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冬も深まりはじめ、登校する生徒たちは色とりどりのマフラーを首に巻き、手元には手袋が目立つようになった。
ある朝、正面玄関近くの渡り廊下に大きな紙が張り出されていた。前回の定期テストの総合得点上位者の名前が掲示されている。
登校してきた生徒たちがわらわらと見に行っていて、麻穂もその中にいた。
前々から“実は涼は頭が良い”とは聞いていたし、勉強を教えてもらうことも多かったので一応分かってはいたのだが、涼が順位表に掲載されるくらい成績が良いことに麻穂は驚きを隠せなかった。
予想通り一位に輝く祐真の名前。そして四位に書かれた涼の名前。
麻穂は自分の名前などあるわけないとは分かっていたが、知った名前を探すため野次馬的好奇心で見にいっていた。
普通の公立校の数倍のペースで進められる、杉浦学園独自のカリキュラム。そして他進学校と比べても難しいテスト。
外部から転入する場合は内部生と同じテストを受けなくてはならず、更に規定の得点を超えた者だけがと奨学生になれるという。
しかしその高い基準点を越しているのは、内部生でも祐真だけ。
「流石、としか言いようがないですわね」
同じく登校してきた雪乃が麻穂に声をかけた。
「高時くんも片岡さんも、文化祭で主役をやっていたのにいつものペースを崩さないなんて。わたくしうっかり下がってしまいましたわ」
はあ、と頬に指先を添えてため息をつく。
そして雪乃はこう尋ねた。
「今日も片岡さんと一緒じゃありませんの?」
「はい、ちょっと……」
言葉を濁した麻穂に、雪乃はわずかに眉をひそめた。
周りの人たちからはいつも一緒にいると思われている涼と麻穂だったが、最近は意図的に登校の時間をずらしていた。それは涼が言い出したことだった。
寝坊がちな彼を起こして食堂に連れて行き、身支度をし、一緒に登校するのが常だった。
だがある日、「これからは俺が起きるのを待ってなくていいから」と告げられた。
理由を問うと「いつまでも甘えてちゃ俺とっても良くないから」ともっともらしいことを述べていた。
元々彼は二年半ものあいだ一人部屋で過ごしていて、自分が居なくてもきちんと暮らせることは知っている。
確かに彼は遅刻したりはしなかったけれど、麻穂は言いようのない寂しさに襲われていた。
雪乃と共に教室に向かう。
最近は、登校すると癖のように彼を探してしまう。
順位表を見ないで教室に直行したのか、涼はもう教室で男子生徒たちと談笑していた。
短髪だらけの男子制服の中に混ざる、髪の長い女子制服姿の涼。
女子と話している時と違って、目がキラキラして声に張りがあるような気がする。やはり男同士だと話題が合うのだろうか。何を話しているのかはよく聞き取れなかったのでとても気になった。
涼と距離が空いてから、麻穂は前よりもよく彼を目で追うようになっていた。今まで近すぎて見えていなかったことがたくさん分かってきた。
あんな風に顔を崩して笑うんだなとか、立っている時によく腕を組むんだなとか、眠そうな時は髪をかき上げる癖があるんだなとか、女の子と話す時はすごく首を曲げてるんだなとか。
涼は部屋に一緒にいるときも、わざとらしく避けたり冷たくしたりはしてこない。普通の一クラスメイトとしての距離。
けれど、それが余計に遠い存在になったように思わされるのだ。
授業中も、自分より後ろの位置にいて見えない彼の様子が気になって仕方がなかった。少しでいいから彼の姿を見たかった。
そして移動教室になると。
「おい寮長、行こうぜ」
「ちょっと、片岡さんっ」
準備もままならない雪乃の手首をつかんで、強引に廊下に引きずり出す涼。
いつもならすぐにでも怒り狂いそうな雪乃だったが、普段と異なる彼の様子を見ていると非難の言葉も引っ込んでしまう。
「片岡さん……。あなた、どうしましたの?」
「どうもしねえよ」
涼は雪乃の顔を見ず、背を向けたまま答えた。
雪乃はちらりと教室に視線をやった。一人ぽつんと教室に残り、もたもたと次の授業の支度をしている麻穂の姿がある。
しかし、話したがらない人間にとやかく訊くほど雪乃は野暮な人間ではない。
しょうがないですわね、と涼の背中を押して、教室移動を急いだ。
「片岡さん、わたくしの近くにいる時は校則はできる限り守っていただきますわよ。まずそのセーター、学園指定のものではないですわね。早いところ着替えてくださらない?」
「大目に見てくれよ」
二人の様子を遠目から見て、麻穂は思い出す。
スキー合宿の思い出話を聞いたあと涼に言われたセリフ。「ヤキモチを焼いているのか?」と。
(あの時私は、如月さんに嫉妬していたの?)
