6
30分ほどして、近所を見回ってきた涼が帰ってきた。
麻穂は一応制服のまま待っていたが、涼からは高時らしき人は見かけなかったし喧嘩もなかったとの報告を受けた。
ほっとしたような複雑な心境で麻穂がぼうっとしていると、涼は彼女の背中を叩いた。
「メシ行くぞ。着替えろよ」
「う、うん。ごめんね、ありがとう」
麻穂はぎこちなくではあったが、微笑むよう努めた。
そして麻穂が着替えだすと、涼はいつもの通り何も言わずトイレの個室に入った。
やっぱり着替えは見たくないのか、と麻穂は思った。
体育で着替えを見せないことはほんの氷山の一角に過ぎず、涼は寮内の共同の大浴場にすら足を運ばなかった。部屋に備え付けのシャワーで用を済ませ、しかもその前後の着替えも覗かせない。
「涼、着替え終わったよ」
麻穂がそう呼ぶと、涼はちょこっとだけ扉を開けて確認した後、個室から出てきた。
「早えな」
涼がドアに手をかけながらそう感想を呟く。
「だって、涼が狭い思いして待ってるんだと思うと、焦るじゃない」
麻穂は苦笑して答える。
廊下には食堂に向かう女子生徒たちがわずかに居たが、大半はもう食堂に行ってしまっているようだった。
「なあ、麻穂って男嫌いなのか?」
「どうしてそんなこと訊くの?」
隣を歩く涼の突然の言葉に、麻穂は小首を傾げた。
食堂のドアを開けると、中からは食べ物のにおいがあふれてくる。
二人はトレイを取って列に並ぶ。今夜はホイコーロー定食だそうだ。今日こそは大盛りにされないように気をつけようと麻穂は決意した。
「だって麻穂、高時のこと毛嫌いしてるだろ?」
涼が前から振り返りながらそう言うと、麻穂は「うーん」と悩みこんでしまう。
「いや、男嫌いではなくて高時祐真だから特別いやだっていうか……でも、本当は高時祐真のこともいやではないっていうか」
「なんなんだよ」
ハッキリしない麻穂の説明に、涼のツッコミが入る。
麻穂は定食の味噌汁を取りながら考えていた。
(あれ? 私、高時祐真のこと嫌わなきゃいけないんだよね? その為にこの学園にきたわけだし……でも単純に悪いやつではなさそうだし……)
「あ、おばちゃん! 二人前大盛りね」
「はいよ、涼ちゃんは元気だねぇ」
麻穂が何か言う間もなく、涼は二人分を大盛りで頼んだ。麻穂は半分諦めに近い心境で、笑うしかなかった。
二人は窓際のテーブルに席を取った。
涼とこうして一緒に夕食を取るのはまだたったの二回目だというのに、麻穂にはまるで旧友のように感じられた。それも涼ならではの気さくさのおかげだろう。これからもずっと仲良くしていければいいなと麻穂は思っていた。
麻穂は涼の顔色をうかがうと、その表情がどこか憂いていることに気がついた。
「涼、どうしたの?」
麻穂は遠慮がちに涼に尋ねる。
涼は「ん、ああ」と生返事をして白米をかきこんだ。
そして食べ終えてから、
「あとで麻穂に話があるって言ったろ?」
「うん」
「それを話してからも麻穂がこうやって一緒に飯食ってくれるかなーってのが、怖い」
「え?」
聞き返したが、涼の返事はなかった。
まさかそんな重大なことを話されるとは思っていなかったので、麻穂は正直うろたえた。
「そんな、もう私たち友達じゃない。相当なことがなければ引いたりしないって」
冗談めかして言ったが、それに反して涼は真剣そのものの表情だった。
「じゃあ相当だったらどうなるわけ?」
麻穂は一瞬、言葉が出なかった。
相当だったら、どうなるんだろう。自分でも言っておいてよく分からなかった。
「……でも、涼はここにきて初めての友達だから、大切にしたい」
決意を込めて麻穂がそういうと、涼は薄く笑った。
「ありがとな」
二人は夕飯を食べ終えると部屋に戻った。元々小食の麻穂は、無理をして大盛を食べきったせいで非常に満腹だった。
重いおなかをかかえた麻穂がベッドにその体を沈ませた時、涼は部屋のど真ん中で腕を組んであぐらをかいていた。
「涼?」
「今、心の準備をしている」
涼の表情は真剣だ。
流石にこれはふざけてはいないだろうと思い、麻穂はベッドから上半身を起こした。
「ねえ、涼? 言うのが嫌なことなら、無理して言うことはないんだよ」
麻穂がそっと涼に語りかける。
