32
寮に帰ってからの涼の沈み方はひどいものだった。いつも麻穂のベッドにある大きなぬいぐるみを抱きしめながら深いため息を連発し、深く落ち込んでいる。
帰路でも寮でも多数の女子生徒たちに冷やかされ、「高時くんと広瀬くん、どっちにするの?」とか「あの二人に取り合いされるだなんて羨ましい!」といったことを口々に言われた。
涼にはもはや怒鳴り返す気力もないようだった。
「俺はどうしたらいいんだ……。男を取り合って男同士で対決って、マジで笑えねえよ」
怒っているというより困っている、元気のない涼。
最近の彼は部屋にいる時、長く伸びた髪を首元の左脇で結っている。結んだ髪は胸の前に垂れていた。
肌寒くなってきたため、いつもの部屋着兼寝巻きのジャージより厚手の生地の黒いスエットをゆったりとはいていた。上には長袖シャツを着用し、クリーム色のざっくりとした大きめのカーディガンを羽織っている。まもなく訪れる冬を感じさせる色合いの服たちが全て男物であることは明らかだった。
しかし彼の胸には二つの膨らみがある。警戒心の強い彼は、部屋の中でも寝るときでもその偽の胸を形成するブラジャーを外すことはない。
麻穂は彼のそばに座った。
「大丈夫だよ。高時くんが広瀬くんに勝ったらいいんでしょ? 高時くんが涼のことを別に本当に好きなわけじゃないってことは分かってるんだし」
麻穂の言葉に、涼は弱々しく彼女を見つめた。
「あんなこと言うからには勝算があるんだろうけど、俺には高時が柔道強そうには見えねえし……」
祐真のスマートな見た目からは、確かに試合に勝てそうなイメージは感じられない。
しかし麻穂は転入したての頃、猫を探して夜に外出した時や初めて一緒に下校した時に、彼が人と戦う姿を見ていた。
「安心して。高時くんはきっと勝つと思うよ」
信頼しきった声と共に、麻穂が涼の丸まった背中にそっと手を添えてやる。
すると突然振り向いた涼が、至近距離で麻穂をじぃっと見つめた。
「麻穂は最近、妙にあいつの肩を持つようになったよなぁ。最初はあんなに嫌ってたのに」
「えっ……」
麻穂の頬がほんのり赤く染まったのは、突然涼の顔が近づいたから。思わずさっと顔をそらしてしまう。
しかし涼からすると、祐真の話題を出した瞬間に赤くなったようにしか思えなかった。
涼には文化祭からずっと気にしていた事があった。うやむやになってしまい聞きづらくなって、彼の心に秘めてあるのだが。
(高時が言ってた、“麻穂とデートする”って。嘘をついてる口ぶりじゃなかった。なんで麻穂は俺に何も言わねえんだ……。文化祭の夜、泣きながら『隠し事をしないでほしい』って俺に言ってきたのに)
勇気を出して麻穂に訊こうとする度、そんなことを聞ける雰囲気でなかったり、テスト期間で勉強が忙しかったり。
涼は話を逸らすついでに、深くため息をついた。
「はぁ。俺の初めての抱擁が、まさか男に奪われるなんて……。このぬいぐるみを抱いてたらチャラになんねえかな」
涼の突然の嘆きに、麻穂はびっくりしてしまう。
「そんなこと気にしてたの?」
「俺は気にする」
きっぱりと言い切った涼。
麻穂の素直な気持ちが、反射的に口をついてでてしまう。
「抱擁っていうか、涼にぎゅっとされたことならあるじゃない、私。男子寮のところで、管理人さんに見つかりそうになった時に……」
そこまで言いかけて、麻穂はまた慌てて視線を逸らした。
落ち込む彼を慰めようとして自然と口にしてしまったのだが、それは思い出してみるとお互いにとって非常に気恥ずかしい思い出だった。
男子寮の管理人に追い詰められたあの時。緊張で腰が抜けて足がふらついてしまい、涼にほとんど全ての体重を預ける形でかろうじて立っていた。彼の腕に抱かれ、体を強く胸板に押し付けられて、なんとか支えられていたのだった。
