36
夕焼けは闇夜に押しつぶされ、わずかにその姿を見せるばかりとなった。時間的にはまだまだ夜とは言いがたいが、街灯が点き始めるであろう暗さ。
風が強く吹いていた。寒さを助長する北風。
男子寮の近くまで来て、涼は違和感を覚えた。
休日は生徒たちのほとんどが門限ギリギリまで外出してしまうというのに、何をするでもなく肌寒い玄関にたむろする二人の男子生徒がいたのだ。わざわざ風に吹かれるようなところに、不自然に座り込んでいる。
ここまで走ってきて上がった息を落ち着けながら、涼はしゃがんで木陰に身を隠した。
制服の袖を肘までまくり、強風にあおられて乱れる髪を雑に高く一つに結った。ひるがえるスカートがこれほど邪魔だと思ったことはない。
風がうるさいが、耳を澄ますと二人の会話が聞こえてくる。
「寒いー。なんでこんなことしなきゃいけないんだよ~。俺たちあとどのくらいここにいたらいいの? 指示するだけして先輩たちは居なくなるなんて、ホントに後輩使いが荒いよなぁ」
「高時先輩はもう外出する気なんてないみたいだよ。それにあの人が本気で抜け出そうと思ったら、窓からでも裏口からでも、俺たちの知らないところからでも、きっとどうにでもなるでしょ。もしここに来られても俺たちにあの人を止められる気がしないし」
「でも、高時先輩のそばにリーダーがいるんでしょ?」
「いやそれがさ、最初は監視してたみたいなんだけど、高時先輩が予想以上のヤバいキレ方しちゃって、リーダー逃げ出しちゃったみたいだよ」
「へ? じゃあ俺たちなんでここにいなきゃいけないの? つーか、あの温厚な高時先輩がなんでそんなにキレちゃったの?」
「詳しくは俺も知らないんだけど、高時先輩に恨みがあるっていう不良がいるらしくてさ。その不良たちに高時先輩の彼女だか好きな相手だかを襲わせ……って、あの女子誰だ?」
強風にポニーテールと後れ毛をなびかせて、乱れるスカートを気にすることもなく、二人のもとに大股で歩いてくる女子生徒。それは涼だった。
あっという間に二人との距離を詰めると、玄関の光の届かない暗がりで口を開いた。
「高時祐真に会いに来た」
落ち着いた口ぶり。しかし顔もよく見えない闇の中で、眼のギラリとした光だけは彼らに認識されていた。
彼らの会話から大体の事情を汲み取った涼は、完全に頭に血が上っていた。
二人は突然現れた涼を見て、何が起こったのかと互いに顔を見合わせている。
「不良とやらは返り討ちにして、教師に引き渡した。上の奴らに報告せずとも、これだけ聞けばてめえらで判断できないか?」
上からくる態度や高い身長からして上級生だということは分かっていた。だが、荒っぽい口調をしているとはいえ女子生徒がそのようなことを出来るとは思えず、二人は不審な部外者に問い返した。
「か、返り討ちにしたってどういう……?」
困りきってお互いに判断を任せようとする二人にいら立ち、涼は一歩寮の玄関に踏み込んだ。
玄関の明かりに照らされた涼の顔を見て、二人は同時に「ヒィッ!」と肩を寄せた。
なぜ彼らが驚いているのかその時の涼には分からなかっただろう。彼がそれに気づくのは自分で鏡を見てからだ。
涼の頬にまるで切られたような血の筋が入っていた。
この血は男を殴った時の手からの出血が顔を拭った際にうつっただけだった。しかし彼らをおののかせるには十分だった。
「うだうだ言ってねえで、通すのか、通さねえのか。てめえらをここでぶん殴ってやったっていいんだぜ」
鬼の形相で凄む涼にこんなことを言われて道を開けない人はいない。
逃げ去る二人にフンと鼻を鳴らし、涼は男子寮の扉を開けた。
ロビーには誰の姿もなかった。今やっているテレビ番組のおかげだろう。
涼は好都合とばかりに、スリッパも履かず靴下のまま廊下へ突き進んだ。部屋の大体の場所の検討はついていた。
目的の部屋のドアには鍵がかかっていなかった。涼は勢いよく開け放った。
「高時! てめえっ」
部屋に上がり込むと、そのまま祐真につかみかかった。
祐真は涼に胸ぐらをつかまれても、なんの抵抗も見せなかった。
