37
「スキー合宿?」
昼休み。麻穂たちは学生食堂で昼食をとっていた。
雪乃から発せられた聞きなれない単語に、麻穂は数回まばたきをする。
「あら、ご存知なくって? 三年生は進路の関係で有志のみですけれど、一年生と二年生は全員必修でみっちり行いますのよ。毎年恒例の冬季校外学習ですわ。といっても人気行事なので、三年生もほぼ全員参加しますわよ」
雪乃がほほえむと、場の雰囲気が華やかになる。
中等部の生徒たちが集う学生食堂は三つに分かれている。出しているメニューは同じなので、必然的に学年別に分かれることになる。
今麻穂たちがいるのは、三年生が多く集う食堂。
麻穂と雪乃は四人がけのテーブルで向かい合っていた。
「どうしよう……。私、運動音痴の例に漏れず、スキーも苦手なんです。いやだなぁ」
「そんなに自信がないのでしたら、自由時間はソリをなさったら?」
麻穂は苦笑するしかなかったが、雪乃は至極まじめに提案していた。周りのみんながスキーをしている中、十五歳にもなって一人でソリは厳しいのではないか、と麻穂が思った時。
「あんなもんは慣れだよ、慣れ。一日目にコツ掴めば、あとはすいすい滑れるって」
背後から現れた涼が椅子を引いて、麻穂の隣の席に腰かけた。
とんでもない量の白米が茶碗に山盛りにされ、おかずの生姜焼きがてんこ盛りにされている和食の昼食セット。涼はパキッと割り箸を折って合掌した。
雪乃は彼の信じられない量の昼食を見て、眉をひそめつつ涼に言う。
「片岡さん、あなたはどれだけ食べたら気が済むんですの?」
「だって晩飯までに腹減るんだもん」
「下品な言葉遣いはおよしなさいっ」
「お夕食までにお腹が空いてしまうざますー、おほほほほ。これでいいか?」
「人をからかうんじゃありません!」
食べるスピードをゆるめずに、珍妙な言葉の掛け合いをしてゆく涼。対照的に、雪乃は手元のパスタに全く手をつけられない状態だ。
いつも優雅な雪乃。しかし涼と言い合いをしている時だけは別人のようにヒートアップしてみえると、クラスメイトたちのもっぱらの意見だ。
「ねえ、涼はスキーも出来るの?」
小食な麻穂は小盛りのご飯をゆっくり食べていた。メニューは涼と同じもののはずなのに、量の違いで全く別のメニューのように見える。
「できるっていうか、雪国育ちなめんなよ。産まれた時からスキー板が両足についてたと言ってもいいくらいだぜ。山奥とか冗談抜きでスキー登校あるし」
淡々と説明してみせる涼に、雪乃がいやらしく細めた目から視線を送る。
「本当にこの野蛮人は、運動神経“だけ”は立派ですわねぇ」
しかし涼は雪乃の嫌味に全く動じず、むしろお返ししてやる。
「一年次のスキー合宿で、その野蛮人に手とり足とり教わってたお嬢様はどこの誰だっけ?」
片方の口角をあげ涼がちらりと雪乃をうかがうと、彼女は両頬をりんごのように赤くさせていた。
「あ、あの時は……」
「あの時は?」
涼が意地悪そうに言葉の先を促す。
「も、もうっ。吉瀬さんもいる中で、そんなこと思い出させないでちょうだい」
らしくない慌て方をする彼女を不思議に思い、麻穂はすっかり食事の手が止まってしまっていた。
言いたくないことを無理に言わせたいとは思っていないけれど、自分の知らない頃の涼の話が聞きたいという気持ちがあった。
「あの、気になります……。涼と何があったんですか?」
まさかの麻穂に頼まれる展開になって、雪乃は恥ずかしそうに口元をハンカチで隠した。
一方の涼はとても愉快そうに雪乃を見ている。視線が「話してやれよ」と言っていた。
雪乃は観念して思い出を語りだした。
