53
涼が妙に落ち着いているので、恐怖に歪んでいた三人の表情が、不可解さに染まる。
こんな不気味なところに、怖がる三人だけで置いていかれてはたまらない。早足で進む涼をほぼあわてて追いかけた。
涼が共同トイレのドアを押し開ける。すると、うっすら聞こえていた声が完全に止んだ。やはり声はここから聞こえていたようだった。トイレは電気もつけられておらず、ここに人がいるとはとても思えないような暗闇だった。
そばまでついてきていた三人も、流石にそこまでは近寄る勇気はなく、彼の横顔だけを見つめていた。
廊下の窓から差し込む月明かりに照らされた彼の表情は、なぜか哀しげですらあった。
「電気、つけていいか?」
そう涼が問いかけた相手が、麻穂たちではないということを、三人は分かっていた。緊張で手に汗を握りながら、反応を待った。
「……だれ?」
蚊の鳴く泣くような小さな声だけれど、返事が返ってきた。
涼は、やはり居たか、とばかりに息をついた。
「三年の片岡だ」
そう告げてから、涼はトイレの電気をつけた。
パッと明るくなった空間。開け放たれた換気用窓から入り込む冷気で、廊下とは比にならない寒さだった。あまり使われない寂れたトイレ。
その個室から、一人の少女が姿を現した。
ドアの前に立つ涼の姿を認めると、不安そうに眉をひそめた。
突然トイレに声をかけ、入り込んできた涼。警戒されても当然だろうと、自分から話しだした。
「お前、いつもここで泣いてんのか?」
えっ、と驚いたのは、そう言われた少女だけではなかった。トイレの外に控えている麻穂たち三人も、目を見開いた。
少女は頬に手をやった。泣いていたのは隠したはずなのにと、ぬぐった涙のあとに触れる。
「泣き声も廊下に響いてたし、取り繕っても目見りゃ分かる。家族が恋しいか?」
泣き声。涼はそう言った。
麻穂と雪乃は、女子生徒が最初に形容した「笑うような声」という言葉を意識するあまり、不気味に笑っている声だとばかり思っていた。
全てを見抜かれた少女が、再び目に涙をためるのにそう時間はかからなかった。
「かっ、帰りたいよお……。パパとママに、会いたいよお……ままぁ、ぱぱぁ」
嗚咽混じりに、寂しさをかかえた心中を吐露した。
泣きじゃくる姿はただの子供にしか見えない。小さな体格と、三階にいたことから、一年生だろう。
涼は傍にいた雪乃に声をかけた。
「寮長、あとは頼んだぜ」
「え、ええ……」
流れから大体の事情が汲み取れた雪乃だったが、涼がなぜ、この少女が実家や両親のことを思って泣いていたのかを予想できていたのかだけは、分からなかった。
しかし今は大泣きする一年生の話を聞くのが先だと、寮長として彼女はすぐに行動した。
麻穂の隣にいた女子生徒が、「一年生が泣いてる声だったのかぁ」と、きまりが悪そうに指先で頬をかいた。
「真夜中に騒がせてごめんね」
麻穂が小さく「いえ」と首を横にふった。不安そうに揺れる麻穂の瞳は、泣いている少女が心配なようだった。
涼が共同トイレから出てくると、女子生徒は尋ねた。
「それにしても……どうして涼はあれが泣き声で、あの子がホームシックだってわかったの?」
なんと答えたものか、「んー」と言葉を探していた。
「なんとなくしか言えねえけど……幽霊なんているわけないって思ってるから、何かしら人が関わってるんだとは思ってたよ。そうなると、夜中のトイレで高笑いする人間なんてまずいないだろ? 電話越しとかだと泣き声も笑い声も一緒に聞こえることがあるように、こんだけ反響している小さな声であれば、どっちか断定するのは難しいと思ったんだよ。まず最初に『笑い声だ』って言ったお前らも、相当慌ててたみたいだからな。こんな時期に隠れて泣いてる奴は、大抵がホームシックだろ」