「お前のせいで麻穂が襲われそうになった! もしあいつが一人だったら、どうするつもりだったんだ!」
怒鳴る涼の熱量の半分も、祐真からは感じられなかった。祐真はすっかり目から光をなくしてしまっていた。
「なんとか言え、この根性なし! 麻穂のことをちゃんと守れないくせに、あいつのことが好きだとか、ライバルだとか抜かしてんじゃねえぞ!」
涼に何度も体をゆすられて、祐真は辛そうにつぶやいた。
「……すまない。今回のことは、全て僕の落ち度だ」
祐真はなんの張り合い甲斐もなく、力なくうなだれていた。
涼は舌打ちして、彼の体を突き放した。音を立てて壁に背中をぶつけた祐真は、何を非難することも、抵抗することもなかった。
もう一度怒鳴りつけてやろうかと思ったけれど、そんな気も削がれるくらいに祐真は憔悴しきっていた。
「やってらんねえ」
行き場を失った怒りに震える拳を握ったまま部屋から去ろうとする涼に、祐真は最後に一言尋ねた。
「彼女は、無事なのか?」
「無事じゃなかったら今頃お前をぶち殺してるよ」
背中を向けたまま返事をした涼は、来た時と同じ速さで寮を出て行った。
風が吹き荒ぶ中、町をさまよう彼の心は荒れていた。
今回のことは全て仕組まれた罠だったということ。祐真にその意図がないにせよ、間接的に麻穂を傷つけたということ。そして祐真が、己を責めるあまりすっかり意気消沈していること。
涼は雲がひしめく黒い夜空を見上げ、心の中でつぶやいた。
(高時。俺じゃ、だめなんだよ……)
涼は自分の恋心が叶わぬものであると、心のどこかで分かっていた。
麻穂が自分のそばにいるのは寮やクラスが同じだからであって、彼女の意思ではない。そして自分は彼女にルームメイトとして、杉浦学園でできた初めて友達として、彼女の親切心から大切にされているに過ぎない。
自分の格好は、二年半に渡って周囲の人間を欺き続けることのできた女の姿。長い髪に短いスカート、女としてふるまい続けなければならない自分。男として意識しろという方が難しいに違いない。
そしてあと少し経てば、自分はここから姿を消さなくてはならない。一切の関わりを絶ち、はるか遠くの地で男に戻り、杉浦学園にいた“片岡涼という女”は居なかったことにしなければならない。
だから、麻穂に自分の気持ちを告げるつもりはなかった。
祐真のことは嫌いだが、麻穂が好きになったのなら仕方ないと思うように努めていた。祐真と麻穂はそもそも婚約者同士。周りも賛成していて、家柄もお互い相応しい。
自分の気持ちさえ押し殺して我慢すれば、みんながそれなりに幸せになるものだと思っていた。
(それなのに……)
歩みを止めた涼は、自分の拳を見た。関節ににじむ血のあと。
涼が怒り狂ったのは、麻穂が傷つけられそうになったからだけではない。自分の尻拭いもままならない、祐真の腑抜けさも理由の一つだった。
もやもやした気持ちを抱いたままあてもなく歩いていると、気づけば門限が過ぎていた。
涼は特に気にすることもなく、いつものように窓から部屋に入った。
「ドアホォォォウ!!!」
部屋に帰ってきてから涼が最初に受けたのは、怒鳴り声と共に繰り出される園山の強烈なボディーブローだった。
どうして園山に怒られなくてはならないのだ、とふてくされた表情の涼。
「門限過ぎて、どこほっつき歩いてたんだ」
「どこだっていいだろ」
仁王立ちで凄む園山。対して涼はあぐらをかいてそっぽを向いている。
もう一度園山の鉄拳が繰り出されそうになったところに、麻穂が二人の間に割って入った。
「先生、それより涼の怪我を手当させてください! 顔から血が……」
彼の顔に血がついているのを見て、麻穂は焦っていた。
「血? 俺はどこもケガしてないぜ」
涼の言葉に構うことなく、麻穂は彼の頬に指を這わせた。自分で確認しないと気が済まないようだった。
本当に彼にケガがないことを確認すると、「よかった……」と安堵して涙ぐんだ。
「吉瀬はな、お前が帰ってくるまでずーっと心配してたんだぞ。何かあったんじゃないか、だから帰ってこないんじゃないかって。あたしがお前の携帯に電話してみても全く反応しないし」
