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「もしかして、涼のことを言ってるの?」
麻穂がおそるおそる尋ねるも、祐真は否定も肯定もせず静かに彼女を見つめていた。
「涼は、女の子よ……」
麻穂の吐息混じりの言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。
まぶたの裏に浮かぶ涼の姿。いつもの女子制服姿の、髪の長い涼。それに重なるようにちらつく、男の格好をした髪の短い涼。
「じゃあもし、片岡さんが男の子だとしたら?」
悲しげに目を伏せた麻穂に、祐真は問った。
麻穂はつらそうに言葉を吐き出す。
「……涼がもし男の子だったとしても、私をそんな風には見てくれないよ」
祐真には“涼が本当は男だ”という確信があった。だからこそこんな意地悪な質問をしていた。祐真は自分でもつくづく性格が悪いと思う。欲しいものを手に入れるためにこんなに狡猾になれてしまうなんて。
「なら、僕のことをちゃんと見てほしい。僕はいつでも君が振り向いてくれるのを待っている。前向きに考えてもらえないかな」
彼の優しい言葉は、考え疲れた自分の心に優しく染みる。
婚約騒動の中、麻穂は自分で恋をして自分で相手を見つけると決めた。つまらぬ意地から彼を誤解していたけれど、彼だって周りにいる異性の一人。頭ごなしに拒否をしないで考えてみようと思えた。
何よりこんなに自分を必要としてくれる。言葉に出して自分を求めてくれる。分かりやすい好意をくれる。
「……分かった。すぐには難しいかもしれないけど、考えてみるね」
麻穂は口角をわずかに上げて、瞳だけで彼を見上げた。
見つめ返す祐真も微笑んでいる。
自分の未来のために進もうと思った。
モヤモヤする気持ちは、蓋をしていればいずれ薄れて消えていくだろう。
日曜日の公園でほほえみ合うカップル。きっとそれは理想の姿。
きっと涼とは、こんなところを二人でのんびり歩くことはできない。
麻穂の居ないひとりきりの部屋で、涼はテレビゲームのコントローラを握っていた。
しかし、自分の好きな相手が自分の嫌いな男とデートしている帰りを、穏やかな心境で待てるはずもなく。
「はあぁ……」
深いため息ばかりが連発されるのであった。無論、ゲームも全く進んでいない。
出かける麻穂を何も知らないふりをして見送って、そこまでが限界だった。
皆が出払う休日の寮は静かで、思考に余計に拍車をかけた。
気持ちが沈んで仕方がないので、気分転換しようと部屋を出る。部屋着の上に厚手のカーディガンを羽織ったが、それでも寮の廊下は肌寒かった。
自分以外の足音が聞こえない。風が窓ガラスを叩く音もしない。
あてもなく歩いていると、玄関ロビー脇の面会室から聞きなれない物音がした。重い何かをズルズル引きずるような奇妙な音。
興味本位でひょっこり顔を出すと、髪を束ねた部屋着姿の雪乃がそこにいた。
乱雑に置かれた家具に囲まれて、両手で重たそうにダンボール箱を抱えている。家具が大移動させられているせいで、部屋中に埃が舞っていた。
「……寮長、何やってんの?」
「え?」
いきなり声をかけられて驚いたのか、雪乃はテーブルの脚に足を取られ、ダンボール箱を手から放り投げてしまった。
「あっぶね!」
飛び出した涼は、倒れこむ雪乃を左腕で抱え、さらに右腕で段ボール箱を間一髪のところでキャッチした。
なんとか両方間に合ったが、右腕に載る荷物は予想以上に重かった。
「重っ。これ何なの?」
涼が尋ねると、体勢を立て直した雪乃が「突然驚かさないでくださる?」と前置きしてから説明する。
「面会室の家具が古くなっていたので、模様替えですわ。それは新しいオブジェの一つ」
「寮長一人にやらせるなんて、管理人も人使いが荒いな」
「今日は予定もなかったですし、わたくしが自分で立候補したんですのよ。寮長ですもの」
行動で示さないと人はついてこない。雪乃がまじめでリーダー向きなのは、涼も認めるところだ。
しかし改めて周りを確認すると、大小様々な未開封のダンボールがまだまだ沢山転がっている。
「そうだとしてもこんな力仕事、女子が一人でやるもんじゃないだろ」
呆れたように苦笑して、涼は自分のカーディガンを脱いだ。汚れないよう離れた場所に置いて、部屋着の袖をまくる。
