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「きーちーせーさぁーん」
二組の教室に麻穂を訪ねてきたのは、隣のクラスの男子生徒・村木だった。
いつも制服を着崩している彼は、冬になってとんでもなく派手な色のセーターを着用している。目が痛くなるような蛍光色が織り成す、奇抜な柄。
しかし不思議と彼にはそれがよく似合っていた。もちろん、学校指定のものではない。
村木はいつもの軽いノリで、教室の入口から大声で麻穂を呼んでいる。
演劇の練習をきっかけに、少しは話すようになった二人。しかし彼とは文化祭のときに関わったきりだ。
特に用事も思い当たらなかった麻穂は、小首をかしげつつ彼のもとへ向かった。
「文化祭の軽音ライブの時、ヘアピン貸してくれてありがとうね~。遅くなったけどこれ、お礼」
村木が手を開くと、かわいらしい桃色から大人びた赤色までがグラデーションを作る、数本のヘアピンがあった。まだ台紙に挟まったままの新品である。
「えっ。そんな、もらえないよ……。あのヘアピン、全然高いものとかじゃないんだよ?」
戸惑う彼女に、村木は首を横にふって再び差し出す。
「いいの。助かったから、お返ししたいんだよー。せっかく吉瀬さんのために買ってきたのになぁ」
そう言われてしまうと断ることもできず、遠慮がちに彼の手からそれを受け取った。
「じゃあ、遠慮なくもらうね。ありがとう」
素直に頭を垂れた麻穂の頭に、スキンシップ過剰気味な村木が触れようとした時。
すんでのところで何者かに手首を強くつかまれた。
「おい、女子に気安く触んな」
キッと眼光を光らせてきたのは、麻穂の後ろにさながら守護霊のごとく控えていた涼だった。
分かり易すぎる敵意のむき出し方に、麻穂は苦笑いするしかない。涼はこういうことにはいやに厳しい。
「やだな~。ガサツな女の子はモテないよ」
「モテなくて結構」
ピシャリと言い切る涼。
麻穂に誰かが絡んで、涼がそれを振り払って怒る。その一連の流れは、クラスメイトたちにとって最早いつもの流れ、名物にさえなりつつあった。
涼は「女子に触るな」などと言っているが、それが「麻穂に触るな」の意であると、麻穂以外の全員が気づいていた。
「あれ? そういや二人って、ちょっと前に喧嘩してなかった? 俺、二人が別々に歩いてるとこ見たよ」
「別々の人間なんだから、たまには離れてることもあるだろ」
涼が体調を崩してから、二人の関係はまた元通りになって、以前のように一緒にいることが多くなった。
麻穂としては、本音を言うと“元通り”ではなく“進展”を望みたいところなのだが。
けれど今は、この状態に戻れただけでも十分嬉しかった。
「あと、片岡さんは具合どうなの? 病気で倒れたんでしょ?」
次から次へと話題が出てくる村木に、涼は呆れてため息もでない。
「お前、どんだけウワサ話好きなんだよ。将来は週刊誌でも作ったらどうだ」
村木はそんな涼の嫌味を聞き流すように笑っている。
その時ふと、涼は村木の耳に光るものを見つけた。
「ん? あ、お前耳あけてんの?」
「いやぁ、中等部はピアスだめっしょー。だからイヤーカフ」
「いいなー、見してよ」
「いいよ。片岡さんがこういうのに興味あるなんて意外だなー」
興味津々で目を輝かせている涼が、麻穂には珍しく感じた。
ほぼ背の高さが同じくらいの村木と涼。涼の正体を知る麻穂からすると、普通に男の子同士が会話しているように見える。
「実は俺、前に一回耳たぶにあけたことあるんだよねぇ。生徒指導のセンセにめーっちゃ怒られて、ふさいじゃったけど」
「何であけた?」
「安ピン。一瞬で空いたけど、そのあと消毒怠って、膿んで腫れてバレちゃったよ。超痛かった~」
「マジかよ。高校なったらガンガンあけたいんだよなー。ちゃんとピアッサーでやったら、自分で軟骨あけられっかな?」
一応良家のお嬢様育ちである麻穂からすると、何やらとんでもない会話がなされているように思える。思わず目をパチパチさせて、上目遣いに二人を交互に見つめてしまう。
ピアス穴を空けるだけでも痛そうなのに、安全ピンであけるなど想像がつかない。
そして、左右耳たぶに一箇所ずつなら分かるけれど、涼の言う“ガンガンあける”とは一体何個ずつを指しているのか。しかも、軟骨にまで穴をあけるという。考えるだけで耳が痛くなる気がする。
でも、麻穂が知る世界の範疇を超えた話の中で、一つだけ確かに分かる。
涼はきっとピアスが似合うことだろう。
今より大人になった高校生の涼が、男子制服を着て、短い髪であらわになった耳にはピアスが光る。ワイルドな彼の雰囲気にはきっとピッタリだと思った。
「俺は卒業式の日にあけるつもりだよ。カノジョにあけてもらう。慣れてるからー」
なんの気なしに発せられた村木の一言で、麻穂の脳裏に忘れていたはずのことが蘇る。
「へえ、お前彼女いるんだ……って麻穂?! 耳真っ赤だぞ?」
ふと視線を落とした涼が驚いて言う。
麻穂は慌てて両耳を両手で隠して、「なんでもない、なんでもない」と小さくなる。
頭に浮かぶのは、あの時間近で見てしまった、キスする村木とその彼女の姿。
「そうそう。文化祭で吉瀬さんといるとき、カノジョが来てね。なんか吉瀬さんと仲良く喋ってたって、勘違いしてヤキモチ焼いちゃってさぁ。あの時はごめんねぇ。吉瀬さん、確か好きな人いるんだよね?」
