42
寮生たちが部屋に戻り、寝る支度をしはじめる頃。
泣き疲れた麻穂は、ふと寮の廊下が騒がしくなったのを感じた。誰かが集団で騒いでいるのかと思ったけれど、どうも様子がおかしい。
くぐもった声と物音だけではよく分からず、脱力した体に鞭打ち、ゆっくりと廊下に出てみる。
声のする方へ歩くと玄関にたどり着いた。
するとそこには、寮ではほとんど姿を見ることのない人の姿があった。
予想もしなかった人物に、麻穂は声を張る。
「園山先生!」
「吉瀬か」
寮生に囲まれる園山に近づくと、その隣にも人の姿が確認できた。園山のものと思われる厚手のロングコートを羽織らされ、彼女の肩に腕を回してなんとか立っている。
「……涼?!」
麻穂は思わず声を上げてしまった。
うつむいてぐったりしていた涼が、彼女の声に反応してしんどそうに顔を上げた。熱でうるんだ瞳が彼女に向けられる。彼の頬は麻穂が見たこともないくらい紅潮していた。
自分に向けて泣き出しそうな表情をしている彼女を見て、涼は片方の口角を釣り上げてみせる。
「なんて顔してんだよ」
精一杯気丈にふるまう涼。
それでも、視線が妙に定まっていないことや完全に素の状態になっていることに、麻穂は気づいていた。
「涼……」
居なくなってしまったとばかり思っていた彼が目の前にいる驚きと、とても具合が悪そうな彼への戸惑い。
二つの気持ちで胸がいっぱいになって、麻穂は何も行動ができなかった。口を両手でおおって立ち尽くしてしまう。
「無理してんじゃないよバカタレが。ここ三年間でこんな高熱出したことないじゃないか」
「うるせえよ……」
園山の言葉に力なく反論してから、涼はもう限界だとばかりに目を伏せ、うなだれた。
「先生、早く片岡さんを部屋に運びましょう。わたくしもお手伝いいたします」
駆けつけた雪乃が、涼の空いている反対の腕を支えようとしたとき。
すぐに園山は、彼女の動きを制するようにこう言った。
「待て、如月。同室の吉瀬に頼みたい」
「え? でも、吉瀬さんと片岡さんとではだいぶ身長差がありますし……」
「あっ、やります。同室ですし、私にさせてください」
我に返った麻穂があわてて立候補したのは、園山のさりげない目配せを受けたから。
麻穂は雪乃より背が低い。周りの誰もが、小柄な麻穂が長身の涼を支えるのは難しいのではないかと思った。雪乃も不思議そうな表情を浮かべている。
麻穂は涼の隣に寄り、腕を支えてみる。身長差的に体重のほとんどが園山にかかっているとはいえ、涼の体の重みがずっしりと感じられた。そして、服の上からでも彼の体がひどく熱を帯びているのが分かる。
人ごみを割るようにして歩き出す。
部屋につくまでの廊下が長く感じられた。
彼の熱っぽい息がすぐそばにある。こんなに長く、意識的に彼と体を密着させていたことがないので、筋肉質で硬い男の子の腕にびっくりした。
涼がこんなに辛そうにしているのに何を考えているの、と思いつつも、考えないようにしようとすればするほどドキドキしてしまう。
そばに付き添っていた雪乃は、麻穂に許可をとり部屋のドアを開けてやる。
部屋の中に入った涼は、膝から崩れ落ちるように座り込んでしまった。相変わらず苦しそうな息遣いをしている。
「如月。寮の管理人についていってもらって、スポーツドリンクとかゼリーとか、病人に優しい食べ物を買ってきてくれ」
そう言いながら園山はジャケットのポケットから財布を出すと、千円札を取り出して雪乃に渡す。
「分かりました」
受け取ると雪乃は早足で部屋を出て行った。彼女が寮長として信頼されているのがよく分かる。
雪乃が出ていくと、園山は麻穂に部屋の鍵をかけるよう指示した。
すると園山は涼のシャツをひん剥くようにして、彼の上半身の服を手早く脱がしていった。麻穂は反射的に目の前を指先でおおってしまう。
涼は抵抗する様子も嫌がる様子もなかった。
その光景から、園山は涼が男と分かっていることを改めて実感させられる。
事実として知ってはいても、実際に見ると驚いてしまう。自分以外に涼の正体を知っている者がいるということに。
「吉瀬、タオルを絞ってきて。体を拭くから」
「は、はいっ!」
こんな時に照れている場合ではない。麻穂はそう自分に言い聞かせて洗面所に飛び込んだ。
「ったく、二段ベッドなんて看病しにくくて仕方ないね。吉瀬、下のベッド貸してくれる?」
一目見て二段ベッドの上が涼、下が麻穂のものであると判断した園山。
それもそうだろう。涼は朝起きたそのままの形で抜けがらのように布団が放置されていて、麻穂の方は布団を綺麗にたたんで足元にまとめ、可愛らしいぬいぐるみが置いてあった。