「……まだ、わたくしと片岡さんが面識を持つ前のことでしたわ。初日の自由時間に、友人たちとリフトで結構な高さまで上りましたの。わたくしは初心者であまり上手くなかったし、怖かったんですけれど、平気だからと連れて行かれて。緊張で周りが見えなかったせいか、友人たちがみんな滑って行ってしまってから、ストックを両方どこかに落としてしまったことに気づいたの」
自分の過去の失態に思わず両手で頬を覆ってしまう。
それなのに涼はまだ笑いながら茶化している。
「あの時の泣きそうな顔、まだ覚えてるぜ」
「お黙りなさい! 吉瀬さんのために話しているんですのよっ」
雪乃は咳払いをしてから話に戻った。
「周りに知り合いもいなかったですし、とてもストックなしで一人で降りることはできなくて。そこにしゃがみこんでいましたの。そうしたら、偶然通りかかった片岡さんが声をかけてくれたのよ。事情を話したらストックを二本とも貸してくれて、一緒に下ってくれたわ。その時初めて知ったけれど、上手な人はストックがなくても滑れるのね。あの時は今より子供だったし、夜になるまであそこで一人ぼっちになってしまうと思っていたから、助けてくれて本当に嬉しかったの。そう……」
「まるで王子様みたい、ってな」
雪乃はハッと気づいて言葉を止めたのに、涼がその先を話してしまう。
「もう! わたくしの人生で一番の汚点ですのよ! 言わないで下さる?!」
「王子様?」
その話題に麻穂が食いついてしまう。
「……しょうがない、話しますわよ。その時はお互い初対面で、片岡さんは髪を結んでゴーグルをしていて、スキーウェアじゃ年齢も性別もわかりませんでしたし。この人身長ばっかり高いでしょう? だから、その、年上の男性だと思ったんですの。なんとか下り終えてからも、わたくしがあまりに下手だったからずっと教えてもらっていて。ピンチの時に助けてもらったから、余計に素敵に見えてしまったんですわ」
「そう、そして寮長は目をキラキラさせて『王子様みたいね』と言った」
雪乃の思い出話をおかずに、すっかり完食した涼が合掌しながら言う。
「あんなのただの吊り橋効果ですわ!」
「吊り橋効果って……それ、しっかり好きになってんじゃん」
「あなたが男だか女だか分からないような振る舞いをしているからいけないんですのよ!」
「ほう。もし男だったら、こんな野蛮人が好きだったわけだ?」
墓穴を掘り続ける雪乃。あげ足を取るのがうまい涼。
二人の流れるような掛け合いを見ていると、麻穂は二人の仲が羨ましくさえ思えた。まったくタイプは違うけれど、思ったことをなんでも言い合える、はっきりと意見を主張できる二人の関係。
もちろん、本人たちは犬猿の仲だと自覚しているだろうけれど、周りの目からすると意外に仲良く見えて微笑ましいものだった。
「あ、寮長。髪食ってる」
髪を振り乱して騒ぐものだから、彼女の唇に髪が数本くっついてしまっていた。
身を乗り出した涼は自然な仕草で、彼女の頬を軽く指先でなぞって髪をよけてやる。
麻穂はそんな二人を見て、心にむっと不愉快さが広がるのを感じた。
「あ……ありがとう」
涼にお礼を言うのが癪なのか、雪乃はもごもごと口ごもる。
涼は小さく笑った。
「まあ、あれで知り合えたんだからいいじゃん。そんな恥ずかしがんなよ。それより早く食えって、昼休み終わるぜ」
分かってますわ、と再びパスタを食べ出す雪乃と、彼女を見つめて笑う涼。二人を交互に見ていて、麻穂の眉毛は自然とハの字になった。
(如月さんは私なんかより、涼ともっと長い付き合いがあるんだよね)
そう自分を納得させようとする。しかし。
「そういやあの頃はまだ寮長じゃなかったから、『雪乃』って呼んでたよな」
「昔を思い出すからその呼び方やめて下さる?」