今となっては分からない。これまで何の疑いもなく自分の定位置だったはずの、涼の隣。
それでも麻穂は自らに、自分が望んでこうなったことなのだと言い聞かせていた。
彼の行動が変わったのはあの夜。自分が「祐真との交際を真剣に考えてみる」と告げた時からだった。
彼は言葉を返す代わりに自分を強く抱きしめてきた。長い髪に女の格好をしていても、あの時の彼は女の子だなんてわずかも思えなかった。
(あの時涼は、本当は何を言いたかったんだろう……)
なんとなく気まずくて、ゆっくり準備をして一人で教室を出た。無性に自分がみじめになるから、涼と雪乃が二人でいるところに近づきたくなかった。
「吉瀬さん、最近どうしちゃったの? 涼とケンカでもした?」
そこに話しかけてくれたのは、クラスメイトの女子生徒だった。傍から見ても二人の距離が不自然にあいているのは明らかだった。
ううん、と麻穂はただ首を横に振るしかなかった。
昼休みになると何かを察して気を遣ったのか、雪乃が麻穂に昼食を誘ってきた。
すると涼は、
「昼飯、後で食うから先に行ってて」
と、雪乃との昼食を断ってしまった。
「でしたら、お待ちしてますわ」
「待ってなくていい」
雪乃の譲歩も一蹴して、彼はどこかへ行ってしまった。
彼ならば女子とだけでなく男子とだってテーブルを囲めるだろう。元々顔が広い彼なので、適当に友人グループにまざるのはお手の物だった。
「ごめんなさい。わたくし余計なことをしてしまったかしら……」
申し訳なさそうに謝ってくる雪乃に、麻穂が気分を害しているわけがない。
不安げな表情の彼女に対し、いいんです、と無理に笑ってみせた。
登校、教室移動、休み時間、昼食、下校、寮での食事。ずっと一緒にいた全ての行動の中、彼は気づくといなくなっていた。
“涼は自分の好きな人に一生懸命になって。変に気を遣ってくれなくて大丈夫だから”と、自分が言った通りになっただけのこと。
本当は微塵も思ってもいなかったことだったとしても、発言してしまったものはもう戻らない。
きっと彼は毎日を順調に過ごしている。そう思うようにしていた。
だから、担任の園山が教室に入ってきても彼が登校してこなかった朝、言いようのない不安に駆られた。
「ん? 片岡がいないな。吉瀬、あいつはどうした?」
すぐに気がついた園山が麻穂に尋ねるが、麻穂は首をかしげてみせるしかなかった。
同室である彼女が事情を知らないことを、園山は不思議に思っただろう。だが園山はいつも通り朝のショートホームルームを終えると、特に麻穂に話を聞いたりすることなく足早に教室を去ってしまった。
もし寝坊していたのなら遅刻して来るかもしれない。麻穂はそう楽観的に考えてるようにしていた。けれど、結局彼は一日の授業が全て終わっても現れなかった。
麻穂は強い胸騒ぎを覚えていた。
彼の身に何かあったのかもしれない。そう考えると帰寮する道を走らずにはいられなかった。
もし部屋の中で倒れていたりしたらどうしよう、具合が悪くて寝込んでいたりしたらどうしよう。
部屋に駆け込んだ麻穂の目に飛び込んできたのは、彼女が想像していたよりもはるかに最悪の状況だった。
部屋の中に涼の姿はなく、いつもならベッドに脱ぎ捨てられている彼の愛用する部屋着もなかった。
彼の机に近づくと、携帯電話も財布も、彼の使っている鞄もない。
教科書などの勉強道具や、わずかにそろえられた私服たちは確かにそこにある。しかし優先度の高いものたちが、あるはずのところからなくなっていた。
