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休日は寮からほとんどの人が出払う。実家に帰ったり遊びに出かけたり、はたまた部活動があったり。昼過ぎには女子寮はほとんどが空になり、男子寮も同じように人気がなくなっていた。
七分丈のシャツに、明るい色のパンツを合わせたラフな私服姿の祐真が一人、男子寮の食堂で軽食をとっていた。
勉強用の眼鏡をかけ、片手の文庫本に読み入っている。
周りに寮生はほとんどいない。学年全員がまるまる収まりそうな広い食堂に、祐真を含めて片手で数え切れるほどの人数しかいなかった。
本に夢中になっていたのかあえて無視をしていたのか、祐真は自分に近づく人物に声をかけられるまで、その存在に反応を示さなかった。
「寮長、ちょっといい?」
「何かな」
顔をあげた祐真の目の前には一人の男子生徒が立っていた。部活動ごとの専用ジャージを着用していたので、彼が男子バスケ部だとすぐに分かった。
「今日、うちの部長・広瀬と試合するんだよな」
半日のうちに学年中の話題となったこのことを知らない人は少ない。祐真はうなずいた。
「寮長に頼みがあるんだ」
「試合に行かないでほしい?」
意を決して口を開いた男子生徒の台詞を半分、祐真が持っていく。祐真は眼鏡を外し、うっすらと笑みを浮かべた。なんでもお見通し、といった様子だった。
「……なら話は早い」
「どうして“君たち”がそんなことをお願いしてくるのかな? 広瀬くんはこのことを知らないよね」
祐真は複数を強調して言ってみせた。彼の後ろに複数の人間がいることを分かっているようだった。というよりそもそも、今日彼が接触してくることを予測できていたような口ぶりだった。
男子寮長であり観察力と推理力に優れた祐真のこと、こうなることは予想できていたようだ。
男子生徒は気味悪そうに顔を歪めた。
「理由によっては、君たちに従っても構わないよ」
祐真は本を閉じて、残っていた軽食を全て平らげた。これから起こるであろう全てのことへの準備をするかのように。
「周りから聞いている。本当は寮長は片岡さんが好きなわけじゃないって。だったら今回のことは広瀬に譲ってあげてくれないか」
「僕に不戦敗になれということか。それで広瀬くんは納得するのかな?」
「広瀬は部員の俺たちも驚くくらい純粋で硬派なやつだ。試合から逃げたとあれば、取るに足らない奴と判断して勝負もなく勝ちとするだろう。手を抜けばすぐに気づくだろうし、故意に負けるのは寮長のメンツにも関わるだろう?」
どちらも物怖じする様子は全く見せない。口調自体は話し合いのようなていで進んでいるが、二人のあいだには殺伐とした空気が漂っていた。
「そんなに部長思いの君たちは、どうして広瀬くんの勝利を信じてあげないの?」
祐真が薄い笑顔のまま彼に問い返した。
すると男子生徒の様子が一変した。表情こそニヤリと笑っているが、何かを恐れるような焦りのにじんだ表情で祐真に言い放つ。
「すっとぼけんなよ、寮長。俺は知ってるんだからな。武道家の叔父の元、幼少の頃よりあらゆる格闘技に通じ、中等部に上がるまでは全国大会の常連だった。そうだろ?」
「よく調べたね。初等部からの同級生に聞いたのかな、それともおしゃべりな先生?」
「そんなに強かったのにどうしてやめたのかは知らないけど、中等部にあがってからはずっと生徒会に所属し、部活動もせず、スポーツで目立つようなことは全くしてこなかった。人とあまり関わらない世間知らずな広瀬は、何も分かってないんだ」
そこまで聞いて、祐真は再び口元に笑みを浮かべた。
「広瀬くんのことは分かった。ただ僕も約束しちゃってるんだよね、片岡さんのために戦うってこと」
「三年二組の吉瀬麻穂さんのために、だろう?」
のらりくらりとかわすように会話していた祐真の表情が固まった。
その口元に相手を馬鹿にするような笑みはなく、目に嗤うような光はない。
祐真の反応を見て、男子生徒はニヤリと口角を釣り上げた。