キスの部分を省いてざっと事態を説明すると、村木はとんでもないところで麻穂に話をふった。
村木の彼女の手前、「好きな人がいるんだよね」と言われても否定せず話を合わせていたが、麻穂はその時そんなつもりは全く無かった。
今は、自分の真隣にいる人が好きなのだけれど。
もちろんそんなことが言えるわけもなく、しかし「好きな人はいない」と嘘をつくこともできず、麻穂は言葉を探してパニックになった。
「あの、いや、その……っ」
「麻穂が困ってるだろ」
すっと麻穂の前に腕を出して、涼が彼女をかばう。
本当は涼としても、彼女の気持ちは気になって仕方なかった。
先日具合を悪くしてから、麻穂がずっと看病してくれていた。「学校には行け」と涼が強く説得しなければ、彼女は学校にも行かないで四六時中つきっきりだったかもしれない。
夜中でも異変を感じたら起きてそばにきてくれたし、うなされていると優しく体をさすってくれた。
距離を空けた時の寂しさも、体調を崩してもなお自分が彼女のことを一番気にかけてしまうこともよく分かった。
だからこそ涼は、逆境の中でも自分の想いを諦めたりはしないと心に決めたのだ。
看病してくれている間、麻穂は祐真の話を一度もしなかった。
今、彼女はどう思っているのか。
祐真に関して麻穂から最後に聞いた話は、”祐真との交際を真剣に考える”という内容だった。
それでも、こんな状況で彼女の気持ちを聞き出せると思うほど馬鹿ではない。
「あれ? もしかして吉瀬さん、マジで俺のこと好きだったりする?」
なかなか返事をよこさない麻穂に、キョトンとした表情で村木が尋ねる。
「それだけは絶対にねえよ」
本人が否定するより早く、涼が反射的にツッコミをいれてしまう。
しかし恥ずかしがったまま麻穂が何も言わないので、不安になって彼女を振り返った。
「って……そう、だよな?」
おそるおそる確認すると、麻穂は慌てて「うん! うん!」と何度も深く頷いた。
そこまで強く否定されると、村木も苦笑するしかない。
その時。
「村木。君、日直でしょ? 黒板きれいにしないと、また怒られるよ」
村木の頭を学級日誌で軽く叩いて現れたのは、彼と同じクラスの祐真だった。
村木とは対照的に指定のセーターをきちんと着用している。その性格を表すかのようにかっちりと着こなされた制服が、祐真にはよく似合っていた。
「あと、そのセーターやめさせろって、先生方から“僕に”苦情がくるんだけど」
微笑みをたたえながら言っているが、祐真の後ろに般若の面が見えるようだった。
「えーっ、これ超オシャレじゃん」
「僕は別に君が何を着用しても構わないけど、先生が注意しに近づいてきた時に逃げるのをやめてくれないかな。そうしたら僕は間に挟まれずに済む」
「説教しにくるセンセたち、怖いんだもん! 俺、強引に脱がされそうになったことあるよー」
言ってもしょうがないか、と祐真はため息を一つ。
そして、自分へじっと敵意ある視線を注ぐ涼へと向き直った。
「やあ、片岡さん。病気は大丈夫?」
「麻穂がずーっと看病してくれたから、もうすっかり元気だ」
さも「今気付きました」というように話しかけてくる祐真に、涼はフンと鼻をならす。
「麻穂ちゃんも久しぶりだね」
表情を緩めて、祐真は涼の少し後ろに立つ麻穂に穏やかに微笑みかける。
二人で出かけた日以降、祐真は生徒会で何かと忙しかった。加えて涼が倒れてからの麻穂は、ギリギリに登校し誰より早く下校していた。そのためしばらくなかなか顔を合わせることがなかったのだ。
「うん、久しぶり……」
返す言葉の歯切れが悪い。
目の前にいる人は、自分に好きだと言ってきた人。そして自分はそれを前向きに考えると言ってしまっていた。
しかし今の麻穂は、自分の本当の恋心に気づいてしまっている。
相手に気づかれていなくとも、居心地は悪かった。
「麻穂ちゃん、どうかした?」
わずかに目を細めた祐真が尋ねる。
麻穂は「なんでもないの」と作り笑いをするしかなかった。
「困ったことがあったら、なんでも僕に言ってね」
「高時ぃ。俺、生徒指導の先生が怖いー」
「村木は僕に頼らないでね」
腕にへばりついてくる村木を引き剥がしながら、祐真はニコリと微笑む。
「そうだ、麻穂ちゃん。月末って予定ある?」
唐突な問いに麻穂は数回まばたきをした。
「月末? 特に何もなかったような……あっ」
「そう、今月末にはクリスマスがあるんだ」
ピンときた麻穂に、祐真は軽く頷いてみせる。
「えっと、あのー……」
何も人がいる前で、もっと言うと涼がいる前で言うことはないではないか。麻穂は彼の口を塞いでしまいたい気持ちになる。
祐真としては逆に、涼の目の前で麻穂とクリスマスの約束を取り付けるのが目的でもあった。いつものように、余裕そうに微笑みをたたえている。
麻穂は必死に言葉を探していた。涼に誤解されず、祐真を不愉快にさせない、角の立たない断り方。
「その、えっと……私っ、実は……クリスマスは過ごしたい人が――」
「悪いな高時、その日はあたしが先約済みだ。“女子同士”で過ごさせてもらうぜ」
麻穂が勇気を振り絞った言葉は、涼の思わぬセリフによってかき消された。
(えっ? そんな約束、してたっけ……?)
