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一週間経った夜。
田中との約束を果たすため、涼は男の格好で駅まで向かうことになっていた。
もちろん涼にぬかりはない。男の格好を目撃されるリスクを避けるため、門限を過ぎた時間に田中を呼び出しておいた。
更に麻穂を部屋に残しての長時間無断外出なので、いざというとき共犯として彼女が責められないよう、寮長である雪乃に根回しもしておいた。「門限破りもいい加減になさい」と小言を言われるも、彼女との長い付き合いと彼の交渉術により、渋々承諾してもらえた。
麻穂にトイレの個室で待ってもらっている間に、涼は手早く着替えを済ませる。
ほとんど日の目を見ることのない男物の冬服。
演劇よりプライベートで活躍する機会の多い短髪のウィッグ。
そして最後に机の引き出しの奥を探って、あるものを取り出した。
「着替え終わった」と声をかけられて個室から出てきた麻穂は、彼の手にあるものを見て小首を傾げた。
「なあに、それ?」
「眼鏡」
それは黒いフレームの眼鏡で、使い込まれたのちに放置されたのか、レンズには古い手垢がベタベタとついてくすんでいた。
「涼って目が悪いんだっけ?」
「いや、全然悪くない。これは俺が北海道からこっちに来るとき、父さんから貰ったんだ。父さんが昔使ってた眼鏡。もちろん、度数の合わない眼鏡なんてかけられるわけないんだけどさ」
そう言いながら涼は椅子に腰掛け、指先に力を込めてフレームから右のレンズを抜く。
麻穂は、眼鏡のレンズが人の手の力であっさり外れてしまうことにびっくりした。
それと、父親から譲り受けたという大切なはずの眼鏡を、レンズを抜いただけとはいえ壊してしまう涼にも驚いていた。
手元では作業を続けながら、涼は淡々と説明を続ける。
「ずーっと能天気に家族と暮らしてたガキが、十二歳で地元を離れて、何年も両親に会えずに、知らない土地で一人きり。誰にも漏らせない秘密を持って暮らすんだ。家族を思って自分で決断したことだったけど、不安でしょうがなくて、直前になって行きたくないとか騒いで泣いたもんだぜ」
左のレンズも同じように抜いてしまうと、眼鏡はフレームだけになってしまった。涼は抜いた二枚のレンズを、丁寧に拭いて大切そうに眼鏡ケースの中に収める。
「出発の前夜に父さんが、お守り代わりにこれをくれた。この眼鏡は俺が物心ついた頃から父さんがかけてたものなんだ。これが傍にあれば父さんが守ってくれるような、家族がそばにいてくれてるような気がして不思議と元気が出た。親が恋しくてホームシックになった時、片岡少年はこの部屋でこれを抱いて寝たりしたんだぜ」
涼は過去の自分の話をおかしそうに語ってみせたが、麻穂は全く笑えなかった。
麻穂は眼鏡のレンズが指紋だらけで汚れていた意味を理解した。
そして、家族のため故郷を離れ、一人秘密を抱えて暮らす彼の寂しさを思った。すぐにでも彼を抱きしめてあげたいような、胸がきゅっと締め付けられる思いがした。
麻穂はそんな気持ちをぐっと押さえ込んで、涼に尋ねる。
「そんな大切なものを壊しちゃっていいの?」
「別に壊したわけじゃねえよ、改造しただけ。一度だけだけど俺、女の姿で田中と会ってるし。少しでも印象を変えたいんだよ。目つきがキツいってよく言われるし」
そう説明すると、眼鏡ケースに入っていた眼鏡拭きでフレームを丁寧にみがき始めた。
それでも胸にわだかまりが残る麻穂は、しつこいかなと自覚しながらも、もう一度彼に尋ねる。
「でも……本当にいいの? 田中くんに会いにいくためだけに、大事なお父さんの眼鏡……」
涼が田中に会いに行くのは麻穂のため。麻穂は自分のせいで涼の大切な思い出を壊させてしまっているのではないかと、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
涼は「いいんだよ」と片方の口角をあげてみせる。
「現にこれ、引き出しの奥に追いやられてただろ。もう今の俺には必要ないんだよ」
そう言って涼は父親の眼鏡をかけて見せた。父親のかけていた眼鏡だったというのに、涼が昔からかけていたのかと思うほどしっくりきていた。
「似合ってるか?」
麻穂に向き直った涼が、いつものようにニッと彼女に笑いかける。
しかし、麻穂は思い切り顔を背けてしまった。
それは久しぶりに男の姿をした涼が、あまりに格好よく見えてしまったから。それと、シンプルな黒フレームの眼鏡はとてもシックで、且つとても似合っていて、彼をより一層大人っぽく見せていた。
そんな彼にほほ笑みを向けられて、ときめいてしまって仕方ない。
しかも前に男の格好をした時とは違い、自分は彼に対して恋心を抱いていることを自覚している。
不自然なタイミングで赤くなる顔を隠すには、顔を背けるしかなかった。
「えぇ、変?」
残念そうにしょげた声を出す涼に、麻穂は慌ててフォローの言葉を挟む。
「ち、違うの! すっごく似合ってたから、逆に目をそらしちゃったっていうか……その、ええと……とにかく、すごく似合ってるよ!」
涼からすると、急に並びたてられてごまかしの言葉のようにしか聞こえない数々。
最後に彼には聞き取れないくらいの小声で、麻穂は「す、すごく、カカ、カッコ、いいと……お、思う……よ」とごにょごにょ口ごもる。