「手伝うよ」
「いいんですの? 何もお礼はできなくってよ」
「ご褒美がないと動かない人間だと思うなよ」
「エサがないと芸をしてくれない動物くらいには思ってましたわ」
素直じゃないなと思いつつ、他人に迷惑をかけないようにする彼女なりの気遣いを感じた。
面会室は寮に訪ねてきた人と寮生が会う場所。客人にとっては入口以上に玄関の役割を果たす窓口のような場所なので、いつも清潔に保つようにされている。
古くなった椅子やテーブルを外に出し、部屋の床や壁を磨き直して新しい家具を入れる。それだけのことだったが思った以上に時間を取られた。
雪乃が一人でやっていたら、きっと夜になっても終わらなかっただろう。
そして夕方。
なんとかリニューアル出来た面接室で、涼は新しいソファーにどかっと腰を下ろしていた。
「疲れた……」
そこに後ろから差し出された、一本の炭酸飲料。
「差し上げますわ」
頭上から降ってきたのは雪乃の声。
「ご褒美くれるんだ、サンキュ」
受け取った涼は、片方の口角を上げてみせた。
そのままソファーの隣に腰掛けた雪乃は、缶のミルクティーを飲んでいる。その銘柄から、これらは寮内にある自動販売機から買ってきたのだと分かった。
しかも、涼に買ってきたジュースは彼が愛飲しているもの。流石よく皆を見ているな、と涼は思った。
疲れた体にしみわたる炭酸を気持ちよく感じていると、雪乃が自分を凝視していることに気がついた。
「何?」
「あなた、髪を上げてると本当に男性みたいですわねー」
いやみのつもりもなく、雪乃は感心して言う。
彼の髪は掃除中に邪魔で仕方なくて、雪乃に借りた髪留めでアップにされたままだった。
「よく言われる」
吉田の言及と違い、雪乃はいつもように何となく言っているだけだから焦りもせず流せる。
「でも、ズボンをはいているからといって、女子が大股を開くものではありませんわ」
こういうことを厳しく言ってくる雪乃は、さながら母親のようだと思い、涼は「はいはい」と軽く笑って足を組んだ。
忙しくしていると余計なことを考えないで済むからいい。一人で部屋にこもっていた時より気が晴れていた。
それでも落ち着くと思考を支配してしまう、麻穂と祐真のこと。気持ちは沈んでいるはずなのに、ズキズキと胸が痛い。苦しくて呼吸がしづらくなる。
ふと彼のまとう空気が重くなったのを察知し、雪乃は眉をひそめた。
「……どうされましたの?」
尋ねられても素直に話せる訳もなく、しばらく返事を選ぶのに迷った。
そして。
「なぁ、寮長……。もし、あたしが本当に男だったら、寮長はこんな奴のことを好きになるか?」
自分でも何を言っているのかと思うくらい、血迷っていた。濁すようにして尋ねたつもりなのに、気づけば直球を投げていた。
ただ沈黙しか返ってこず、涼が「わりぃ、変なこと言って」と話をうやむやにしようとした時。
「恋に悩んでらっしゃるの?」
雪乃はそう言った。
冷やかすようにでなく、真剣に。
手元からジュースをこぼしそうなくらい驚いて、涼は隣の彼女を振り返った。
「そんなに驚くことじゃありませんわ。最近しょっちゅう物思いにふけっているあなたを見ていれば分かりますもの」
当然のように言う彼女に、自分の感情がだだ漏れしているようで気恥ずかしかった。
「寮長は皆をよく見てるな、すげえよ。でも……あたしがこんなこと言うのって、なんか気持ち悪いよな」
「このくらいの年になれば恋の一つや二つ、おかしくもなんともないですわよ」
二人の間に妙な間が空く。
意外にも自分を肯定してくれる雪乃。
しかしそれは、“女としての涼が男性を好きになっている”という認識であることに間違いはなさそうだったが。
「自信をお持ちになって。わたくしと互角に言い合えるあなたなんですもの、きっと大丈夫ですわ。そんなどうしようもない仮定の話など、およしなさい」
涼相手となるといつもひねくれた言い方をしてしまう雪乃の、精一杯の素直な言葉だった。
彼女が聞こえがいいだけの無責任な慰めを言う人物でないことは、涼はよく分かっている。
「まあ……もしあなたが男性だったら、ね……。あの雪山での続きのように、わたくしはあなたを好きになっていたかもしれませんわ」
雪乃の言葉がいつになく素直で優しい。
彼女の親切心を感じる度、自分が今それだけ弱って見えるのかと自覚する。