そう述べて見せると、女子生徒は「おおお」と小さく拍手した。
「よくあんな状況で、冷静にそこまで考えてたね~。流石ぁ。その調子で、寮の七不思議とかも解いちゃってよ」
さっきはあんなに必死の形相で飛びついてきていたのに、おばけの正体がわかった途端に調子がいいな、と涼はひきつった笑いを浮かべるしかない。
少女には雪乃が付き合い、眠れないと言っていた女子生徒も「もうぐっすり眠れるわ」と部屋に帰っていった。
涼と麻穂も自室に戻った。
彼はこの騒ぎが終わったらすぐにでも眠るだろう、麻穂はそう思っていた。
しかし彼は、カーディガンを脱ぐと、そのままぼーっと机の前の椅子に腰掛けていた。
目が覚めてしまったのかなと思い、麻穂は彼に声をかけた。
「ねえ、涼。さっき言ってたことで、少し分からないところがあったんだけど」
「なんだ?」と涼が振り向く。
「どうしてホームシックで、“この時期”に隠れて泣いてる人がいるの?」
麻穂が首をかしげて尋ねる。
「……いろんな事情で田舎に帰れないやつもいるからな。もうそろそろ冬休みだろ? 大晦日、お正月と家族で過ごすために大体の奴が実家に帰る。いそいそと帰り支度をしてる友達の手前強がったけど、本当は寂しくて仕方ない。だから隠れて泣いてたのかなぁと思ったんだよ」
さらりとそう述べた涼の表情が、少し憂いているように思えた。麻穂は再び彼に尋ねた。
「涼も、冬休みは実家に帰らないの?」
「ああ。前に言ったろ、父さんの顔は三年間見てないって。帰郷する金銭的余裕とかの話じゃなくて、俺の場合この姿で地元に行くわけにはいかないしな」
麻穂は、どうしてこんなことを聞いてしまったのかと、自分を叱った。これまでの彼の話から、そうであることは想像がついたはずなのに、彼にそんなことを説明させてしまった。
しかし、涼はさほど気にしていないような声色で、麻穂に尋ね返した。
「麻穂は実家に戻るだろ? 何日から何日の間、帰ってるんだ?」
「わ、私も、今年は帰らないよ……」
麻穂が頑張って嘘をつくとき、不自然な声の響きが伴うことを涼は分かっていた。彼女が嘘をつく理由が自分のためだということも、気づいていた。
涼は口元だけで笑って見せた。
「俺に気ぃ使うなよ。俺としても、麻穂の家族の団らんを望んでるぜ。両親に会える機会があるんだから、家族で一緒にいたほうがいい」
涼の言葉には説得力があった。彼に口で勝てるとは思っていなかったけれど、麻穂は一生懸命言葉を選んだ。
「あのね……私は今までずっと、家族で新年をむかえてた。でも涼は学園にきてからは毎年独りのお正月だったんだよね? だったら私の十五分の一のお正月を、涼にあげるよ!」
理由の分からない麻穂の気迫に、彼の口がぽかんと半開きになる。
涼が反応を示さないのが不安になって、麻穂が戸惑いながら
「えっ、あの、言ってる意味、わかりづらかったかな……」
と、もう一度分かりやすく説明しようとする。
涼は思わず吹き出してしまった。腹を抱えて笑っている。
「あー、麻穂っておもしれえな」
「それは、いい意味で言ってる?」
への字になった唇。あごを引いて彼を見上げた。
「いい意味に決まってるだろ。あー、いい夢見そうだから、早く寝よ。」
そう言って立ち上がると、涼は伸びをして、ベッドにもぐった。
彼が笑った理由が最後までわからなかったが、彼の顔から陰りが消えていたので、麻穂は「ま、いっか」と自分も布団にもぐった。
電気の消された、真っ暗な室内。数時間前の「おやすみ」に戻ったようだった。
ギシ、と涼が寝返りを打つ音がする。
