5
園山と話があるという涼を残し、麻穂は一人英語教官室を出た。
いつの間にか話し込んでしまったようで、窓からは夕暮れが確認できた。秋の日はつるべ落とし、最近は気がつくとあっという間に日が暮れている。
時間を確認すると5時半少し前。
麻穂はちょっと校舎を見て回ってみようと思い、階段へ足を向けた。
英語教官室の上の階には図書室があり、麻穂はその部屋に入ってみた。
この杉浦学園は私立の割に特に設備がいいというわけでもなく、図書館も至って普通だった。麻穂は正直がっかりした。
麻穂は転入してくる前は都内の別の私立に通っていたのだが、図書室の規模はそこに負けていると思った。
唯一、杉浦学園が圧倒的に勝っているはその敷地面積だろう。
図書室では、図書委員の当番らしき女子生徒が二名、カウンターでおしゃべりに興じていた。
麻穂は図書室に初めて来たので、とりあえず隅まで見て回ることにした。
大きな本棚が左右対称に並び、壁沿いにも隙間を埋めるように本棚が並んでいた。麻穂は自分の好きな海外文学の棚を探した。
麻穂が何気なく本棚を見ていると、にわかに入り口の方が騒がしくなった。図書委員の女子が何やら歓声をあげているようだった。
麻穂は少し気にしつつも、自分には関係ないことだろうと無視し、目の前の小説を手に取った。
「あ、これまだ読んでないやつだ……」
麻穂は少し目を通してから、きょろきょろと辺りを見回してみた。貸し出し方法など書いていないものかと思ったが、生憎そういう丁寧なものはなかった。
仕方ないなと、本を棚に戻したときだった。
それは突然、気配なくふってきた声だった。
「マホちゃん」
麻穂は反射的に体を強張らせた。視界が少し陰り、自分に上から何かが覆いかぶさっているのだと分かった。
「誰?」
麻穂は振り返らず、そのまま強い口調で牽制した。
「さて、誰でしょう」
声はひそめられつつも楽しそうな響きを持っていた。その声は男性のもので、声がわりを既に終えているようだった。
「ふざけていると大声を出すわよ」
「ここで大声を出したところで、駆けつけるのはせいぜい受付の女子二人。僕ならそのくらいすぐに相手できちゃうけどな」
その台詞に麻穂はハッと気がづいて、名前を口にした。
「高時祐真……?!」
麻穂が眉を寄せて訝しげに言うと、残念そうな吐息が頭の上から降ってきた。
「残念。もう少し遊んでられると思ったのにな」
視界の陰りが消え、おおいかぶさっていたものがなくなったので、麻穂はゆっくり振り向いて顔をあげる。そこにはにっこりと微笑む祐真の姿があった。
「やあ」
麻穂は素早くその身を彼から離すと、顎を引いてにらみつけた。
「私に何か用?」
「つれないね。僕が声をかけたら大抵の女の子は喜んでくれるのに」
祐真は肩をすくめる。
「女の子をなめてると痛い目にあうわよ」
麻穂はきつい目つきで祐真を睨んだ。
麻穂は彼の顔をじっと見つめながら、見つめ返されるその眼差しを受けて、自然と自分の頬が熱を帯びていくを感じた。確かに祐真は女の子を騒がせるだけの力はあると思う。鼻筋が通っていて、目は綺麗な二重。背も高いし顔立ちだけで知性に富んでいると分かる。
そんな誘惑を振り払うようにして、麻穂は祐真に言い放った。
「高時祐真、あなたは先生たちには受けがいいかもしれないけど、成績優秀かもしれないけど、女の子にちやほやされるかもしれないけどっ! 全て思い通りにいくと思ったら大間違いなんだから。昨夜のことだって、いずれは明るみに出るんだからね!」
麻穂が赤くなった顔でそう言い放ってからしばらくして、祐真は口元だけで小さく笑った。
「何がおかしいの」
「マホちゃん、転校してきたばっかりなのに、どうして僕のことをそんなに知ってるの? まるで調べつくしたみたいだよ」
麻穂は思わず身をすくめた。そこを突かれるとは思わなかった。
「どうして?」とたずねんばかりの微笑みをたたえた祐真に、麻穂は悔し紛れに言い捨てた。
「あなたって意地悪ね」
二人の間に沈黙が訪れると、麻穂はその間に耐え切れず、
「まだ何かご用?」
と問いかけた。
「いや、偶然ここで君と出会ったから、一緒にいるのも悪くないかなと思って」
