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「高時くん……! どうして?」
麻穂がびっくりして声を張ると、人気のない女子寮の玄関に一人立つ祐真は、「しぃ」と唇の前にその長い指を立てた。
そしてそのまま、ラフな私服姿の祐真は麻穂を手招きながら玄関を出た。
下駄箱まで靴を取りに行くのが面倒だったので、麻穂は玄関にあった共用サンダルをつっかけ急いで彼のあとを追った。
門限である夜八時はまだ回っていないが、空にはすっかり星がのぼっている。麻穂は部屋着姿だったためすぐに肌寒さを覚えた。
祐真は女子寮の明かりが届かないところまで彼女を誘導すると、自分が着ていた薄手のコートを彼女の肩にかけてやった。
「寒くない?」
「高時くんこそ」
「僕は寒さに強いんだ」
気遣う麻穂に祐真はほほえんで見せた。
かけてもらったコートは彼のぬくもりを残していてとても暖かかった。麻穂は彼の厚意に甘え、襟部分を指先で軽く支えた。
「夜に寮まで来て、どうしたの?」
「麻穂ちゃんに会いたくなったって理由で来たらダメかな?」
構ってほしそうな子犬のごとく、祐真が小首をかしげる。
「もう、バカみたいなこと言わないで……」
恥ずかしさをごまかすように言葉を搾り出すが、彼がふざけているわけではないことくらい、今までの付き合いで分かりきっていた。
麻穂が彼と二人きりで話すのは、男子寮に忍び込んだとき以来だった。
男子寮と女子寮は学校を挟んでほぼ同じくらいの距離にあるため、決して遠いわけではない。しかし寮を行き来する者は滅多にいない。なぜならお互いの寮に行く公的な理由がないし、寮内だと決まった場所と条件でしか面会できないため、生徒たちの好奇の視線にさらされることが避けられないからだ。
そのため付き合っているカップルたちや異性の友人同士の交流は、もっぱら学園内で行われている。都内とは思えない贅沢な広さを誇る学園は、例え逢瀬であろうと場所に困らない。
「噂好きの村木から話を聞いたよ。片岡さん、バスケで男子に混じって大活躍だったんだって?」
おかしそうに訊いてくる祐真に、麻穂は改めて説明する。
「体育の授業が自習でね、一組と二組の男子がバスケの試合をしたの。自習監督に来てた園山先生が『勝ったクラスの持久走を無くしてやる』って言うものだから、みんなで盛り上がっちゃって」
「それで、バスケに自信がなかった二組の男子が片岡さんを入れたわけだね。圧勝するまでやるだなんて、片岡さんらしい」
「そのせいで涼が、相手の一組のリーダーだったバスケ部部長の広瀬くんと、ややこしいことになっちゃったんだけど……」
麻穂はそうつぶやいて、祐真の顔をちらりと見上げた。
彼女の瞳と見つめ合って、祐真はわずかに目を細めた。
「僕が負けるんじゃないかって、心配してる?」
麻穂は首を横に振った。彼をまっすぐ見つめて麻穂は言う。
「ううん、私は高時くんのこと信じてるよ」
彼ならきっと助けてくれる、と思っているのは事実だった。今までの記憶を思い返しても、祐真が自分の願いや期待を裏切ったことは一度もない。
祐真は驚いたように目を見開いていた。
「参ったな……。普通にそう言われちゃうとは。君が心配だと言ったら、『麻穂ちゃんが応援してくれるなら大丈夫』って言おうと思ってたのに」
冗談のように聞こえても、麻穂には彼がそれを本気で言っていることが分かっていた。
相変わらずの歯の浮くような言葉の数々に麻穂は思わず笑ってしまう。出会ったばかりの頃はこういう発言をされる度に嫌悪感があふれたものだった。でも今はもうすっかり彼のキャラクターに慣れてしまったし、彼なりのユーモアなのだと思っている。
「もちろん、応援してるよ」
祐真は麻穂の言葉に「ありがとう」とほほえんだ。
彼の作られたような微笑みが、最近ごくたまに自然になる瞬間があることに麻穂は気づいていた。作り物でない彼の素の表情が見られると、不思議と嬉しい気持ちになった。
「最近吉田はどう?」
「文化祭以来、特に何もないよ。前ほど涼に張り付いてることもないし。いろいろありがとう」
「いやいや。僕はご褒美があるから頑張っただけだよ」
祐真の言葉に、麻穂は心臓が思い出したかのように飛び跳ねるのを感じた。
「ご褒美って……あの、デ、デートのこと?」
しどろもどろになって視線を逸らす麻穂に、祐真が追い討ちをかける。
「それ以外にも何かくれるの?」
「ちっがう!」
一体何を言い出すのかと、麻穂は必死になって否定した。
そんな彼女をおかしそうに眺めながら、祐真は嬉々として話す。
「僕、特に行きたいところとかはないんだよね。麻穂ちゃんと長く一緒に居たいな」
