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門限をとっくに過ぎた夜十時。夜の街を一人帰路につく涼は、寒さに両手をポケットに入れていた。
わずらわしい長い髪がないのは楽だったが、その分さらされた首筋に冷気が直接触れてくる。耳の端が赤くなり、感覚がなくなってくる。息はまだ白くはないものの、あと数日の問題だろうと涼は思った。
涼が「麻穂と付き合っている」と田中に告げると、彼は「やっぱり、そうですよね」と弱気に笑って見せた。そして自分のわがままに付き合わせてしまったことを涼に詫び、麻穂にはもう不必要に近づかないので、謝っておいてほしいと頼まれた。
麻穂のため、田中に嘘をつくことは決めていた。でもその嘘は、麻穂が想定していたものとは異なる内容だった。
本当はあの日一緒にいたはずの祐真の役を演じ、「自分は彼女と特別な関係ではない」と言わなくてはならなかったのだが。
しかし、色々と考えているうちに、目の前で麻穂が告白されたときのやるせない感情が思い出された。自分が女の姿でいる以上、周りの男たちの壁になることはできないと、その時まざまざと思い知らされた。
だからこそ、この今だけの言葉の上でだけでも、彼女を独占したかった。
麻穂を好きだという男に塩を送るような真似は、絶対に出来ない。「恋敵にエールを送るような真似、僕がすると思う?」と言った祐真の気持ちがよく分かった。
最後に田中は涼を見てこう言った。
「正直、意外です。杉浦さんが好きになるだろうと思っていたタイプとは、だいぶ違うタイプの人だったので」
それから彼は、「彼女をよろしくお願いします」と頭を深く下げた。
麻穂のことを頼まれたのは、祐真に続き田中で二人目。麻穂は随分多くの人間に大事にされているな、と涼は内心で苦笑するしかなかった。
それと、麻穂を知る周囲の人間からすると、自分は彼女に不似合いな存在だということを改めて自覚させられた。
一体どんなタイプだったら、麻穂が好きになるに相応しい人間だったのだろうか。彼女の一番近くに立つに相応しい男だったのだろうか。
おそらく高時祐真のような、絵に描いたような優秀で爽やかな男なのだろう。
でも自分はそんな風にはなれそうにないし、と涼はもやもやと頭を悩ませていた。
涼は一人夜道を歩く。
風がないのはありがたかったが、冬の空気はやはり素肌には厳しい。麻穂が貸してくれたマフラーがありがたかった。マフラーに顎を埋めると彼女の香りがしてくるようだった。
(麻穂に会いたい……)
賑わう街の明かりがきらびやかであればあるほどに、自分の心は締め付けられるように寂しくなる。
周りの人間がみな誰かと一緒に歩いているわけではない。それなのになぜだろうか。自分の中に隠した寂しさだとか、人恋しさとかが浮き彫りにされるようだった。
そんな気持ちを持て余していたせいか、寮までの帰路は行きよりもやけに遠い道のりに感じられた。
商店街の真ん中にある交差点で信号を待っていると、向かい側からこちらに手を振る人影が目に入った。
こちら側で信号を待つ人間は自分だけではない。最初は誰か別の人に対してかと思ったが、それは間違いなく自分に対して振られている手だった。
その事実に気づいた時には、信号は青に変わっていた。
「……私も抜け出してきちゃった」
涼が少し駆けて近寄ると、手を振るのをやめた麻穂は無邪気に笑いながらそう言った。
ファーのついた厚手のコートを着て、足は膝までのブーツをはき、ばっちり防寒をしている。
「お前、すっかり寮則破りの常習犯だな」
彼女のそばに立った涼は呆れて笑ってしまう。
こんな遅い時間に一人で出歩いていたことをたしなめるべきだったのかもしれない。女の子の夜歩きは危険だし、彼女が一人で歩いていたらまた不良たちに絡まれる危険だってある。
しかし自分を見つけて笑顔になる彼女を見たら、そんなことはどうでもよくなってしまった。彼女が危ないのであれば、自分がこうしてそばにいればいい。
「一緒に帰ろう、涼」
寒さに頬を赤くして言う彼女に、涼は笑い返した。
「ああ」
さっき自分は「麻穂と付き合っている」と嘘をついた。その相手が隣にいて、普段以上に意識してしまう。もし麻穂に予定と違う嘘をついていることや、嘘の内容がバレたらどうしようとか。
でもそれ以上に、もし彼女と両思いになって付き合うことができたならと、想像してしまう自分がいた。思わず浮ついてしまう自分の思考を何度もたしなめる。
麻穂は涼の隣に並んだ。
少し間のある距離で一緒に歩いていく。女の格好をしている時の彼と違って、距離を詰めるのがなんとなくためらわれた。