麻穂はそんな歯が浮くようなキザな台詞を聞いて、呆れた表情を隠せない。
「いつもそんなこと言って回ってるの?」
「たまにだよ」
ふとその時、祐真が気配を察知して麻穂から距離をとった。
祐真の予想通り、すぐに図書委員の女子一人が姿を現した。
「高時くん、そろそろ図書室閉めるよ?」
恥ずかしそうにもじもじしながらそう一言告げる。彼女は麻穂のことなど眼中にはないようだ。
祐真はすぐに微笑み返した。
「分かった。ありがとう、すぐに出るよ」
これで彼に落ちない女性はいないだろうと思えるような、爽やかで完璧な微笑み。それを受けて図書委員の女子は興奮気味に去っていった。
ようやく解放されると思い、麻穂がほっとしたのも束の間。何かに手を引っ張られていた。
「マホちゃん、行くよ?」
「えっ」
いつの間にか、祐真に手を掴まれていた。
麻穂は強引に手を引っ込めようとするが、彼のの力は強く逃れられない。
「離してよ!」
「一緒に来てくれるなら」
自分に向けられる祐真の微笑みは、まるで悪魔の微笑みのようだと麻穂は思った。
「わかった、わかったから」
麻穂が観念して脱力すると、麻穂の手はするりと自由になった。
祐真のあとを、少しはなれて麻穂がついていく。
図書室を出ると、祐真は麻穂のすぐ隣にポジションを移した。
「もう日も落ちたし、寮まで送るよ」
祐真の申し出を即座に断ろうとした麻穂だったが、先ほど一緒についていくと約束してしまったばかり。ため息混じりにそれを了承した。
玄関を出るとすっかり真っ暗で、運動部は校庭の大きなライトに照らされて部活動をしていた。
二人はすっかり夜の空気になった学校を抜けて、女子寮への帰路へつく。自分より背の低い麻穂のリーチにあわせ、さりげなく祐真は歩みをゆるめていた。
「マホちゃん、フルネームはなんて言うの?」
「吉瀬 麻穂。ていうか、麻穂ちゃんって呼ぶのやめてくれない?」
「どうして?」
心底意外そうに祐真がそれを尋ねると、麻穂は言葉に詰まってしまう。
祐真の隣を歩くという不本意な現状を受け入れられず、麻穂の頭の中は混乱していた。
「だからね、私、あなたとは仲良くしたくないの。むしろそのためにこの学園にきたようなものなの」
「麻穂ちゃん、何を言ってるかさっぱりわからないけど」
「だぁーっ! もううるさいわねっ」
麻穂ががむしゃらに振りかざした腕が、祐真の大きな掌によって簡単に受け止められてしまう。
手と手が触れ合って麻穂が飛びのく。再び顔を赤くして、麻穂が彼に怒鳴りつけた。
「と、とにかく、私に構わないで!」
祐真はそんなことなどなんでもないように、麻穂を不思議がって眺めていた。
「君って面白い子だね」
祐真は麻穂を見つめて微笑んだ。
麻穂はまた反射的に顔を赤らめてしまったが、それを自覚すると熱を冷まそうとするかのように顔を左右に大きく振った。
「私は全然面白くない!」
麻穂がらしくない大声を出して騒いでいる道の先で、薄闇から人がやってきていた。
麻穂がむぅと祐真を睨み付けている一方で、祐真は闇に目をこらしていた。
そして何かを認めると、麻穂の肩を引き寄せて耳打ちした。
「君はこの路地に隠れて、隙を見て帰るんだ」
「えっ?」
聞き返す間もなく、間抜けな声を漏らした麻穂はそのまま細い路地に身を押し込まれた。麻穂はまばたきを繰り返し、状況を把握しようとしていた。
祐真はその道の先へと一人で足を進めたが、少ししたところで足音が消えた。
「やあ、昨日ぶりだね」
祐真の声が聞こえてくる。麻穂は耳をすました。
「てめえ、一人でこんなところで何してんだよ」
「君たちがまた下らない悪さしてないか見にきたんだよ」
柄の悪そうな口調の少年の声が複数聞こえて、麻穂は昨晩を思い出し身をすくめた。
しかし、祐真は一切恐れを感じさせなかった。
「高時、俺たちにと一人でやるつもりか?」
「別に、それでもかまわないよ」
麻穂が何が起こるのかと思ったその瞬間だった。なかなか耳にすることのない、強い力を持った何かがぶつかりあう衝撃音がした。