「約束は守るよ。でもね、高時くんはデートって思ってるかもしれないけど、私はそうは思ってな……」
麻穂の言葉をさえぎって、祐真は急に彼女の手を取り両手で強く握った。
手に突然訪れた暖かい感覚に、麻穂は目を丸くしてしまう。小首をかしげて彼を見上げるも、彼は自分を見つめるばかり。意味深長な彼の行動に説明はなされない。
そんな見つめ合う二人に近づく、落ち葉を踏むテンポの早い足音があった。
「何やってんだコラ」
現れたのは涼だった。呼び出されたままなかなか部屋に帰ってこない麻穂を心配して、寮中彼女を探していたのだった。上着をはおることもなく髪も結ったままだ。
祐真と目が合うと、表情は途端に不機嫌一色になる。
「やあ、片岡さん」
「麻穂を寒空の下にさらして何してんだ。離れろバカ」
祐真に包まれた手のことを指されているのだと気づき、顔を真っ赤にした麻穂が強引に手を引っ込めた。
「やだなあ、逢瀬の邪魔なんて無粋だよ」
「寮の管理人に聞いたぜ。小賢しい手を使って、上手いこと麻穂だけを呼び出しやがって。なんのつもりだよ」
「そりゃあ、“僕”は麻穂ちゃんが好きだから」
薄く笑う祐真の顔を見て、涼は文化祭の日の一瞬が重なった。
(『君と僕は恋のライバルだ』)
その場の空気が止まった気がした。麻穂の前でわざわざそれを言う彼の意図が、涼には読めなかった。感じるのは鋭利な刃物に切られるような、すっと通る心の痛み。そして息苦しいまでにざわつき出す胸。
「僕が麻穂ちゃんを好きで、君に何か問題がある?」
追い討ちをかけるような祐真の言葉に、涼は目を逸らしてしまった。何かを言いたそうな拳が悔しそうに握られている。
慌てて割って入ったのは麻穂だった。
「たっ、高時くん! 涼は心配して探しにきてくれたのよ、そもそも寮内の呼び出しだと思ったんだから」
「確かにそうだね、ごめん。寒い思いをさせちゃったね」
麻穂の言葉に素直に謝って見せた祐真だったが、涼にはそれがポーズでしかないことが分かっていた。
「片岡さん、明日のことは大丈夫だから心配しないで。麻穂ちゃんの大事な“女友達”のためだもの、頑張るよ。僕も男だから、“女の子”に戦わせることなんて出来ないからね」
祐真のセリフを受けて、涼の胸中に去来する思い。
(こいつは、俺の正体に気づいてやがる……。多分、吉田なんかよりもっと。決定的な場面を見られた記憶はないけど、こいつは確信してる)
今までもヒヤリとする場面はいくつもあったし、不安がなかったといえば嘘になる。
祐真に殴りかかった時。
演劇で宣戦布告をされた時。
(麻穂はこいつに信頼を置いてるようだが、これ以上俺のことを話されたら……勘のいいこいつは麻穂の嘘なんてすぐに看破するだろう。だからといってこいつと話すなと俺がわめいたって、ただの嫉妬にしか見えないじゃねえか……)
黙り込んだ彼を心配して、麻穂が「どうしたの?」と顔を覗き込んでくる。
眉間に寄ったしわをほぐして、涼は麻穂の手首を取った。
「部屋に戻るぞ」
「あっ、待って」
麻穂は慌てて、祐真にかけてもらったコートを彼に返す。
「これ、ありがとう。高時くんも寒いのにごめんね」
祐真はそれを受け取ると、「気にしないで」と首を横に振った。
「夜は冷えるから、帰ったら暖かくしてね」
麻穂の言葉に祐真は嬉しそうにうなずいた。
そのやりとりを見てしまった涼は、強く彼女の手首を引いて寮へと歩き出した。
早足で進む涼に引っ張られるようにして、麻穂は寮の入口まで連れていかれる。
「ちょ、ちょっと、涼! 痛いよ」
強くつかまれた手首の痛みを訴えるも、涼は振り向かない。彼らしくない強引なふるまいに戸惑いながら、麻穂は小走りでなんとか彼について行った。
寮の入口で蛍光灯に頭上から照らされる二人。
彼は背を向けたまま、麻穂に問った。
「なあ。俺、麻穂にとって邪魔じゃないよな……?」
麻穂は質問の意図が読めず、首をかしげた。それでも彼の背中から、首筋から、つながれた手から、切実な何かが伝わってくるのを感じていた。しかも普段は部屋から一歩でも外に出たら「あたし」になるはずの一人称が、自然と男のそれになっている。
「涼が邪魔なわけないじゃない……どうしたの?」
自分が本当に求めている問いへの答えではないことは分かっていた。でも、そんな言葉を信じてすがるしかないくらいには、彼の心は弱っていた。
「なら、いいんだ」
絞り出すような低い声。涼は彼女の手首を放して先に寮内に入った。麻穂が「待って」とすぐにあとをついてくる。それに反応を示すことなく、涼は自分の心と向き合っていた。
(麻穂は高時とくっつくのが、どう考えても理想的なんだ。邪魔なのは、俺の気持ち。俺が俺らしくいられなくなる恋心なら、いっそ消えちまえばいいのに……)