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今日は大晦日。寮はすっかりがらんどうになっている。
せっかくの長期休み、ましてや年末年始をわざわざ寮で過ごす物好きな生徒は滅多ににいない。
しかしそこに、物好きが二人残っていた。
物好きの一人、涼は寮の部屋にいた。携帯電話で誰かと話している。
「片岡。お前、今年も元日はうちに来るんだろう?」
電話の相手は、涼たちのクラス担任である園山だった。
せっかくの正月を一人きりで迎えるいとこを心配して、園山は去年も一昨年も自宅に招いていたのだった。
でも、今年は。
「いや、今年はいいや。寮にいる」
涼の意外な答えに、園山は電話の先で一瞬返事が遅れる。
「そうなのか? 旦那もお前が来ないと寂しがると思うぞ」
園山なりに気をつかって言ってくれているのだろう。
涼はそれをありがたく思いながら、「悪いな。義兄さんによろしく」とだけ伝えた。
だが、その時。
「涼~。ちょっと廊下見てきたんだけど、すごいよ。寮じゅう静かで誰もいないの!」
興奮気味に部屋に戻ってきた麻穂の声が、電話を通じて園山にも届く。
「ほーう……そういうことか」
電話越しでは声だけしか聞こえないというのに、涼には園山がニヤリと笑う顔が目に浮ぶようだった。
涼が電話をしていることに気づいた麻穂は、邪魔をしてはいけないと慌てて外に出ていく。
からかいの猛攻が来るかと涼は覚悟するも、一変、園山は優しいトーンでこう言った。
「まぁ……あと、三ヶ月もないからな。お前がそこにいられるのは」
いつになく落ち着いた園山の声色。
涼は止めようのない時の流れを強く感じた。
「せめて、残りの期間は楽しくやってくれ。じゃあな」
「……おう」
涼は通話を終えると、ドアの外で待っているであろう麻穂に声をかけに行った。
やはりそこにいた麻穂は、「邪魔しちゃってごめんね」と詫びる。
「いや、別に大丈夫。園山からだから。冬休み元気でやってるかって」
涼はとっさに内容をごまかした。
いずれ訪れる別れを彷彿させるようなことは言いたくなかったし、聞かせたくなかった。
誰もいなくなった寮の建物内を、二人で散歩がてらウロウロする。
「本当に誰も居なくなるんだね……。なんだか不思議な感じ」
物珍しそうにキョロキョロしながら、麻穂が感嘆の言葉を漏らす。
いつも部屋から漏れてくるみんなの騒がしい声はなく、静まり返った廊下。
シンとした談話室。いつも誰かしら見ているテレビは、電源が落とされていた。
生徒がほとんど帰省することから食堂も閉鎖され、いつも美味しいご飯を作ってくれる食堂のおばさんたちも全員お休みをとっている。
「他学年の談話室も遠慮なく入れるから、いろんなマンガ読み放題だぜ」
涼はそう言ってニッと笑ってみせる。
きっと彼はこれまでの年末年始休みもそういう風にして過ごしてきたのだろう、と麻穂は苦笑した。
視線を向けた窓の外。裸になった木々たちは、痩せた枝を木枯らしにさらしている。
麻穂は以前涼に告げたように、本当に実家に帰らなかった。
「冬休みはずっと寮にいることにする」と両親に電話で伝えたところ、電話越しでも両親が動揺していたのが分かった。当たり前のように家に帰るはずと思っていた娘が、突然帰省はしないと言い出したのだ。当然だろう。
麻穂は両親を驚かせて申し訳ない気持ちになったが、理由を言えるわけもなく。「ただ、なんとなく」とだけ言うに留めた。
同室の子と少しでも長く一緒にいたいから、なんて、仲が良いにしてもちょっと度が過ぎている気がする。
あくまで仮定の話だが、真剣に話せば、もしかしたら、両親は麻穂の気持ちを分かってくれるのかもしれない。
だけど。婚約破棄の話すら両親に本音で話したことがない麻穂にとって、それはとても難しいことだった。ひょうひょうとして茶目っ気のある祖父相手だと何でも言えるのに、それが両親相手となると途端に口が重くなってしまう。迷惑をかけたらいけない、と強く思ってしまう。
麻穂の両親から、「そう……。寒い時期だから、体にはくれぐれも気をつけてね」といたわるような返事をもらうと、「お父さんもお母さんもね」と伝えて、電話はそれで終わった。
「あとは……ロビーのでかいテレビも一人で自由に見られるし、廊下猛ダッシュしても何も文句言われないぜ。あ、マンガで見るような、階段の手すりに乗って滑り降りるのでもやってみるか?」
涼は無人の寮を楽しむ方法をいくつも麻穂に提案してくる。
廊下を猛ダッシュするとかいうのは冗談なのかもしれないが、涼が実際に一人きりでしたことのある行為なのかと思うと、麻穂は笑いがこみ上げてきてしまう。
そんなことを二人で面白おかしく話していた時だった。
「廊下の猛ダッシュも階段の手すりを滑り降りることも、わたくしが許しませんわよ」
背後から聞こえてきた声に、二人は思わず姿勢を正す。
振り返るとそこには。
「如月さんっ」
「寮長?!」
麻穂と涼のクラスメイトであり、女子寮長の如月雪乃がいた。
てっきりここには誰もいないと思っていた二人は、心臓が口から飛び出るかと思うほど驚いた。
驚きと共に、今まで正体がばれるようなことを言ってしまっていなかったか、心の中では大量の冷や汗をかいていた。