麻穂が急いでタオルを用意すると、園山は汗ばんだ彼の体を手際よく拭いてやる。冷たかったタオルはすぐに熱を帯びてしまう。
裸の胸板を直視してしまい、麻穂は思わず目を逸らす。
彼のむき出しの素肌を見たのは、転入直後に正体を明かされた以来だった。
「何をそんなに恥ずかしがることがあるのよ。二人はもう何ヶ月も同室で暮らしてるんだろう?」
不思議そうに園山が言うと、麻穂はたどたどしく弁解した。
「は、恥ずかしがるというか……その、いつも着替える時はお互い個室に入りますし、普段から肌を見せたりはしないので……」
「意外だわ。コイツのことだから、パンツ一丁で生活してるとばかり」
心底意外そうに言う園山に、涼が声をしぼり出す。
「おい、変なこと言うな……」
「文句が言えるなら大丈夫ね」
園山は麻穂に場所を教えてもらって涼の服をあさり、汗を吸いそうな肌着を着せようとして、それは自分でやると涼に取られた。
「あ……。今日朝からずっとアレしてねえな……」
涼の言う“アレ”とは、胸があるように見せるためのパッドが沢山詰め込まれた偽のブラジャーのこと。彼の平らな胸板を、本当の女性である麻穂以上に胸があるように見せてしまう代物である。
麻穂はハッと思い出した。
先ほど玄関で園山が、手伝いを申し出た雪乃ではなく麻穂に涼を支えさせた時。彼はそれをしていなかったのだ。ふとした触感で違和感に気づかれてしまうかもしれないから、園山は雪乃の申し出を断ったのだろう。
寮の自室にいる時でさえそれを外さない用心深い涼が、そのことをすっかり忘れていた。それは彼の意識がどれだけ朦朧としていたのかを示していた。
「涼。いいよ、今はそんな苦しいものしなくたって。ここに来る人は全員私を通してからにするから、心配しないで休んで」
麻穂はいつも緊張状態にある彼のことを思った。
「吉瀬もこう言ってくれてるし、そうしろ。お前はちょっと警戒しすぎなんだよ」
「何があるか分からねえんだっつーの……」
ため息まじりにブツブツ言っていたが、体のしんどさが限界だったのか、涼は麻穂の言葉に甘えてそのまま布団にもぐった。
乱れて絡まった髪から、彼が今日どれだけ苦しんでいたのかが伝わってくるようだった。
「毎年皆勤賞のコイツが学校に来てないのを見て、吉瀬も分からんという顔をしているし、まさかと思ったんだ。授業の合間に寮に行ってみたら、案の定熱出してブッ倒れてた。コイツはほとんど体調崩をしたことがないから、具合が悪くなった時の感覚も対処も分かってないんだよ」
園山が言うことも一理あると思ったが、彼としても一人でどうにもできず悩んでいたことだろう、と麻穂は推測する。
女の格好している彼が、近所の病院で男として診察を受けることは難しい。どれだけ体調が悪くても、涼がその判断を誤るはずがない。寮の生徒や管理人に具合が悪いことを知られてしまっては、秘密が発覚するのを避けられない状況になっていたかもしれない。
「あたしの車で知り合いがやってる病院に連れて行ったんだ。色々検査して一応別に危ないものとかではないみたいなんだが、診察中にコイツが気を失っちゃってさ」
麻穂は園山の説明を聞きながら、目をつぶっている涼を見つめる。
とてもただの高熱とは思えないような、つらそうな様子だった。寮に居てよいものなのか麻穂が困惑していた時、園山が言葉を続けた。
「心配だから、本当はそのまま入院させるか、あたしの家に連れて行きたかったんだ。でも、夜になって意識を取り戻すなり『寮の部屋に帰る』ってきかなくて」
「えっ?」
麻穂は園山の方を振り向く。
「『俺が帰らないと麻穂が心配するんだよ! あいつ、泣くかもしれないだろ!』って、ヘロヘロになってんのにあたしにタンカ切ってきやがるんだもの」
高熱に苦しめられながらも、教えられたくない事実を明かされたことに気づいた涼が盛大にむせ込む。
麻穂は「大丈夫?!」とあわてて彼のそばに寄って、胸を優しくたたいてやった。
「園山……お前、あとで、三回殺す……」
咳の合間に、切れ切れになりながら涼が言う。
園山は謝らない代わりに、二人を見て薄く微笑みを浮かべる。
「でも、片岡。お前の言う通り帰ってきて正解だったな。今のお前には分からないかもしれないが、吉瀬は随分泣いたみたいだぞ」
泣いて赤くなった目、涙が乾いた頬。園山にはお見通しだった。
(涼は……どうしてそんなつらい時にも、私のためを思って行動してくれるの? いつもの女装だって忘れてしまうくらいに朦朧としているのに、なぜ私のことを考えていてくれるの?)