無理に笑ってみたけれど、頬がひきつる感覚がしただけだった。それでも雪乃の言葉に十分に勇気をもらえた気がする。
(ありがとう、寮長。俺、頑張ってみるよ……)
少し前に祐真に送られて帰寮した麻穂が、物陰で雪乃の最後の言葉だけを聞いてしまっていたことなど、涼には知るよしもなかった。
寮での夕食前。
掃除ですっかり汚れてしまったので、涼はシャワーを浴びていた。
水滴の滴る髪をバスタオルで拭きながらシャワールームを出ると、いつの間にか帰ってきていた麻穂がいて驚いた。
「帰ってたのか」
「うん、ただいま」
彼女は外出時のワンピース姿のまま机に向かい、バッグの中身を整理しているようだった。
「……楽しかったか?」
何気ない風を装いつつも、内心はおそるおそる、涼が尋ねる。
今日出かけた相手が祐真であることを涼は知らないと、麻穂は分かっている。それでも他の男の子との外出について尋ねられると嫌な気持ちがしてしまう。自分はなんて勝手なんだろうと思う。
「まあまあかな……。涼は?」
「俺は寮長と二人で面会室の大掃除してたよ。この俺が珍しく寮に無償奉仕したぜ。本当はやる予定はなかったんだけど、寮長が一人で埃まみれになって、デカい荷物に囲まれてたからしょうがなく――」
「あのね、涼」
涼の話す雪乃との話など聞きたくなくて、思わず麻穂は声を張ってさえぎってってしまった。
目を見張る彼に対して、わざわざ話を止めてまで言うことなどなかったのに。
そして、言わなくていいことを言ってしまうのだ。
「この間……高時くんに『好き』って言われたの。私、今まで毛嫌いしてたけど、高時くんのことちゃんと考えてみようと思うんだ」
背を向けたままそう告げる彼女の小さな後ろ姿を、涼は凝視した。
今まで胸の痛みとして自分が警告していた、最悪の事態が起こってしまったのだ。
涼は動揺を見せないようにするのに必死で、何も言葉を発せられなかった。
「だからね、変に気遣いしてくれなくて大丈夫だから。涼は自分の好きな人に一生懸命になって。私も涼も、お互いにとっていい道を選ぼう」
麻穂は、誰にでも優しい涼を見ているのが辛かった。
自分のために怒ってくれる、自分を守ってくれる涼。でもそれは麻穂だからではなく、例えば相手が雪乃だったとしてもきっと同じことをするだろう。誰にでも親切なのは良いことのはずなのに、涼のこととなると胸が苦しくて仕方がない。
本当に彼に伝えたかったのはこんな言葉じゃない。それはよく分かっているのに。
いつからか、彼に素直な気持ちを口に出来なくなっている自分がいた。傷つくのが怖くて、予防線を張ってしまって。
なんの反応も返さない涼のことは気になったが、振り返る勇気もなく、既に終わっているのにバッグの中身の整理を続けるふりをしていた。
だから彼が突然背後から自分を抱きしめた時、何が起こったのかすぐには分からなかった。
彼の濡れた長い髪から落ちる水滴が、冷たく麻穂の肌を打つ。
腕に力を込める彼の抱擁は痛いとすら思うほどだった。
「涼……?」
自分を抱きしめている彼は今、間違いなく男性として麻穂に向き合っている。彼から鬼気迫るもの感じる。
どうして急にこんなことをしてきたのか分からない。でも、彼の中であふれる何かが自分に伝わろうとしてくる。ドキンドキンと胸が大きく鼓動を刻んでいた。
耳元で涼の声が震える。
「俺は……」
全てを壊してしまうことになっても、言ってしまおうと思った。
理事長との約束も、家に迷惑をかけることも、学校が被害を受けることも、自分の今後の立場や生活が危うくなることも、全部どうでもいい。
祐真と付き合うことを考えると言われて、頭が真っ白になった。
気づけば衝動のままに彼女を抱きしめていた。女々しくも泣き出しそうなくらいショックで。髪を伝って落ちる水滴はまるで、彼の心が流す涙のようだった。
でも、言えなかった。
自分の中にわずかに残る理性が、利己的な行動を律してしまった。言ってもきっと、誰ひとり救われない気持ち。麻穂も、恐らく自分さえも不幸になる。
勇気づけてくれた雪乃には「頑張る」と心の中で誓ったばかりなのに。
自分の胸にいる今だけは、彼女は自分だけのもの。
腕の中の彼女の小さな体は力を入れてはいけない脆さを感じさせた。
それでも、他の人のもとへ行ってしまう彼女をつなぎとめるかのように、強く抱きしめることを止められなかった。