まだ起きているかな、と思いつつ麻穂は涼に声をかけた。彼に言い忘れたことがあったのを思い出したのだ。
「涼、起きてる?」
「……うん、何?」
意識が途切れかけていたのだろう、麻穂の声で現実に引き戻されたようだった。
起こしてしまったことを謝ってから、麻穂は言った。
「さっき、ありがとう。それでもやっぱり怖かったけど、すごく心強かった」
涼は彼女がなんのことを言っているのか、すぐにわかった。
暗闇の中、雪乃たちに気づかれないように手を握っていたことだ。
思い出すと互いに恥ずかしいのに、きまじめな彼女はそんなことにまできちんとお礼を言ってくる。
そんなまっすぐさも、彼女の好きなところの一つなのだけれど。
涼がなんと返そうかと迷っていると、麻穂はまた言葉を続けた。
「あと、ここが昔病院だったって噂話。涼が『病院跡地なんかじゃない』って言ってくれたから、そっちのほうが信じられたよ」
彼女の言葉に、涼は反射的に言ってしまった。
「ここが昔病院だったってのは、ホントだぜ?」
「えっ?!」
それを聞いて、麻穂から大きな声が飛び出す。
「だって、さっき違うって……」
「あれは、なんか評判の悪い医者がやってるだとか、手術失敗しまくってるとか、そういうヘンテコなエピソードのある病院ではない、って意味だったんだけど……」
とそこまで話してから、麻穂の反応が皆無であることに気がついた。
(これ、話さない方が良かったパターンだな……)
また、麻穂が恐る恐る尋ねてくる。
「じゃあ、さっき耳にした、『この寮の七不思議』って単語は……」
涼はなんと返したらいいか迷い、「んーっと……」と言葉を探していた。
しかしその反応で、その噂が根拠のない嘘ではないということが十分に分かってしまった。二人の間に不自然な間があく。
「い、いや、俺は全く根も葉もない話だと思ってるぜ! そういうのって結局、勘違いだったり、人を経ていくうちに話が大げさになったりしてるだけだからさ。 幽霊の 正体見たり 枯れ尾花、ってな!」
慌ててフォローするも、麻穂から返事がない。不安に思っていると、下から声がかかる。
「……わたし、もう寝るね。おやすみっ」
衣擦れの音がして、麻穂が布団を引き上げたのがわかった。
彼女が眠るというのならそれで構わない、と涼も「おやすみ」と目を閉じた。
二人が黙り込むと、時計の針の音や風の音がよく聞こえてきた。そんな音たちを子守唄に、涼は深い眠りに落ちていった。
しかしながら、彼は今晩何度目かの睡眠妨害に遭うことになる。
「涼、涼……」
意識が途切れた先で、頼りなく自分を呼ぶ麻穂の声。
気になって返事をしようとするが、睡魔に抗えず、猫が鳴くのような声が漏れるばかり。
「涼、ねえねえ」
彼女の声が大きくなった。聞こえる方向からして、ベッドの下からの声ではない。
麻穂がもう一度彼の名を呼んだとき、涼は薄く片目を開いた。
彼女はベッドを出ていた。薄闇の中、立ってこちらを見上げているのがわかる。枕を抱えて、困ったように眉毛を下げていた。
「……どうした」
かすれたような低い声が、起こされて不機嫌なように聞こえた。
そんな彼に、麻穂が恥らいながら一言。
「あの……一緒に寝ていい?」
麻穂が何を言っているかわけが分からず、眉根が寄る。寝ぼけた頭のまま、
「……はあ?」
と声をひねり出すしかない。半分しか開いていない目で、麻穂をじっと見つめる。きっと麻穂からしたら、睨まれているように見えただろう。
麻穂は弱気になりながらも、もう一度言った。
「だから、涼に、私と一緒に寝てもらえないかなって……」
涼は面倒に思いながらも、上半身をだるそうに起こした。
「なに、どうしたの」
「さっき聞いた話が怖くて、一人で寝られないの……」