初めてウィッグをかぶって短髪になった涼を見たとき、麻穂は無邪気に「すごく似合ってるよ! カッコイイ!」などとはしゃいでいたものだ。今思い返すとよくそんなことが本人に言えたと思い、顔から火が出る思いだった。
そんな何を言っているのか良く分からない麻穂を横目に、涼は彼女の机の上においてある鏡をひょいと取り上げた。
「とにかく、ほんとに似合ってるからね。嘘じゃないよ」
必死になる麻穂に向かって、「分かった分かった」と苦笑する。彼女が変に嘘やお世辞を言ったりするような人ではないことを、涼はよく分かっている。
それから鏡の中の自分と見つめ合って、呆れたように笑う。
「どうしたの?」
鏡に映る己に対して不思議な反応をする彼に、麻穂は尋ねた。
「いや、俺、恐ろしいくらいに父さん似だなと思って。三年も姿を見てない父親の顔、すぐに思い出せたわ。成長していくとやっぱ親に似るんだな」
涼の言葉に、麻穂は彼の母親のことを思い出す。
文化祭の時に偶然出会った涼の母親は、失礼ながらほとんど涼に似ている部分を見出せなかった。きっととても父親に似ているのだろうと、麻穂は密かに考えていたのだ。
そして彼が大人になったらもっと近づくであろう彼の父親の姿を、見てみたいと思うのだった。
「さてと、そろそろ行くかな。麻穂、窓の鍵はかけないでおいてくれよ」
立ち上がった涼は自分の私服用のジャンパーを羽織り、無断外出の際に使う靴を引っ張り出した。
いざ外に出ようと窓を開けた時。
背後から何か柔らかいものが、ふわりと自分の首筋を包み込むのを感じた。
不思議に思って振り返る。その柔らかい何かは、背伸びをした麻穂が自分にかけてくれたマフラーだった。
涼の口から言葉がこぼれる。
「これ……」
「外は寒いから、私のマフラーだけど……良かったらしていって」
麻穂が少し恥じらいながら、自分を見上げて言う。
涼はそんな彼女と、彼女の気持ちを、心からかわいらしいと思った。
部屋に流れ込んできた肌を刺すような冷気。礼を言ってマフラーを首に巻きなおすと、首元が暖かい。
「じゃ、行ってくる」
涼は窓のサッシに足をかけると、軽々飛び越えていった。着地音がほとんど響かず、彼の身体能力の高さと、無断外出に慣れていることを感じさせた。
涼が暗闇に消えていく。
麻穂は彼を見送ってしばらくしてから、少し隙間を残して窓をしめた。
自分一人しかいない、がらんとして静かな部屋。
でも寂しくはなかった。
それは「いってきます」を言った彼が、何があっても必ず帰ってきてくれるということを分かっているから。
長い間、涼はこの部屋で一人、誰とも共有できない孤独と戦ってきたのだろう。
中等部の女子全員が暮らす寮の一室なので、大して広いわけではない。二人で暮らせば少し窮屈なくらい。
それでも、家族に会いたい気持ちや、隠し事をしているプレッシャーを抱えて一人で暮らすには、十分に広すぎる。
寮を抜け出して、涼は暗闇を選んで歩いた。寮や学校に近いうちは、なるべく人に顔を見られないように。
門限を過ぎた時間のため寮生たちは原則として外出できないとはいえ、自分や祐真のようなイレギュラーな存在の可能性もある。更に教師や周囲の知り合いに遭遇する確率もゼロではない。
長い髪を隠して男の格好をし、眼鏡で変装しているとは言え、警戒心が人一倍強い涼にとっては当たり前の心がけだった。
駅までの道のりは、なるべく人通りの少ない道を選んだ。
駅が近づくと、クリスマスシーズンが近いため街はどこもにぎわっていた。駅ビルに直結するショッピングモール、地元の商店街、並木道。彩られた街並みはキラキラと輝き、暖かな光を放っている。
ここまで来ると、姿を隠そうとする努力がバカらしくなるくらい沢山の人が街を行き交っていた。
久々に訪れた街をぐるりと見回す。
クリスマスを目前に控え店頭も街路樹も、派手なイルミネーションに身を包んでいる。無数の光が織り成す幻想的な風景を横目に、涼はぼんやりと考えていた。
三年間、正体を隠すためにプライベートな外出は最低限に控えていた。出かけてもなるべく近所で、多くの人の目に触れないようなところで用を済ませていた。勿論、長い髪をおろした女の格好で。
でも今は違う。長い髪を隠して、男の格好をしている。男としてこの街に立つことがくるとは思わなかった。
麻穂と出会って、彼女と親しくなるうちに、今までなんとも思っていなかったはずの「女のふり」が少しずつ恥ずかしくなっていった。
それは彼女が唯一自分の正体を知っているからなのか。それとも思春期を迎え、男らしくいたいと思うようになったからだろうか。
どの理由も外れてはいないが、的確な答えではない。
他の人にはどう見られてもいい。ただ麻穂にとっては、自分は男性でありたいと思うようになっていた。
彼女を好きになったから。彼女に惹かれて、恋をしたから。
だから涼は駅前に佇む田中を見つけたとき、彼に伝えようと思っている言葉はもう決まっていた。
まっすぐ自分に向かって歩んでくる涼を見つけ、田中は例の男が来たのだと察したようだった。
わざと初対面を演じ、涼は彼が田中であることを確認した。
涼は眼鏡越しに目を細める。
自分は今から彼に嘘をつく。
そしてここまでの道を歩きながら、何度も心の中で再生したセリフを静かに述べた。
「俺は麻穂さんと付き合ってます。彼女が好きです。だから、彼女は渡せません」