部屋をぐるりと見回して、まさかの事態が脳裏をよぎる。
警鐘を鳴らすかのようにうるさい鼓動。体から抜けていく力。手から鞄が滑り落ちる。
声にしないと、その可能性を受け入れられそうになかった。
「涼が……居なくなった?」
信じられないこと。言葉にしてみても現実味がない。
自分に何も言わず彼が突然いなくなるわけがない。そう思いたかったが、以前に彼と交わした会話が思い出された。
(「もし正体がばれたりしたら、涼はどうなるの?」 「即、この学校から居なくなる。そのまま寮にも戻らず、そのまましばらくは蒸発だろうな。居なかったことにされると思う」)
いつか学校の中庭で彼と話したこと。
もしそうなったら、麻穂とも完全に音信を断つと言っていた。
正体が露見する様子なんてなかったはず。今朝も涼が布団をかぶって眠っていたのを確認している。先に登校する前、「おはよう。先に行くね」と声をかけると「ん……」と寝ぼけながら小さく反応していた。
自分と離れているほんのわずかな間に、何かあったのかもしれない。
心臓が締め付けられる。痛いくらいの動悸。
めまいに似た感覚がして、麻穂は床に膝をつく。
自分がずっと心配していたことが、ついに現実になってしまった。
日が暮れても制服姿のまま、明かりをつけず床に座っていた。言葉を出す気力もなかった。暖房をつけていない室内はとても寒いのに、自分の感じる寒さなどそんなことはもうどうでもよかった。
時間になっても、夕食をとりに行けるような気力はなかった。
もしかしたら彼が帰ってくるかもしれないと、かすかな希望から部屋を動くことができなかった。
窓から植木越しに注がれる冷たい月明かり。麻穂は動かない影を見つめて祈るように彼を待っていた。小さくなって膝を抱え、あふれる不安と必死に戦っていた。
今にも部屋のドアが開いて彼が現れて、真っ暗な部屋に驚いて「どうしたんだよ?!」と駆け寄ってきてくれそうな気がした。
自分の名前を呼ぶ彼の声が幻聴として聞こえる。
ドアからじゃなくたっていい、いつかのように窓からひょっこり帰ってくるかもしれない。
しかし何の変化もないまま、無情にも門限は過ぎる。
寒さより空腹より、あまりに大きすぎる喪失感で立ち上がることができなかった。
「会いたいよ……。どこに行っちゃったの、涼」
涙腺が思い出したかのようにゆるみ、大粒の涙がこぼれた。
本当は泣きたくなんてなかった。泣いてしまったら彼が居なくなった現実を認めてしまうことになるから。わずかな希望にすがれないから。
それでも堰を切ったようにあふれだした悲しみは、留まることを知らなかった。
泣いても泣いても、涙を止めてくれるいつもの声は現れない。
彼の前では本当に何回も泣いた。
転入してすぐ。祐真に冷たくあしらわれたとき、腹が立っていたはずなのに涙がとまらなかった。涼が「俺に話せ」と言って、まるで自分のことのように祐真に怒りに行ってくれた。
文化祭、二人きりで花火を見ながら。麻穂のためと一人で行動していたことを詫びて、全部話してくれた。なぜか涙があふれて、それを拭ってくれた。
道で不良たちに待ち伏せされたき。恐怖で動けなかった自分を、身を挺して守ってくれた。「大丈夫、俺がいるから」と優しく頭を撫でてくれた。
(もう、いない……)
たとえ自分だけを見てくれなくても、そばにいられたらそれだけで良かったのに。
(私、こんなに涼のことを……)
今さら気づいても遅いことなのだと分かるから、余計に嗚咽をとめられなかった。