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 これ以上彼の前でどうしたらいいか分からなくて、逃げるように屋上を飛び出した麻穂。


 階段を一階まで一気に駆け下りてから、どこへ行けばいいのか迷って、足が止まった。


 自分の部屋は涼の部屋でもあり、彼が戻ってくる可能性がある。混乱している今は、顔を合わせたくない。


 かといって、一人でゆっくり気持ちを落ち着けられるところなんて思いつかない。


 ロビーは広くて降りてきた涼の目に付くし、談話室は階段脇だから気づかれるかもしれない。


 どうしよう、どうしようと泣き顔で立ち尽くしていたところに、涼でない人の声がかけられた。


「……吉瀬さん?」


 その時ちょうど玄関に現れたのは、雪乃だった。


 彼女は白いロングコートに淡いイエローのマフラーを巻き、帰寮したばかりであることがうかがえる。髪もゆるく巻かれていて、気合を入れておしゃれをしていたようだ。


 涼は彼女に「黙ってるから、ゆっくりしてきな」とは言っていたが、時刻はもう深夜0時過ぎ。女子寮長・如月雪乃も、ずいぶんと羽目を外していたようだ。


 雪乃は麻穂に歩み寄ると、麻穂の尋常でない涙の跡を見つけ、一瞬にしてしっかり者の寮長の顔になった。


「何かありましたの……?」


 麻穂はうまく言葉が出てこなくて、出てきたとしても雪乃に言うわけにもいかなくて、目に涙をいっぱい溜めたまま、ぶんぶんと首を横に振るしかない。


「とりあえず、吉瀬さんのお部屋に戻りましょう。お送りいたしますわ」


 雪乃がそう言うと、麻穂はもっと激しく首を横に振る。


 その様子を見て、雪乃は少し考えるようにしてから、


「……でしたら、わたくしのお部屋にいらっしゃらない? 紅茶でもお出ししますわ」


 と、優しく顔を覗き込んだ。


 麻穂は少し迷ってから、コクンとうなずいた。


 それから、雪乃の招きで麻穂は初めて彼女の部屋に入れてもらった。


 男子寮長の高時祐真と同じように、寮長特権で一人部屋。だからか、室内全体から雪乃の落ち着いた雰囲気が感じられる部屋だった。シンプルながら良いものに囲まれた生活、という感じで、彼女の育ちの良さがうかがえる。


 雪乃は麻穂を、レースのクロスがかけられた小さなテーブルのそばのクッションの上に案内すると、自身のコートとマフラーを手早くコートラックにかけて、電気ケトルのスイッチを入れた。


 身にまとったサーモンピンクのざっくりとしたニットと、白いスカート、黒いタイツが、彼女をいつも以上に大人びて見せている。今の彼女を見たら、10人中10人が高校生と思うことだろう。


 しかし麻穂は、優雅に紅茶の支度をする雪乃のことなんて見る余裕がないほど、動揺し、落ち込んでいた。


 心臓が鉛のように重い。


(『麻穂が高校生になった時……俺はもう、近くにはいられないから』)