「寮長。優等生のツラして、意外とちゃっかりしてんな。門限後の外出などの常習的な寮則破り、校外生徒への暴力沙汰、聞けば色々出てくるもんだ。昨夜、女子寮に一人で女子生徒に会いに行ってるのも分かってる」
祐真の思考回路はフル稼働していた。
寮長である祐真は寮生が門限にきちんと部屋にいるかなどの確認を毎日行っており、生徒の門限外の外出届けを受理するなどの仕事を一手に請け負っている。自分が寮を抜け出す時はそれらをよくチェックした上で行動していた。
だからなぜこの男子生徒が自分の行動を知っているのか理解できなかった。
微笑みの消えた表情のまま虚空を見つめ何かを考えている様子の祐真に、男子生徒は追い討ちをかける。
「なんで知ってるんだ、って顔だな。俺にはな、学校外にガラの悪い友人が何人かいるんだよ」
その言葉ですぐに合点がいった。誰のことを言っているのかも分かり、顔が浮かんできた。
麻穂が転入してきたばかりの頃に、女子寮をうろついていた他校の男子生徒たち。学校も年齢も名前も分からからないが、暴力性のある不良であることは間違いなかった。
彼らが杉浦学園女子寮付近に現れるようになってから、祐真は不定期に女子寮近辺を歩くようにし、絡まれそうになる女子生徒たちを陰ながら守っていた。
そして彼らが虐めていた猫を助けた際、麻穂と初めて面識を持ったのだ。
最近はほとんど姿を現さなくなった彼ら。まさか自分を隠れて監視していたとは。そして仮にも良家の子女がそのほとんどを占める杉浦学園の生徒とつながりがあるなんて思いもしなかった。
「連中な、寮長に敵わないのはよく分かってるんだよ。でもムカつくって。だから俺は取引をした」
自分の手腕を自慢するかのように雄弁に語りだす男子生徒。彼を冷ややかに見つめている、今まで誰も見たことのない祐真の表情には気づいていない。
「俺たち男子バスケ部有志数名は、バカだけど純情で素直な広瀬部長が好きだ。だから寮長に試合に行ってほしくない。でも、寮長がこの希望を飲まないことは分かっていた。寮長は片岡さんのためでなく、本当に好きな吉瀬さんのために戦うんだから。そこで俺は考えた、校外のあいつらに一仕事してもらおうってな」
持ち前の思考の速さで先の展開が読めた祐真。彼の瞳孔が一気に開かれる。
「もし寮長が今日、この寮を出てどこかに行こうものなら、携帯電話で彼らに連絡して吉瀬さんのところに行ってもらう」
勢いよく祐真が立ち上がり、食器も本も、テーブルすらも、派手に床に叩きつけられた。
「お前、性根の腐った外道だな」
「……寮長、そんな人殺しそうな顔できんだね」
「彼女は関係ない。手を出すな」
瞳孔の開ききった目で、笑わない祐真の口調が荒い。
祐真のそんな姿を見たことがある者は、この寮内にいるはずもなかった。なぜなら彼がこんなに憤るのは物心ついて初めてのことだったからだ。
予想以上の反応に、男子生徒は内心冷や汗をかく思いだったが、強がるように彼の態度を冷やかしてみせた。
「寮長がそんなに必死になる相手だもの、だから手を出すことになったんだよ。敵わないくらい強い奴に勝つにはその心の拠り所を攻めるのが一番、ってこと。とにかく今日一日寮から出ないでくれたらいいんだよ。ここで激昂して出て行ったら、それこそ連中の思うつぼだと思うけど?」
気づけば食堂には二人の姿しかなかった。会話が荒れる前に不穏な気配を察知して去っていったのか、バスケ部の他の有志のメンバーたちが退出をうながしたのか。
(……彼らは何も分かってない。彼女を僕の弱みとして奴らに教えたのなら、今日一日の難を逃れたとしても、奴らは何度でも彼女を狙ってくるだろう)
麻穂が自分に初めて見せてくれた笑顔が頭に浮かんでくる。自分の言葉に呆れる顔も、彼女を悲しませた時の顔も、かわいらしく恥ずかしがる顔も、仕方なさそうに笑ってくれる顔も。
自分の行動から出た結果を、彼女が被るかもしれないということ。その理不尽さへのいだらち、そして何より自分の過去の振る舞いと抜けていた己を恨んだ。
