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 時間は、麻穂が屋上を飛び出してすぐまでさかのぼる。


 屋上では、とっさに麻穂の背中を追えなかった涼が、その場に立ちすくみ、取り残されていた。


 呆然として、しばらく。


「……もう近くにはいられないから、か……」


 これまでずっと、自分に言い聞かせていたこと。


 祐真の助言もあり、麻穂の気持ちには薄々気がついてはいた。


 涼も麻穂のことは特別な相手だと思っていて、そのことを知れて嬉しい気持ちがなかったと言ったら嘘になる。


 でも、ただ浮かれるには事情が込み入りすぎていた。


 冷静に考えれば考えるほどに、自分が彼女に想いを伝え、彼女の想いを受け入れたあとの、未来がない。


 泣きながら屋上から飛び出した麻穂。彼女の方が自分よりよほど気持ちに素直だ、と涼は思う。


 何かが足元にキラッと光っていると思って拾い上げてみると、涼が麻穂へ送った髪飾りだった。


 ちょっと前まで、麻穂が嬉しそうに手に乗せて眺めていたもの。


 きっと、泣きじゃくった時に落としてしまったのだろう。


(泣かせるつもりなんてなかった……)


 夜風吹く屋上は寒いはずなのに、それが全然気にならないほど、涼は深く、長く、考え込んでいた。


 彼女を泣かせて後悔しているのは、きっと、自分の言った言葉が本心じゃないから。


 もし本当に心からそう思って、二人のためにそれが正しいと信じて言った言葉なら、たとえ麻穂が悲しんでも、胸は痛んだとしてもたぶん後悔はしない。


 涼はひとり、フェンスをつかんで夜景を見下ろした。


 住宅街はともかく、駅前のほうはこの時間でもまばゆい明かりがある。点々とコンビニや自販機の煌々とした明かりもある。



 三年前に見たきりの、自分の田舎の夜を思い出す。


 家の周りは夜は真っ暗で、たぶん、都会の人間が想像する夜よりはるかに濃い夜。


 今のこの寒さとは比べようもない、全身が凍りつきそうな本物の寒さ。


 けして豪華な家ではないけれど、父と母がいて、自分の部屋があって。


(あそこで一人、麻穂のことを忘れて生きていけるのかな)


 涼はしゃがみこんで、フェンスに背を預けた。


(自信、ないな……)