 思い出すと、止まったはずの涙が何度でもにじんでしまう。


 涼は当たり前のことを言っているだけだ。


 もともとそういう話だった。中等部が終わったら、男に戻り、片岡涼という女子生徒は居なかったことにされ、北海道に帰る。


 でも、もし。麻穂のことを好きでいてくれたなら。離れたくないと思ってくれていたのなら。


 そんなあっさりと諦めて、流れを受け入れてしまうだろうか。


 だからつまりそれは、別に麻穂のことは、離れがたいほど大切な人というわけではなくて――。


 混乱する麻穂の頭の中で、ぐるぐると思考がめぐる。


 何度思考しても、たどり着く結論は同じ。


「吉瀬さん。良かったらお飲みになって」


 気づくと、雪乃が紅茶の支度を終えて、麻穂から45度の位置にある座布団の上に座っていた。


 一言も話せない、動揺している様子の麻穂に何かを訊くでもなく、ただ静かにそばにいた。


 麻穂は迷惑をかけて申し訳ないと思いつつ、雪乃の気遣いをとてもありがたく思いながら、熱い紅茶を一口味わう。


 こんな状況だと言うのに、思わずため息が出てしまうほど、香りがよく、深い味わいだった。


「……落ち着きまして?」


 優しく問いかける雪乃に、麻穂は「はい……」と小さく答えた。


「ごめんなさい、如月さん。迷惑をかけて……」


「迷惑だなんて思っていませんわ。わたくし、同級生とお紅茶を楽しんでいるだけですから」


 と言って、雪乃はいつものように優雅にほほえむ。


 麻穂は雪乃の包容力に心底感謝した。


 そして、雪乃の優しさに心の防壁を溶かされるようにして、ポツポツと言葉をつむぎはじめる。


「如月さんは……離れたくない人って、いますか? その……家族とか、友達とかじゃ、なくて」


 思いつめた顔をした麻穂にそう聞かれて、雪乃はまじめに答える。


「ええ」


「……その人も、如月さんと離れたくないって、思ってくれていると思いますか?」


 少しだけ目を伏せて考えてから、雪乃が答える。


「……きっと、たぶん、そう思いますわ。わたくしがそう思いたいだけかもしれませんけれど」


 麻穂はそれを聞いて、深いため息を漏らした。


「そうなんですね……うらやましいです」


 そう言ったきり黙りこんだ麻穂に、今度は雪乃が問う。


「吉瀬さんが大事に思っている人は、そうじゃないんですの?」


「……分からないんです。……近いうちに、その人とはもうずっと会えなくなってしまうかもしれないんです、けど、でも、その人は、それを何とも思っていないみたいで……」


 ティーカップの底を見つめながら、とつとつと語る。


「そもそも……私はその人のことを大事に思っているけど、相手がどう思っているのかは、分からないですし……」


 そう、彼に自分の気持ちを伝えたことはない。彼がどう思っているのか、聞いたこともない。


 だから、彼がこのまま麻穂と別れて地元に帰ることを普通に言っていても、傷つく理由にはならないはずなのに。


 でも、傷ついているということは少なからず、麻穂は、心の中で「もしかしたら涼も、少しは自分と離れたくないと思ってくれているかもしれない」と期待していたのだろう。


 うなだれた麻穂をじっと見つめて話を聞いていた雪乃は、穏やかな口調でこう言った。


「“分からない”ことだらけ、なんですのね」


 彼女の言うとおり、分からないことだらけだ。


「分からないことは、仕方ないとして……。吉瀬さんは、どうされたいんですの?」


「私、は……」


 麻穂は考える。


 涼のことが好き。だから、涼と離れたくない。


 でも、涼がここにいるのは、いられるのは、理事長と契約をしているからであって。その契約では、中等部が終わったら、ここから姿を消さないとといけないわけで。


「……私は、これからもずっとそばにいたいんです。でも、どうしようもない事情があるのも知っていて。だから、こんなことを言ったら、相手に迷惑がかかるかもしれないんです……」


 それを聞いて、雪乃はまたほほえむ。


「吉瀬さん。迷惑かどうかは相手の方が決めますわ。さっき、わたくしも言ったことですけれど」


 部屋に入ったばかりの時。雪乃は麻穂に、迷惑をかけていることを詫びられて、「迷惑だなんて思っていませんわ。わたくし、同級生とお紅茶を楽しんでいるだけですから」と笑って答えた。


「あくまでわたくしの場合は、ですけれど……。吉瀬さんが何かとてもつらい思いをしているとして、それを知らないでいるほうが、わたくしはもっと嫌ですわ」


 顔をあげた麻穂と視線が合うと、雪乃はにこりとほほえんだ。


「大事なお友達の悩みを聞くことを、迷惑だなんて思いませんしね」


 そう告げてから、やはり少し気恥ずかしかったのか、そっと紅茶を口にした。


「如月さん……」


 麻穂は、今度はまた別の理由で、瞳がうるみそうになる。


 少し考えてから、麻穂は自分の心の中でずっとつかえていたことを口にした。


「私……前の学校に入学したとき、なかなか周りに馴染めなくて。時間が経って、少しはマシになったんですけど……話しかければ話してくれるお友達は結構いたんですけど、転校した後までわざわざ会うような子は、いなくて」


「そうでしたの……。わたくしは学園に来てからの吉瀬さんしか知りませんから、そういう子だったなんて想像もつきませんわ」


 雪乃は指折り、彼女にとっての麻穂の印象的なエピソードを語る。


「クラスではお友達も多いですし、他のクラスのお知り合いの方も結構いますわよね。しかも、男子生徒の方々も。文化祭の演劇なんて主役を務められましたし。あの口が悪くて変わり者で野蛮人な片岡さんにもちゃんと注意したりしながら、同室としてクラスメイトとして、とても上手くやってらっしゃるようですし」


 彼女の口から語られるエピソードが全て自分のことだなんて、改めて聞いてみると、麻穂としては信じられない気持ちだった。


 どれもこれも、涼のおかげ。


 麻穂は分かっていた。


 学校に来てすぐ、男女問わずこんなに沢山の友達ができたのは、涼の顔が広く、信頼が厚く、面倒見が良かったから。


 文化祭の劇だって、涼が推薦してくれて、練習してくれて、一緒に主役を頑張ってくれたから。


 ささいなことを涼に注意したり、自分の意思をはっきり主張できるのは、何を言っても涼が自分を否定したり、嫌いになったりしないと分かっていたから。


「……学園に来て、如月さんのようなお友達ができて、私、本当に嬉しいです」


 そう伝えて、麻穂もはにかみながら、涙でこわばった頬でなんとかほほえんで見せる。


 それと。


「あと……ありがとうございます。如月さんと話していて、思い出しました。私が離れたくないと思ってる人が、私の話を真剣に聞いてくれる人だっていうことを」


 それに、自分だって、文化祭の時に伝えたのだ。「これ以上、俺の事情で迷惑をかけられない」と言う涼に、「迷惑だなんて思ってない。もっと涼のことを話してほしい。もし迷惑だとしても構わない、もっと迷惑をかけほしい」と。それから、「勝手に離れていかないで」とも。今、勝手に逃げて、勝手に離れていこうとしているのは自分なのかもしれない。


 その言葉と、どこか晴れたような顔に、雪乃はまた優しくほほ笑んだ。


「良かったですわ。大事なことを思い出せたようで」


 麻穂は早速立ち上がると、「美味しい紅茶、ご馳走様でした」と礼を言って部屋を出て行こうとする。


 と、その前一度足を止めて振り返った。


「あ……。あの、この相談のことは、どうか秘密に……」


 申し訳なさそうに今さらそんなお願いをする麻穂に、雪乃はクスッと笑う。


「もちろん、分かってますわ。女の子同士の秘密ですもの。片岡さんにも口外いたしませんわ」


 笑って手を振る雪乃が、どこまで事実に気がついているのか。


 でも、それはあまり関係のないことなのかもしれない。


 たとえ何かを分かっていようと、いまいと。きっと雪乃は同じようなふるまいをする。今までも、これからも。


 雪乃の部屋を出た麻穂は、涼を探しに向かった。

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