あふれる悔しさから、脇のテーブルに拳をつき立てた。
今、祐真の脳裏に浮かぶのは一人の人物。自分のことを心底嫌っているのは知っている。しかし麻穂のこととなれば、誰よりも力を発揮するであろうあの生徒。
(片岡 涼、君だけが頼りだ……)
柔道場に律儀に顔を出した涼。実際は麻穂が、祐真が戦ってくれるのだからと嫌がる彼を引きずるようにして連れてきた。
緊張のせいなのか柔道の試合を前にしたかしこまった顔つきなのか、表情に乏しい広瀬。
約束の時間を三十分すぎるも、三人が待つ祐真は姿を現さない。広瀬が道着に着替えてからもうしばらく経つ。
「来ないな……。あれだけ大口を叩いておいて、まさか逃げたのか」
「高時くんは逃げるような人じゃないわ」
広瀬の台詞にかぶさる早さで、麻穂が強く否定する。
「でも、どう考えても遅い。何かあったのなら俺が寮を出る前に何か言ってくるはずだ」
広瀬がいぶかしむよりも強く、涼はアクシデントの可能性を懸念していた。
(優等生で通ってるあいつが、こんな大事なことに何の連絡もなく遅れてくるだなんておかしい。しかも、戦うと約束したのは俺のためにじゃない、“麻穂のために”だ。あんなに麻穂に迫ろうとする高時が、まじめな麻穂の信頼を失うような真似をするわけがない)
この静けさが涼は妙に怖かった。早くも西日に差し掛かろうとする秋の日差しが、柔道場に光の帯をえがいている。黙ってそれを睨んでいた。
横には、祐真を信じて待つもにじみ出る不安を隠せない麻穂が座っている。
そんなに心細そうに強がる姿は見ていられないと、涼は意を決して立ち上がった。
「あたしは行く。あいつのことは嫌いだけど、逃げるような奴じゃないのは確かだ。何かあったのかもしれない」
畳の上で彼を待つうちに、すっかりしわの寄った制服のスカートが揺れる。
制止しようとする広瀬に、涼は指を立ててはっきりと言った。
「お前との戦いはあたしが直々に受けてやる。柔道以外でならなんでもかかってこい。ただ、今は高時を探させてくれ」
主張を譲らない意志の強い二つの視線がぶつかりあっていた。
涼が好きでもない祐真を探すのは、何となく嫌な予感がすると思ったからというのもある。しかし一番の理由は、不安そうに揺れる麻穂の瞳のため。
それでも事情を知らない広瀬からしたら、恋敵である祐真を探しに行きたいと言われているのだから、譲りたくはないはずだった。
しかし、勝ったのは涼だった。
「……分かった。片岡さんが自分で決めたことを撤回するような人でないことは既知の事実だ。高時君を探しにいくことも、再試合することも」
広瀬の張り詰めた表情が、わずかに崩れた。
彼は本当に涼に惚れてしまっているんだな、と麻穂は思った。
「サンキュ」
そんなことは露知らず、涼は片方の口角を上げてみせた。
足早に柔道場を去った二人は、革靴を履いて校門へと急いだ。
「麻穂、高時の居そうなところってわかるか?」
「高時くんの私生活は何も知らないの……あっ、昨日こんなの渡されたわ」
麻穂は自分のブレザーのポケットから、折りたたまれた小さな紙を取り出した。
「多分、高時くんの携帯電話の番号かなと思うんだけど。昨晩話してた時、涼が探しに来てくれる直前に手を握られて、気づいたら持たされていたの」
こっそり携帯番号を渡していた祐真と、自分に隠して肌身離さず大切そうにそれを取っていた麻穂。腹が立つことや気になることは山積しているが、涼は素早く自分の携帯電話を取り出して番号を入力した。
電話はなかなかつながらなかった。切ろうと思い涼が携帯電話を耳から離した瞬間に、呼び出し音が途切れた。
つながってすぐ携帯電話を耳に当てる間もなく、電話から大声が届いた。
聞きなれた声の、聞きなれない口調と切羽詰ったような台詞。
「片岡 涼! 麻穂ちゃんから一瞬たりとも離れるな!」
それだけ伝えて通話は切れた。あとはただ無機質な音が響くばかりだった。
驚いて顔を見合わせた二人だったが、次第に涼の表情が険しくなる。
(何が起きてるってんだ、高時……!)