すぐ表情に出る麻穂のことを察してか、涼は隠れて彼女の片手を握った。言葉がなくとも分かる、「合わせろ」という合図。
祐真からすればそんな工作など分かったもの。涼からの射るような視線に眼差しを重ねてから、ふっと微笑んだ。
「そう、残念」
彼の顔にうっすらと寂しそうな影がかかった気がした。
麻穂はそれを見て胸がチクリと痛むのを感じた。彼はきっと自分がOKしてくれると思っていたに違いない。誰でもない麻穂自身が「付き合うことを前向きに考える」と告げてしまったのだから。
「じゃ、そういうことだから。そろそろチャイム鳴るぜ」
涼は二人にそう告げるとそのまま麻穂の手を引いて、自分たちの席に戻っていってしまった。
彼に引っ張られながら、麻穂は自分の手を握る涼を見上げた。
たとえ困難な道が待っていたとしても、涼が自分を恋愛対象として見てくれなくても、彼を好きでいると決めた。彼の一番近くに居たいと、強く思っている自分がいる。
彼に包まれた手が暖かい。
つながれた手をこんなに意識しているのは、きっと自分だけ。涼はいつもなんの気なしに触れてくるし、ほかの誰かにだってきっとそうする。
(でもいつかそれが、私ひとりだけに向いてくれたなら嬉しい……)
切なさの中に喜びが混じったような眼差しの麻穂。
彼を見上げるそんな麻穂の表情を、祐真は見逃さなかった。
村木と自分たちの教室に戻る廊下で、彼のおしゃべりに適当に相づちを打ちながら、祐真は考えていた。
彼女の表情は前に出かけた時と明らかに違っていた。
以前のような、弱気になって迷いに揺れている彼女ではない。涼を見上げるその眼差しは、間違いなく彼への恋心を自覚しているものだった。
祐真は自分の心がモヤモヤと、落ち着かなくなるのを感じていた。
(なんだろうな、この嫌な気持ち)
今までに感じたことのない不快な気持ち。物事が思い通りにならないストレスだろうか。
しかしこれまでだって物事が自分の思うように運ばなかったことなど山ほどある。自分を誤解する周囲、勝手に決められた婚約。
祐真は思った。
(ああ。今までは「こうなるだろうな」と傍観者のように思っていた。だから事態が予測から逸れても、なんとも思わなかった。今、僕は「こうなってほしい」という主体的な希望で動いているんだな)
冷静に感情の揺れ動きに説明をつけることによって、自分に起こっている事態を理解しようとしていた。
すると、相づちを打つ祐真が話半分であることに気づいた村木が唇を尖らせる。
「ねえ、聞いてるー? 怖い顔しちゃってさぁ」
はっと我に返った祐真が、村木に「ごめんごめん」と笑顔を作ってみせる。
しかし村木は納得していないようで、不思議そうに首を傾げた。
「なーんかさ、秋になったあたりからおかしいよねー。高時っていつも余裕そうにニコニコしてるのに、最近は笑顔に影があるっていうかさぁ。たまに怖い顔してぼーっとしてたり、なんかコソコソ行動すること増えたよねぇ。何かあったの?」
そう言われて祐真は、思わず目を見開いてしまった。
まさか村木に、いつもと様子が違うと指摘されるとは思ってもいなかった。自分の振る舞いはいつも通り完璧だと思っていたし、自身に隠すべき乱れがあるということに気づいてもいなかった。
返事のない祐真に、村木はフォローするように笑いかける。
「あれっ、もしかして図星だから黙っちゃった?! 気にしなくていいんだよー、男同士仲良くやろうぜえ!」
祐真とそう背丈の変わらない村木が、強引に肩を組んでくる。
それを嫌だとは思わなかったけれど、自分の認識と実態がずれていくようなこの不思議な感覚が、心地が悪くて仕方がなかった。