彼女の言葉に、涼は盛大に肩を落とした。
あまりに間抜けな理由で、とんでもないことを言ってくるので、すっかり目が覚めてしまった。
「お前な、今何歳だよ! ちょっとは女子としての自覚を……」
麻穂に説教をしようとしたが、不意に言葉が止まってしまう。
自分も幼い頃は、見たこともないおばけや悪夢が怖くて親に一緒に寝てもらった記憶がある。
しかし、今はもう子どもじゃない。
しかも、いくら怖くて一人で寝られないからと言って、見た目は女でも、正体は男だと分かっている自分に「一緒に寝てほしい」と頼むのはいかがなものだろうか。
(麻穂の警戒心が無さすぎるのか、そこまで追い詰められているのか、それとも俺が何も意識されていないのか……)
そんなことを考えいても仕方がない、涼は小さく咳払いをして話を切り替えた。
「おばけは居ない、居たとしてもここには来ません。おやすみ」
彼が再び体をベッドに沈めようとするのを察して、麻穂は上段へかかるはしごに足をかけた。
「涼、おねがいっ。バカみたいかもしれないけど、本当に怖いの」
枕を抱えて必死に訴えてくる様からは、涼が眠ってからもずっと一人で起きていたのだろうということが察せられた。
涼は枕元においてある自分の時計を見た。四時過ぎを指していた。
盛大にため息をついて、再び体を起こす。
「お前が寝るまで横で起きててやるから、それでいいだろ」
涼は項垂れたままそう言った。
「でも、それじゃあ涼が寝られない……」
麻穂が変な気を使ってくるので、涼はキッパリと言ってやった。
「お前の隣で快眠できるような俺じゃねえよ。むしろもっと寝れなくなるわ」
内心では彼女に、「もっと意識しろっつーの!」とツッコミを入れてさえいた。
布団の温もりから抜け出た涼は、麻穂が下段のベッドにに体を落ち着けると、その横にあぐらをかいて、ベッドの柵によりかかった。
麻穂は涼の方を向いて、彼の存在を近くに感じながらそっとまぶたを下ろす。
安心したのか麻穂はあっという間に眠ってしまって、涼の耳にはすぐに安らかな寝息が聞こえてきた。
背を向けていた涼が、確認しようと振り返る。
そして振り返った瞬間にふと思った。
(俺、麻穂の寝姿見るの初めてじゃねえか……?)
視界に飛び込んでくる、無防備な彼女の寝顔。
麻穂はいつも涼より早く起きる。こんなに間近で、寝ている彼女を見たことがなかった。
眠ったことを確認したら、すぐに自分もベッドに戻って寝ようと思っていたのに、思わず目を離すタイミングを逸してしまう。
(よく考えるとこの状況って……まずいよなぁ。理事長とか園山とか、事情を知ってるやつはどう思ってるんだよ)
今まで涼が一人で暮らしてた部屋に、麻穂は予告なく現れた。
あっという間にルームメイトとしての生活が始まり、お互いに譲れない理由があって、あわただしい流れのままに一緒に暮らしてきた。
彼女のことは好きだけれど、なるべく異性として意識しすぎないようにしてきた。そうでなければ、一緒の部屋で暮らしていくことなど出来ない。
悩みのなさそうな、穏やかな彼女の寝顔。
(麻穂は一体何を考えて、能天気に俺と暮らしてるんだ……)
こんなに色々と意識したり葛藤したりしているのが自分だけなのかと思うと、むなしさを通り越してバカらしくなってしまう。
彼女が寝返りをうって不意に漏らす吐息を聞いてしまうと、思わず深いため息が出てしまう。
(麻穂さん……それは流石に、俺でも変な気を起こしかねません……)
自分を制するかのように、儀式的にハンズアップの動作をしてしまう。
すっかり目が冴えてしまい眠れなくなった涼は、結局朝方まで一睡も出来なかった。