つらそうに目を伏せる彼の顔を見ていると、聞きたいことはたくさん浮かんでくる。
(なんでいつも私のことを心配してくれるの? 涼が帰ってこなくて私が泣いてしまうって、どうして分かったの?)
彼が苦しそうな今、そのいずれの疑問も口にすることはできない。
「吉瀬。ちょっと氷枕とか借りてくるから、コイツをみてて」
「はい」
園山を見送ってから麻穂はドアに鍵をかけた。
腰をあげたついでに、部屋の暖房をつけたり加湿器を作動させたりとテキパキ動く。
もう一度濡れタオルを絞り、彼の額にのせてやる。
「冷たくて気持ちいい。ありがとな、麻穂」
いつもより張りのない声で彼が言う。声は弱々しく低くかすれていた。
「いいの。具合が悪くなったことに早く気づいてあげられなくてごめんね」
彼女が申し訳さそうにそう口にするので、涼は目を細めて力なく笑った。
「迷惑かけてんのは、こっちなのにな」
「迷惑なんかじゃないよ」
麻穂は彼の言葉の終わりにかぶさる早さで否定する。
「……涼はいつも一人で頑張ってる。病気になんてなれないくらい、今までずっと気を張ってたんだよね。園山先生ほど頼りにならないかもしれないけど、私も涼を助けたい」
涼はぼんやりとした意識の中、彼女の方を見つめ返す。
視点が定まらず景色がかすむも、麻穂がそこにいると思うと何より心が安らいだ。
「寮に帰っても涼がいなくて、荷物もないし、門限も過ぎて……。何かあって、涼が急にどこか、私の知らない遠くに行っちゃったんじゃないかと思ったの。すごく、すごく悲しかった。ご飯も食べられないくらい、泣いたの……。もう二度と涼に会えないと思ったら、ああしておけばよかったこうしておけばよかったって、後悔ばっかりたくさん出てきて……。私……ごめ、なさい……」
話しているうちに、嗚咽に変わってしまう。さっきあんなに泣いたというのに、涙はとどまることなくあふれてくる。
涼の手がゆっくり伸びてきて、指先が麻穂の頬に触れた。
熱でぼんやりとしていてよく見えていないのか、思うように動かなかったのか。それでも涙を拭ってやろうとしていたことは分かった。
麻穂は彼の手を両手で包んだ。ちゃんとした、男の子の手だ。熱が伝わってくる。
やっぱり彼は、いつでも優しい。
「ごめんなさい……。私、涼に素直になれないことがいっぱいあって、思ってもないことを言ったり、ひねくれた態度をとったりして。でも本当は、涼と一緒に居たいの……」
思わず言葉に詰まってしまう麻穂に、涼も言葉を返す。
「お前がそばにいると、俺も嬉しい。麻穂が居るところに帰ってこられて良かった」
熱のせいか彼の声はかすれて低く、妙に色っぽい。いつか男子寮に助けにきてくれた時のように男らしかった。
その時、ドアが強くノックされる音が。
その激しい叩き方から園山だということはすぐに分かった。それでも麻穂はきちんと相手を確認してから鍵をあける。
体をすべり込ませるように素早く入ってきた園山は、いやらしい笑みを浮かべながら開口一番こう尋ねた。
「ごめんねぇ。イチャイチャしてたなら邪魔したかしら?」
「……してたと思うなら戻ってくんな、馬鹿」
涼が熱にうかされている。麻穂は目がまん丸くなってしまった。園山も驚いてまばたきを繰り返している。
そして麻穂は今こそ、自分の本当の気持ちに正直になろうと思った。
(私、あなたが好き……)
今度こそ、大好きな涼に素直になろう。もう後悔はしたくない。
彼のくれる優しさを胸に、麻穂は決意した。