そんな二人の複雑な顔色など気に留めず、雪乃は自分がまだ寮に残っていた理由を語り出す。
「帰省間近になって熱を出してしまった子がいて。ずっと看病で付き添ってましたの。その子は昨夜に家の車が迎えに来て、無事に送り出せたんですけれど。わたくしの家の者たちが忙しいようで、明日にならないと迎えの車が来られないんですの。初めてここで年越しすることになりますわね」
涼は「なら、公共交通機関を駆使して徒歩で帰れよ……」と内心で引きつり笑いしながら思っていた。
杉浦学園は裕福な家の子女が多い。その程度や、家の方針にもよるのだろうだけれど、雪乃の家は相当彼女を箱入り娘にしているようだ。
「そうなんですか。大変ですね……」
しかし、麻穂は心から雪乃に同情している様子で。
こんなささいなやりとりだが、涼は二人との圧倒的な家の格の差を見せ付けられた気持ちになった。
「それにしても……ご実家が遠方の片岡さんはともかく、吉瀬さんはおうちに帰られないんですの?」
本当に不思議そうな表情をしている雪乃。
麻穂は「え。まあ、その、ちょっと、色々ありまして……」と一生懸命の苦笑いを返すしかない。
人の話しにくそうなことにずけずけと踏み込んでくるような雪乃ではない。「そう、色々ありますのね」と、さらっと話題を終わらせると、涼に向き直った。
「ともかく……わたくしが居ようと居まいと、規則は守っていただきますわよ。“規則”というか、『廊下を走らない』『階段で遊ばない』なんて、もう“常識”のレベルですわ」
頬に手のひらを添えて大げさにため息をついてみせる。
涼が何か上手いこと言い返そうとした時。麻穂はあわてて割って入る。
涼は雪乃をからかうのが得意なので、どちらが正しかろうと結局最後には雪乃が怒り散らして仕舞いになってしまうことが多いのだ。
「あっ、あの、如月さん! せっかくの大晦日ですし、寮に居るなら一緒に年越しそば食べませんか? 年末年始は寮の食堂が閉まっているので、私、おそば買ってきたんです」
そう麻穂に誘われて、雪乃はほんの一瞬、困ったような表情を浮かべる。
「あ……。誘ってくださってありがとう、吉瀬さん。嬉しいんですけれど、ちょっと所用がありますの」
涼はいぶかしげに片眉を上げた。
「所用? アクシデントでここに留まることになったんじゃないのか? つーか、年越しそば食う時間なんて、とっくに門限の後だけど?」
視線を逸らしたままの雪乃が言葉に詰まっている。
それを不思議そうに見つめる麻穂。いつも理路整然として口の立つ雪乃がただ閉口しているなんて。
しばらくすると、涼がふっと表情を崩した。
「……意地悪して悪かったな」
麻穂は全然流れがつかめない。一体何がどう意地悪なのか。代わる代わる、涼と雪乃の顔色を確認してしまう。
「どうせあたしら以外誰も居ないんだから、コソコソせずにゆっくりどこでも行ってきな。絶対何も言わないから」
そう言って涼は、雪乃に優しくほほ笑む。
少しだけ視線を上げた雪乃が、恥ずかしそうに、ばつが悪そうにまた視線を逸らす。
涼は部屋に戻ろうと麻穂を促した。雪乃に、「お前も身支度とかあるんだろ」と言って。
部屋に戻り、いまだ良く分かってない麻穂に尋ねられて、涼は自分の考えを説明する。
「んー。別に寮長から直接何か聞いたわけじゃないけど、多分、男だと思うんだよな」
「お……とこっ?!」
麻穂の思う雪乃にあまりに似つかわしくない単語に、言葉がうまく出てこなくなる。
「つーかきっと、『家の者が忙しくて迎えの車が明日にならないと来られない』ってのも嘘だと思うぜ。そもそも、俺みたいに実家が遠方とかならともかく、さほど遠くない距離を大事に送り迎えするような家の奴らが、ちょっと忙しいからって帰省する娘の迎えを後回しにするか? おそらく、雪乃自身が『病気の子を大晦日まで看病しないといけないから、迎えは一月一日にしてください』とでも家に連絡したんだろう。看病で帰省が延期になったのは偶然だと思うが、それを利用して家の管理外の一日を作ったんだな」
麻穂は、まさか雪乃がそんなことをするとは、ということと、涼の推理力に目を丸くしている。
「まあ、“大事にされてる箱入り娘”って言ったら聞こえはいいかもしれないけど。制約の多さや常に管理されている状態に、本人としたら息苦しく思うこともあるのかもしれないな。規則や決まりごとを大事にするアイツが、親や周りにに嘘をついてでも、どうしてもやりたいことがあったんだろ。まあ、そんな風にしないと会えない相手ってことは、色々苦労する間柄の人なんだろうけど……」
そう自分の考えを話し終えると、涼はポツリとつぶやいた。
「すごいな、寮長は……」
彼のその瞳はここではないどこか遠くの時間を見ているようだと、麻穂は思った。
麻穂も、あの雪乃にそんな秘密があって、そのためにこんな大胆な行動をしてしまうなんてとても驚いた。
だけど、麻穂にも分かる。本当に好きな人のためだったら、会いたい人のためだったら、今までの自分がするはずもなかったとんでもないことをしてしまうことだって、できたりする。
でも。
彼女を「すごい」と言う涼の口ぶりは、麻穂の思うそれとは少しばかり違うような気がした。
まるで、行動することを諦めた側から、行動できる雪乃を「すごい」と思って言っているような。
麻穂のその予感は、当たっていた。