園山は呆れたように説明してみせた。
「……わりぃ」
ばつが悪くて、謝る言葉も小声になる。
「謝るならあたしじゃなくて、吉瀬に謝れ」
強引に頭を下げさせようと涼の頭を正面からわしづかみにする。その様はさながらアイアンクローのようだった。
「いいんです、先生。涼が無事に帰ってきてくれたから、それだけで」
ようやく柔らかく表情が崩れた麻穂が、涼の傍に膝をつく。
「おかえり、涼」
たくさん泣いたであろう瞳で、麻穂が小さく微笑む。
涼がなんと言葉を返そうか迷っていた時だった。
「うっふっふ、こんな可愛い女の子をたぶらかして悪い男だねぇ~。吉瀬になんて言うの? 抱きしめちゃえば? モテる男は辛いなあ、片岡よ」
「園山ァ! 酒でも入ってんのか?!」
にんまり笑って冷やかしてくる園山。細められた目を隠す眼鏡が、楽しそうにキラリと光っている。
涼は反射的に園山に怒鳴り返していた。涼の視界の隅にいる麻穂の顔は、一瞬にして耳まで赤く染まっている。
「子供の頃からお前はほんっとに色恋沙汰に興味ないよな。北海道にいた頃だって女の子みたいにキレイな顔だって町内で評判だったのに」
「俺にとってそれは褒め言葉じゃねえ」
不愉快そうに返す涼。
「差し向かいのゆりちゃんとか農協脇のあいちゃんとか、お前と連絡とりたいってあたしの家にガンガン電話よこすんだけど。何をイケメンぶって二人の連絡無視してんの?」
「着替えたいから早く帰ってくんねぇ?」
いよいよ面倒臭くなり、あぐらに肘をついて園山の話を聞き流している。
「吉瀬は十分可愛いじゃないか。なんだ、片岡のくせにもっと注文があるのか? まさかお前、誰か他に好きな奴がいたりして。 もしくは、童顔より大人っぽい女がタイプ?」
園山は女同士で恋愛話をするテンションで続けてくる。
涼は視線を落として、小さくため息をついた。
「……そういうんじゃ、ない」
絞り出すような言葉。
涼の表情に影がかかったのを察して、園山は「つまらん」と冷やかすのをやめた。
麻穂は彼が何について「そういうんじゃない」と否定したのかが分からなかった。別に何を期待していたわけでもないけれど、自分は恋愛対象ではないとハッキリ言われたようでなぜか胸にもやもやが広がった。
涼は園山がわざと明るくふるまっていることを分かっていた。そうでもしないと、不安で泣き出しそうな麻穂が可哀想だし、いらだっている涼の怒りを逸らせないと思ってのことだろう。
園山はその後、寮で待っていたのは今回の事件の終始を説明するためだと言って話し始めた。
祐真を寮に閉じ込めることについて、広瀬は何も知らなかった。一部の男子バスケ部だけが画策したことで、協力させられていた一部の後輩たちも詳細はよく聞かされていなかった。
校外の不良と内通していた男子生徒のことだったが、
「酌量の余地なしとして、停学処分。しばらくは自宅に帰らされる」
となった。
本人はほんの脅しのつもりで、本当に麻穂を襲わせるつもりなどなかった、という。
「どうだか。世間知らずの金持ちのおぼっちゃんは、何にも分かってねえ」
祐真への怨恨から麻穂を襲った不良たち。あの後園山がすぐにしかるべき機関に引き渡した。
明日にでも園山は祐真に事情を聞くつもりだという。
「先生! 高時くんは女子寮のみんなのために、あの人たちから恨みを買ってたんです。だから処分とかはしないでください! 私が証言できますっ」
祐真への事情聴取という言葉を聞いて、急に腰を上げて前のめりになった麻穂。
予想外の反応に園山は目を丸くした。
「いや、別に高時をどうこうってわけじゃない。高時からの話も聞きたいというだけだ。あいつも当事者の一人だからな」
それを聞いて麻穂は「なら、よかったです……」と、再び腰を落ち着けた。
無表情のまま、涼はその一部始終を見ていた。
麻穂のこの不安そうな表情は、先ほどとは意味が違うものであることを分かっていた。
(あんな怖い目にあっても、やっぱり麻穂は、高時が……)
涼は心がひどく落ち込むのを感じた。泣きはらした麻穂の目を見ていると、なおさらだった。