 麻穂は意を決して自分の部屋の扉を開けたが、そこには誰もいなかった。


 廊下の共用トイレも電気が消えていて、誰かがいる様子もない。


 各階どの談話室にも姿はなく、もちろんロビーも無人。


 まさかと思いながらも屋上に駆け上がる。


 あれからこんなに時間が経っているのに。こんな寒い中、ずっと屋上にいるわけない。


 麻穂が、屋上に続くドアのノブをひねる。


 刺すような冷気が一気に身を包む。


「涼……」


 フェンスに寄りかかって、遠くを見つめていた彼の姿を見つけた。


「麻穂……?」


 涼が不思議そうに眉根を寄せたのは、彼女が戻ってきたことに対してではなく。


「コートも着ないで、寒くないのか?」


 そう言われて、雪乃の部屋で防寒具を脱いだままだったことに初めて気がついた。


「あ……」


「冷えるだろ。中に戻ろう」


 ここから動くことをうながす涼に、麻穂は首を横に振る。


「ちょ、ちょっと待って。お願い。ここで、このままでいいから、話したいことがあるの……」


 今、場を改めてこの勢いを削いだら、言えなくなってしまう。麻穂は必死に訴えた。


 いつもは他人に合わせることの多い麻穂だが、一度こうと決めたら譲らない一面があることを涼はよく知っている。


 だから、涼は自分の着ていたジャンパーを脱ぐと、そのまま麻穂の肩にかけてやった。


「あ、でも涼が……」


「いいから。麻穂よりは寒さに強い」


 麻穂は口をつぐんで、かけられたジャンパーの襟元を指先で支えた。彼の体温が残っていて、とても温かい。


 そして。


 雪乃にもらった勇気と。これまでの二人が過ごした日々を信じて。麻穂は口を開いた。


「涼、あのね……聞きたいことがあるの」


 時折吹く夜風に髪の毛先を遊ばれながら、まっすぐ見上げる麻穂。


 涼も彼女を正面に見つめた。


「涼は……ここからいなくなっても平気なの?」


 月明かりを受ける彼女の丸い瞳が、嘘やごまかしをはねつけるように澄んでいる。


「もう私と会えなくなっても、涼は平気なの……?」


 吐露される、麻穂の正直な気持ち。


 涼はつらそうに目を細める。


 心にわき上がる思い。伝えたいと溢れるたび、蓋をしてきた。


 だけど。


「私は、平気じゃないよ。涼のこと、好きだから……。一人の男の子として、好きだから」


 胸の上に手を重ねて、麻穂は勇気を振り絞った。


 彼女の心からの言葉に、「彼女のためを思って」だとか、「二人の未来の先がない」とか、自分が良かれと思って考えていたことが、いかに詭弁で、独り善がりだったか思い知らされる。


 緊張と不安で何度も唇をかみ締めている麻穂。


 恥ずかしさと寒さで頬が赤らんでいる。


 そんな彼女を見つめていた涼の表情が、ふっと柔らかく崩れた。


「……帰りたくないよ」


 驚くほどすんなりと、口から本音が出てきた。


「本当は帰りたくなんてない。ずっとここに居たい。……俺は、麻穂と離れたくない」


 辛そうに目を細める涼が、本当の気持ちを語る。


「黙ってるつもりだった。俺はずっとここにいられるわけじゃない。あと少ししたら、遠い場所に帰って、ここからは姿を消さなきゃいけない。そんな俺がこんなこと言ったら、きっと麻穂の負担になる。だから、言うつもりはなかった……でも……」


 一呼吸置いて、涼は静かに伝えた。


「俺も、好きだよ。何度も諦めなきゃいけないと思った。でもその度に、この気持ちの強さを思い知らされた」


 麻穂は、瞳をパチパチまばたきさせながら、


「ほんとに……?」


 と問う。


「どうして俺が麻穂にウソをつく必要があるんだよ」


 優しく笑ってみせる涼。


 その顔を見て、麻穂の涙腺がまた決壊する。


「嬉しい……」


 今まで張っていた緊張の糸が切れて、顔を覆って涙を流す。


 今度は悲しい涙なんかじゃない。


 涼はそれが道理であるかのように、自然と彼女を抱きしめていた。今までそんなことなどしたもないのに、とても自然に。


「……絶対、楽じゃないぞ。俺といる限り、色んな奴にたくさんの嘘をつき続けなきゃいけない」


 彼の長い髪が夜風になびいている。


 冷静に現実を語る涼の腕の中でそれを聞きながら、麻穂は首を横に振る。


「それがつらいのは涼も同じでしょう? 私は涼と分かち合いたいよ。うれしい事も悲しいことも」


 涼は体に麻穂の体温を感じながら、そんな言葉を言ってくれることを、言ってもらえることを、奇跡のようにありがたく、愛しく思っていた。






 それからどのくらい経っただろうか。


 抱擁していた腕を解き、おもむろに距離をあけた涼がはじめに言った一言は、


「……女の格好じゃ全然きまんねぇな」


 という、苦々しい言葉だった。


 それもそう。制服姿でないからスカートは穿いていないにしても、長い髪をなびかせ、女性らしく見せるための偽の胸のふくらみもある。


 麻穂は反射的に本音でフォローする。


「そんなことないよ、涼はいつでも格好いい」


 そう言ってしまってから、ハッと口をふさいだ。


「お前……ずいぶん大胆なこと言うな……」


 照れたらいいのか笑ったらいいのか分からない。


 そして。


 さっきと違う気持ちでフェンスの向こうの夜を見つめながら、涼は静かに、麻穂に言った。


「この先……どうなるかなんて全然分からない。でも、何でだろうな。不思議と、麻穂と一緒なら、どうにかなりそうな気がする」


 そう言って振り返り、麻穂に笑ってみせる。


「楽観的かな、俺」


 麻穂は笑って、首を横に振る。


 涼の隣に並ぶと、涼がフェンスをつかむ手に自分の手を重ねた。


「きっと、なんとかなるよ」


 彼を見上げる麻穂の顔に、もう迷いはなかった。

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