涼は一瞬その誘惑に負けそうになったが、ぎゅっと唇を噛んだ。
「いや、あたしの為だけじゃなくて、麻穂のためにこそ言っておくべきだと思うんだ」
「私の為に?」
「ああ」
麻穂はあぐらをかく涼の前に、膝を曲げてぺたんと座った。
「男嫌いじゃないんだよな?」
涼が先ほどと同じことを聞いてくる。
「そうだよ。前の学校だって共学だったし」
麻穂と涼はしばらく見つめ合った。というより麻穂は目がそらせなかった。こんなに真剣な涼の顔を初めて見た。
涼はドアの鍵がかかっているのを目視して確認し、そして麻穂にクッションを渡した。
「何これ?」
「叫ぶときはそれに叫べ。響くと周りに迷惑だから」
「叫ぶって……」
麻穂が苦笑いを浮かべるも、涼の面持ちは変わらない。
「あと、一つだけ約束してほしいことがある。このことは絶対に内密にしてくれ」
麻穂がわけもわからずまばたきをしていると、「いいか?」と念を押される。
「うん、約束する」
涼の真剣さに応えたくて麻穂は小指を立てた。
「……何それ?」
「あの、指きりげんまんしようと思って」
表情を凍らせる涼。麻穂は本気だった。自分の小指を強引に涼の小指に絡ませて、お決まりの歌を歌いだした。涼はもうどうにでもなれとばかりに投げやりだったが、麻穂の真摯な気持ちに胸を打たれたようで、面倒そうな態度とは裏腹にその眼差しは優しかった。
一連の儀式を終えると、涼は「さてと」と一呼吸おいた。
廊下を歩く女子生徒の声が聞こえて、涼はドアにしっかり鍵がかかっているか再び確認する。
「いいか?」
「いつでもどうぞ」
麻穂が許可を出すと、涼はおもむろにジャージの上着を脱ぎ始めた。
「えっ? え?!」
人前で滅多に肌を晒さない涼が今、服を目の前で脱いでいる。麻穂は事態が把握できなくて上擦った声を上げ、挙動不審になっていた。
そうして涼は肌着一枚になった。胸の膨らみは自分より大きいなと、麻穂は勝手に考えてしまう。
さらに涼はその肌着にすら手をかけた。
「涼、そんな無理して脱がなくたって……」
麻穂はどうすることもできずにそう言ったが、涼は話を聞く気はないようだった。
ブラジャー一枚になった涼の体を見て、麻穂はふと視界に広がる光景に違和感を覚えた。
(あれ?)
口に出しては失礼かと思い黙っていたが、涼はさらにブラジャーにまで手をかける。
同性でも裸を直視するのは流石に恥ずかしい。麻穂は思わず両手で顔を覆ってしまうが、脱ぎ終えた涼は「見てよ」と催促する。
麻穂は自分の指の間からそっと涼のほうを覗く。あぐらをかいて上半身が肌色の涼。初めて見たむき出しのその肩は、妙にがっしりして骨ばっている。思えば首も女子にしては太い方だ。手足は細いが筋肉質。浮き出た鎖骨は太く、その下にあるはずの胸は、なかった。
「胸が、ない?」
麻穂はどういうことか分からなくて、顔を覆う両手を下げた。
先程ふくらみがあったはずの場所は真っ平らになっている。これは胸というより、ただの胸板だ。
麻穂の思考が「まさか……」と危険信号を発しだしたところで、涼が口を開いた。
「実は男なんだ、俺」
麻穂はそのままの表情で絶句した。不安げな眼差しで見つめ返してくる涼の推測に反して、叫ぶ気にはならなかった。
とにかく情報処理をしようと精一杯で、麻穂は固まってしまった。
「やっぱフリーズするよなぁ」
涼はそう言うと、腕につけていた輪ゴムで髪の毛を一本に高く束ねて見せた。
「ほら、こうしてみると男に見えるだろ?」
長い髪がなくなると、確かに男に見えた。それでも胸板を見ないと自信が持てないのは、涼はかなり女顔なのだろう。
「おーい、麻穂。戻ってこーい」
呆然とする麻穂の目の前に、涼は手をひらひらとかざして見せる。
麻穂は何とか声を絞り出して、指さしてたずねた。
「む、胸は?」
「ああ、ブラジャーにパット入れまくってごまかしてる」
さらりと言ってのける涼。床に転がるブラジャーを指差した。
麻穂は目の前の女性、もとい男性が、二晩も寝食をともにした相手とは思えなかった。でも、ここで引いたら涼との約束を破ることになる。義理堅い麻穂は必死に耐えた。
「トイレは?」
「女子は全部個室じゃん」
「お風呂は?」
「俺は部屋付のシャワーだけ浴びてるよ」