彼と私服で街中を歩くのは文化祭の練習以来だった。そして男の格好の涼といるのは二回目。
麻穂は嬉しくて舞い上がりそうだった。
彼女も年頃の女の子である。ロマンチックなイルミネーションの輝く街を好きな人と歩く。それはこの上ない憧れの状況だった。
今、男性として横にいる彼。男の姿の彼をもっと見つめたい、けれど恥ずかしくて見上げることができない。せめぎ合う気持ちで胸がドキドキうるさかった。
その時、ふと涼が足をとめた。
「あ、そうだ。これ貸してくれてありがとな。暖かかったぜ」
自分の首に巻いたマフラーを外し、彼女の寒そうな首元にふわりとかけてやる。自分が借りてしまっているせいで、彼女は首元の防寒ができなかったことに気がついたのだ。
しかし麻穂は慌てて彼の手に触れて、動きを制した。これでは彼の方が寒くなってしまう。
「私は大丈夫だよ、たくさん着込んできたから!」
そう言う彼女の指先は痛いくらいに冷えていて、赤みを帯びている。
それに気づいた涼は、
「寒がりが強がってんじゃねえよ」
と、仕方なさそうに笑って見せた。
そのまま彼が歩き出してしまい、麻穂がどうしようかと迷ったのは一瞬のことだった。
彼の手に触れた麻穂の指先。気づけばそれを、彼がかたく握り返していた。包み込むように握られたその手は、そのまま離されることがない。
歩みだす彼に引かれるようにして、足が前に出た。
「あっ……」
涼が手をつないでくれている。
あまりに驚いて、半音にも満たないような言葉が漏れる。
彼は振り返ることなく、
「……嫌だったら、放していいから」
とだけ言った。
彼の後姿からは、発せられた言葉以外の感情や思考が伺えなかった。
嫌なわけがなかった。彼から手を握ってきてくれたことが嬉しくて、麻穂は頬がゆるむのをおさえられない。
どうして手をつないでくれたのか。こんなことをしてくれるということは、自分のことを少しは特別に思ってくれているのか。いやでも期待が膨らんでしまう。
返事をするかわりに彼の手を握り返して、彼の横へ駆けた。
そんな彼女に、涼はポツリとつぶやいた。
「俺もマフラー買おうかな」
「よかったら、一緒に買いに行く?」
遠慮がちに彼を見上げ、麻穂が尋ねる。
涼は「うーん」と眉根を寄せ、困ったように目を細めた。
「……俺、女の格好になるけどいいの?」
涼もまた遠慮がちに尋ねる。本気で悩んでいる様子だった。
まさかそんなことを気にしているとは思ってもいなかった麻穂は、「いいに決まってるじゃない」と声を張った。
以前涼に「一緒に出かけようよ」と誘った時には、「俺みたいなやつと行っても変だろ、他のちゃんとした奴と行きな」とやんわり断られてしまった。
だから、彼が誘いに応じてくれたことがとても嬉しかった。
「もしかして、女の格好の涼と出かけるのを私が嫌がると思ってたの?」
おそるおそる彼を見上げて尋ねる。
麻穂と視線がかちあった涼は、プイと顔を背け、恥ずかしそうにこう言う。
「俺が嫌なの」
彼の言葉の意味がよく理解できずに、麻穂は小首をかしげた。
自分の手を包み込むようにつながれた彼の手は、大きくてあたたかかった。冷え性の自分に対し、身体能力が優れている涼は代謝が高いのだろうと、麻穂は思った。自分の冷たい手が段々温められていく。
汗をかいてないかとか、変に力が入ってしまっていないかとか意識するあまり、彼とつないだ手だけが自分の体の一部ではないような感覚さえしてきた。
周りの人たちからしたら自分たちは恋人同士に見えるのか。自分など涼に釣り合ってないんじゃないか。麻穂はそんなことを取り留めなく、ドキドキしながら考えていた。
その時ふいに、涼が片手でフェイク用の眼鏡を外した。
もう田中とも会ったし、かけている必要はない。涼はそう判断しただけだったのだが、麻穂は慌てて彼に伝えた。
「ねえ、涼? お父さんの眼鏡、ほんとに似合ってたからね」
「分かったから、何度も言うなよ。恥ずかしい」
彼女の純粋な正直さに対し、涼は恥ずかしさをごまかすしかない。
「あと……また昔みたいに寂しくなったら、言ってね」
「もう大丈夫だって。こっちに来てどれだけ経つと思ってんだよ」
呆れたように麻穂を見下ろすと、彼女のつぶらな瞳と視線がぶつかった。
「これからは私が、涼のそばにいるよ」
彼女は普段、自分が守ってやらねばと強く思うほど弱く見えることもあるのに、時として芯のある意志の強い一面を覗かせる。
涼は自分の心が温かくなるのを感じた。
温かさが全身に広がっていくような心地良い感覚。彼女のことを可愛らしいと思い、守ってやりたいと思う気持ちとは違うときめき。
彼女の純粋な心に逆に自分が守られているのだということを、涼は改めて理解した。