目の前にいる男の子にされたことなのにどうして言ってしまったのだろうと、麻穂は恥ずかしくて消えてしまいたくなる。熱を帯びる頬を両手でおおうことしかできない。
「恥ずかしがるなら言うなよ。こっちが恥ずかしいわ」
「ご、ごめんなさい……」
涼も呆れながら気恥ずかしそうに注意する。なるべく思い出さないようにしないと、一緒の部屋でなど暮らしていけない。
涼はなぜ彼女がうっかりこんなことを自分の前で言ってしまうのか、不思議で仕方なかった。それだけ自分は日頃から男として意識されていないのかと、内心では表情を引きつらせていた。
麻穂は話を逸らすようになんとか話題を探す。
「あ、あの、試合、ありがとう。勝ってくれて……」
「まあ、勝ったせいでこんなことになったんだけどな」
再び肩を落とす涼に、麻穂は言葉を続けた。
「試合中、すごくかっこよかったよ」
麻穂にそう言われてまんざらでもない涼は、ほんのり赤く染まった頬を隠すように少し視線を逸らして「ああ、そう」とつぶやいた。
今日の試合には、チームのプライドのためとか持久走を無くすためとか色々な名目があったけれど、涼には麻穂の前で良い所を見せたいという気持ちがあったのは間違いなかった。
そう、相手クラスの男子生徒に試合中耳打ちされた時も、手加減してやるわけにはいかなかったのだ。
「涼だったら、絶対勝ってくれると思ってた」
麻穂は彼の想いも知らず、満面の笑みを浮かべた。
きっと自分の気持ちなど全く分かっていないであろう麻穂に対し、涼は心の中で今までとは違う種類のため息をついた。それでも嬉しくてニヤついてしまいそうになる気持ちをなんとか押し殺す。
(自分の恋愛経験値が低すぎて、嫌になる。こんなことで舞い上がるほど嬉しいって、俺はガキか……。ああ、笑った顔がかわいいぜ。チクショウ)
照れ隠しで前髪を直しながら、涼は適当に話を逸らした。
「明日、俺が試合に出れたらよかったのにな」
「涼、柔道できるの?」
「剣道が主だけど、柔道もある程度なら子供の頃に園山に仕込まれてる」
自分のことなのに自分が何も行動できないことが、涼は不満なようだった。
「じゃあ出たらいいじゃない?」
「柔道は流石に無理」
麻穂がきょとんとしていると、涼は彼女の手を取って自分の胸に手を押し当てた。
びっくりした麻穂の手には、布の感覚。
涼は常にパットをたくさん詰め込んだブラジャーをつけている。それは平らな胸板に偽物の胸を形成するためのもの。おかげで本来存在しないはずの涼の胸は、麻穂の胸より大きく見える。
「あんなもみくちゃで戦ったらコレがずれるし、触られたら感覚で分かっちまう」
その時。二人の部屋の扉が叩かれて、麻穂は慌てて手を引っ込めた。
「片岡さん、吉瀬さん。どちらか玄関に来てください」
その声はこの女子寮の管理人のものだった。
「突然なんだろう?」
二人は心当たりがなかったので首をかしげた。
「どっちかでいいなら、麻穂が行ってきてくれないか。俺はもう廊下で騒がれるのが面倒くさい」
涼にそう言われ、麻穂は部屋着の上に一枚大きなカーディガンをはおって廊下へ出た。
廊下は不思議と人の姿がなかった。今夜テレビで放送している人気映画のせいだろう、と麻穂は思った。
この寮は各部屋内に放送が映るテレビがないため、視聴したいときは各階にある寮の談話室のテレビをみんなで共用しなくてはならない。二人の部屋にあるテレビも涼が持ち込んだゲーム用であり、テレビ線はつないでいないため映らない。
みんながそれを見に行っていることは想像にかたくなかった。
一人で玄関に向かった麻穂が見つけたのは、この女子寮内では意外な人物だった。