ないが、また会えることを祈っている」


 とだけ言った。

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