麻穂はこっそり頭を出して祐真の方を確認すると、祐真が3人の少年と対峙していた。少年たちの戦い方は、がむしゃらに繰り出す力技の拳だったが、祐真の戦い方はそれに比べてとても優雅だった。相手の攻撃を効率的に受け流し、そこに生じた隙に理に適った技を決めていて、無駄な動きやオーバーなアクションは一切ない。そういうことには詳しくないが空手や合気道のような動きなのだろうか、確実に武道の心得のある人間の動きだと麻穂は思った。
流石に三人を同時に相手にして余裕ではいられないようだったが、祐真は着実に相手の体力を削っていた。
「高時ぃ!!」
少年たちの咆哮が闇夜に響く。
麻穂は自分の身が自然と縮こまるのを感じた。
そして祐真が自分をここへ押し込んだのは、自分の身を守ってくれるためだったのだと気づき、麻穂は唇を噛んだ。祐真がわざわざここで派手に戦っているのも、きっと自分の存在に気づかせないため。
しばらくすると祐真は戦いをやめ、走って寮とは逆の方向に少年たちをひきつけていった。
麻穂は彼らの姿が見えなくなったことを確認すると、走って寮へ帰った。
寮の明かりがこんなに心強く感じたことはない。玄関に駆け込むと、そこには丁度雪乃がいた。
「あら、吉瀬さん、ごきげんよう」
私服に着替えた彼女は、制服の時同様優雅に挨拶した。
「こ、こんばんは如月さん」
麻穂は肩で息をしながら、なんとか返事をする。
その様子を見た雪乃は不審そうに首を傾げる。
「どうかいたしました?」
「いいえ、大丈夫です」
麻穂はいつの間にか自分が学生鞄を胸に抱えていたことに気づいて、そっとその腕を下ろした。
「最近は日が暮れるのが早いですわね。夜は危険ですから、早くお帰りになったほうがよろしくってよ」
「そうですね」
雪乃の言葉に、麻穂は心から同意して頷いた。
下駄箱で部屋履きに履き替えて、部屋へ急ぐ。
さっき起こったことがまだ理解しきれず、混乱している自分がいた。むしろ更にさかのぼって図書室で祐真に出会ったところから、まだ把握しきれていないといってもいい。
麻穂は自室のドアを勢いよく押し開けた。
そこにはいつものジャージ姿で床に寝転び、雑誌を読む涼の姿があった。英語教官室で別れてから麻穂が図書室に寄ったりしているうちに、涼のほうが先に寮に帰っていたようだった。
「涼~!」
そのまま麻穂は涼に飛びついた。
「お、おいっ! 何だよ麻穂!?」
突然のことに体を硬直させる涼。持っていた格闘技雑誌を床に投げて、麻穂の両肩をがしっと掴んでお互いの体に距離を取った。
「涼どうしよう、お世話になんてなりたくないのに高時祐真にかばわれちゃったかも知れない」
潤んだ瞳で訴えてくる麻穂に、涼は眉根を寄せて「あぁん?」と訊き返した。
「何が何だかさっぱりわかんねぇよ」
「だから、一人で喧嘩してるの! 私を逃がすために! 高時祐真が!」
涼はおぼろげであるが事態を把握して、麻穂に確認した。
「何となく分かった。お前を逃がすために、高時祐真が一人でどっかで喧嘩してるんだな」
なんとか伝わり、麻穂はコクコク頷く。
「よし、あたしが様子を見てきてやるから、麻穂は寮を出るんじゃねえぞ」
麻穂は立ち上がった涼のジャージの裾をつかんだ。
「でも、涼が危ない目に遭うんじゃ……」
「あたしは大丈夫。ちょっと辺りを見回ってくるから、寮長とかには何も言うなよ」
「うん……」
涼の凛々しい眼差しに思わず頷かされてしまった。
麻穂は床にへたりこんで、素早く出かける支度をする涼を祈るように見守っていた。
涼が急いで扉を開けて、出て行こうとしたその時。ふと立ち止まって振り返り、麻穂に一声かけた。
「あー、麻穂。……帰ったら言いたいことがあるんだ」
「言いたいこと?」
麻穂がきょとんと言葉を繰り返す。
「今言えばいいじゃない」
「ゆっくり話したいんだよ。まあ、とにかく心の準備をしといてくれよな」
「う、うん」
涼は戸惑う麻穂を一人残し、部屋を飛び出していった。
一人になった麻穂はしばらくほうけたままだった。
祐真に図書室で声をかけられたこと。一緒に帰ったこと。祐真が自分を守るために喧嘩に巻き込まれたこと。
そして、麻穂が抱える秘密。
頭が爆発しそうだった。
だがしかし、その混乱はこれから涼が招くとんでもない爆弾の序章にしか過ぎなかった。