改めて見る二人は、言い争うほどイチャついているように見えてしまう。
(私、変なの……)
思考を止めようと思った時、ふとある日の会話を思い出してしまった。寮の部屋で、園山が涼をからかっていた時の言葉。
(「吉瀬は十分可愛いじゃないか。なんだ、片岡のくせにもっと注文があるのか? まさかお前、誰か他に好きな奴がいたりして。もしくは、童顔より大人っぽい女がタイプ?」)
麻穂はちらりと雪乃を盗み見た。
輝くような白い肌に、形の良い赤い唇。長いまつげに覆われた両の目は、同じ女性の麻穂から見ても大人びた色気を持っている。ふわりと揺れる髪からはいつも芳香が放たれ、長い指に乗る爪は綺麗に磨かれており、細部から彼女の気品を感じる。
それから昼食を終えて、別で用があるという雪乃と別れ、二人は教室へ戻る道をたどっていた。
その道で唐突に麻穂がこんなことを言い出した。
「ねえ。涼ってもしかして、如月さんのこと好きなの? もしくは、如月さんが涼のこと好きなの?」
いぶかしげに見上げてくる麻穂の視線。涼はしばらく絶句したまま麻穂を見つめてしまった。
ようやく絞り出した言葉は、
「はぁ?」
という上擦ったマヌケな一言だけ。
麻穂の期待していた反応ではなかったようで、残念そうに唇がへの字に曲げられた。
そんな様子を見て、涼は困惑してしまう。
「いきなりどうしたんだよ……」
「涼が本気で否定するときは、いつもそんな感じじゃないんだけど」
「突然素っ頓狂なこと言われて、なんて返したらいいか分からないんだよ」
不審そうな麻穂の目。そしていつになく不満そうな表情。
涼は彼女の肩を引き寄せて、周囲を気にしつつ耳打ちした。
「あのなぁ。俺が男だってこと、寮長は知らねえんだぞ」
「知らなくたって知ってたって、好きになっちゃう気持ちはどうしようもないでしょ」
いつになく冷たい口ぶりに、涼は閉口してしまう。
(俺が何したっていうんだよ、いきなり機嫌悪くなって……)
色々と考えながら、ツカツカ進んでいってしまう麻穂のあとに続く。いつもなら歩みの早い涼が、麻穂に合わせて歩調をゆるめているくらいだというのに。
その時、不意にピンときた涼が、その思いつきをそのまま口に出してしまう。
「まさか麻穂、ヤキモチ焼いてんの?」
自分で言いながら涼もびっくりしていたが、麻穂はもっとびっくりしていた。気づけば二人の歩みは止まってしまっていた。
「え、えぇっ?!」
自分のこのモヤモヤした感情に名前がつけられず、気持ちの整理がつかないままに涼にきつい態度で接してしまっていた。麻穂はこれがまさか嫉妬の感情だとはわずかも予想していなかった。
「そ、そんなことは……」
慌てて代わりの言葉を探そうとするも見つからず、ひたすら視線をさまよわせるばかり。
言ってしまった涼も、どうすればいいのかわからず指先で頬を掻いた。
(……嘘でもそんな反応されると、諦めようと思ってたものも諦めづらくなるだろ)
彼女への思いは断ち切るべきだと分かっていた。彼女が自分を恋愛対象として見ていないことは明らかだったし、次の春が来たら自分は彼女のそばを去らなければならない。
「冗談だよ、冗談。そんなわけねえよなぁ、つまんないこと言ったわ」
涼は手をひらひらと振って、「こんな話やめようぜ」と足を進めた。
一方の麻穂はというと。恥ずかしがりながらもまじめに自問していたというのに、涼に“こんな話”呼ばわりされて軽んじられてしまったことに、ショックが半分、もう半分は腹が立っていた。
離れてゆく涼の背中を見つめる。
(私のことなんて、涼は真剣に考えることもしてくれないのね……。つまらないだなんて、言わないでよ)
冬の訪れとともに、二人の心はだんだんすれ違いだしていた。