麻穂は思いつく限りの疑問をぶつけようとしたが、頭がうまく回らずもう何も浮かんでこなかった。
「色々疑問に思うだろうけど聞いてくれよ。そもそもお前のおじいちゃんである理事長が提案してきたことなんだ」
「おじいちゃんは知ってるのね?」
「知ってるも何も、そいつに言われて俺は女装してるんだぜ?」
そう言って肩をすくめる涼。
麻穂はなんとか目の前の男性の存在を認め、再び尋ねた。
「どうして女装してるの?」
涼は真面目に説明した。
「杉浦学園は全寮制だろ? 中等部女子寮の風紀が、一時期酷く乱れたことがあったんだ。その代の寮長の手にも負えなくて。つーわけでそれから、女子ではなく男子の、いわばスパイを寮に送り込むことになったんだ。内部で何か大きな問題があったら、女のしがらみにとらわれず行動して解決したり。あとは色んなことを理事長にチクったり?」
麻穂はそのあまりに非現実的な解決案を疑問に思いつつ、自分の祖父ならやりかねないと思った。
「何故涼が選ばれたの?」
「新しいスパイを探してるとき、杉浦学園に教師として就職してた園山にその話が回ってきて、いとこの俺が丁度いい年齢だってことで薦められた。学費・寮費諸々タダになるってことだったからな。うち、実家結構ビンボーだし」
涼はそう言うと、肌寒いのか上にジャージをはおった。こうして見ると本当に男の子だなと、麻穂は納得してしまう。
「だからこの部屋は相部屋を受け付けてなかったのね」
「そ。だから麻穂が最初に来たときはホントにびびったぜ。理事長に事情を聞きに行ったら、孫だから手を出すなよって言われるだけだしよ」
麻穂が身の危機を感じて体を竦ませるが、涼は「何もしねぇよ」とハンズアップして見せた。
「……私がこの学園に入りたいって言ったとき、『いわくつきの部屋でいいなら入れてやる』って言われたの。こういうことだったのね」
「いわくつきって……あのジジイ言いたいこと言ってくれんな」
涼が今にも理事長に抗議にいきそうだったので、麻穂は慌てて話題を変えた。
「涼は私がくるまではずっと一人部屋だったの?」
涼は「そうだよ」とそっけなく答えたあと、
「麻穂は、俺と一緒の部屋でやっていけるの?」
と、核心を突く質問を直球でぶつけてきた。
麻穂はすぐに言葉を返せなかった。
「俺は構わないけど、麻穂が嫌って言うなら……部屋を変えることは出来ないみたいだし、この学園を出て行くしかなさそうだけど」
冷静すぎてあまりに冷たい言葉に、麻穂は視線を床に落とした。
涼は目を細めて、俯く麻穂を見つめている。
「……あのね、私は目的があってこの学園にきたの」
「言ってたな」
「それを果たすまでは、ここを出て行くことはできない」
顔を上げた麻穂の視線が、涼のそれとぶつかる。意思の強い二つの瞳がぶつかり合った。
涼は険しい眼差しを崩さぬまま、麻穂に尋ねた。
「目的って一体何なのさ? 俺もこれだけ話したんだから、少しは聞く権利あると思うんだけど」
麻穂は理事長である麻穂の祖父がわざわざこの部屋に自分を置いた理由を考えてみた。
男と同室になんてされたら、嫌ですぐに飛び帰ってくるだろうと思っていたのだろう。それに少なくとも学園のスパイだったら自分側の人間、味方につけられると思っているのかもしれない。涼が麻穂の味方についてくれる保障などない。しかし話してみないことには味方になってくれるかもわからない。
「私の味方になってくれる?」
麻穂はだめで元々で聞いてみた。
涼は無表情のまま言葉を返す。
「俺をどうしても味方にしたかったら脅せばいいじゃねえか。寮の皆に男だってバラすぞって」
「私はそんなことしたくない」
麻穂はキッパリとそう断言した。
涼はそれを聞いてニッと口元に微笑みを浮かべた。
「ふうん。中立にくらいはなるって保障してやるよ」
彼のこの微笑みを見て、麻穂はこの人に話そうと決意を固めた。
「あのね、私には不本意ながら婚約者が決められてるの」
「婚約者?」
涼が眉根を寄せる。
「この時代にそんな言葉使われるんだな」
「私も自分で言っててそう思う」
麻穂は呆れたように小さく笑って見せた。
涼は話の先を促す。
「で、相手は?」
「高時祐真」
麻穂がさらりとそう答えると、涼は大きく目を見開いた。
「高時ぃ?」
麻穂は涼を見上げて、コクリと頷いた。