3
麻穂は放課後、涼と一緒に帰寮した。涼はあれだけの運動神経があるのにも関わらず部活動には参加しておらず、学校が終わるといつもすぐに寮に帰っているようだった。麻穂は部活動に参加するつもりはなかったので、見学することなく涼について帰った。
帰宅してからは宿題をこなしたり、新しい学校の授業についていくため科目ごとに涼に進度を確かめたりした。あっという間に日は暮れて、夕食の時間となった。
寝巻き兼部屋着と化しているジャージ姿の涼と、私服に着替えた麻穂は、一緒に食堂へ向かった。
寮の食堂は広く、一つの学年なら丸々入ってしまう規模だった。
本日の夕飯はハンバーグだった。涼はそれを前から楽しみにしていたようで、見て分かるほど上機嫌だった。
「おばちゃーん! あたしの大盛りで頼むよ!」
親しげに話しかける相手は、寮の食堂のおばちゃん。
「はいよ、涼ちゃんはずーっと食べ盛りだからね」
愛想よく応じてくれるおばちゃんと涼は、かなり仲がいいようだ。
「あと、この子は麻穂ってんだ。こいつちっこいから沢山食わしてやってくれよな」
涼に紹介された麻穂は、ぺこりと頭を下げた。
「じゃあ麻穂ちゃんも大盛りにしておくわね」
おばちゃんがにっこり微笑んで言うものだから、小食な麻穂も苦笑いを浮かべつつ「ありがとうございます」というしかないのだった。
席についた二人は、合掌してからすぐに食べ始めた。
「おいしい……!」
驚いた麻穂が、口を覆いながら発言する。
涼も彼女に笑って言った。
「だろ? この寮の食堂はハンバーグがうまいんだ」
その後夢中で食べ続ける涼が全くしゃべらないものだから、麻穂はただ黙々と食べ続けた。
その背後から、そんな二人の者に迫る一人の女子生徒がいた。
その人物は白米をむさぼる涼の頭をバシンと引っぱたいた。
「いってぇ! 何しやがんだ!」
二人が顔を上げると、そこにいたのは髪の長い女子生徒だった。
「寮長!」
「如月さん」
涼の頭をはたいて登場した人物、それはこの女子寮の長を務める如月雪乃だった。深刻な面持ちで、眉間にしわを寄せて二人を見下ろしている。
「ちょっと、片岡さんに頼みたいことがありますの」
不機嫌そうに腕を組んだその姿に、麻穂はすぐに食器を置いた。
しかし涼は、相手が雪乃だと分かると再び箸を動かし始めた。
「で、何の用だよ?」
「食べながら喋らないで下さる?!」
雪乃が強引に食器を取り上げると、そこでやっと涼が彼女に向き直る。
「ったく、なんだよ」
雪乃はコホンと咳払いをしてから声を潜めた。
「あなたがた、猫を見てないかしら?」
「猫ぉ?!」
涼が突然大きな声を出したので、雪乃はその口を慌てて手で塞いだ。
「わたくしが声を潜めているというのに、大声を出さないで下さる?!」
いらだつ雪乃に、「わりぃ」と頭をかく涼。二人を交互に見つめながら、麻穂は状況を見守っていた。
「実は、猫が逃げ出したのよ」
雪乃が顔を近づけて二人に言う。
涼は片眉をあげて、わざとらしく尋ねた。
「寮長。この寮は猫なんて飼ってよかったんだっけ?」
その質問に雪乃はため息をつく。
「4組の佐倉さんと吉沢さんの部屋。捨てられた子猫を拾ってしまったというので、特例で猫を飼うことを認めていたの」
「へー、特例ね」
嫌味っぽく目を細めて言う涼を、雪乃はキッと睨み付けて、
「わたくしの裁量よ。悪い?」
と言い放った。
涼は手元にあった水を一杯のみほすと、雪乃にストレートに訊いた。
「別にー。それで、あたしたちに何をしてほしいのさ」
「門限まであと20分、ちょっと外を見てきてほしいの」
雪乃の言葉に、麻穂はすっかり暗くなった窓からの景色をちらりと見やった。危ないのではないかと思ったが、涼は「いいよ」と快諾した。
「その代わり、一回、門限破りを見逃してくれよな」
「なっ、何をおっしゃってるの?!」
「報酬もなしに協力なんて出来ないよなぁ、麻穂?」
そこで自分に話をふられてもと困り、麻穂はハイともイイエとももつかない言葉で返事を濁した。
「あなたは人でなしですわ!」
「そんな人でなしに頼みごとする方が悪いだろ」
「だって、あなたくらいしか夜道を歩かせても平気そうな女子がいないんですもの」
さらりと言ってのける雪乃。それがさも当然かのように言っている。
涼は苦笑するしかない。
「分かったよ、晩飯食ってからな」
そう言うと涼は雪乃から食器を取り返して、急いでご飯をかきこみだした。
食事を終えると、涼は雪乃と共に急いで寮の玄関に向かった。涼は下駄箱から自分のスニーカーを取り出す。
そこに同じく急いで食事を終えて追いかけてきた麻穂が慌てて追いつき、二人にはっきりと告げた。
「涼、如月さん。私も探すのを手伝います」
靴に履き替えた雪乃は目を丸くした。
「手伝ってくださるのは嬉しいけれど、吉瀬さんはまだこの土地には明るくないんじゃなくって?」
雪乃とは別の観点で、涼が麻穂をたしなめる。
「いや、つーかこんな夜に女の子がでかけるのは危ないだろ」
「ちょっと、わたくしだって探しにいきますのよ!」
雪乃の言葉を全く聞かず、涼は麻穂を押しとどめていた。
「涼だって女の子じゃない。私も皆の力になりたい」
意志の強い瞳で麻穂が強くそう言うと、涼は困ったように押し黙ってしまう。髪をかきあげて、雪乃の方を見た。
「本人が協力したいといってるんですし、いいんじゃなくって」
「そう、か。とにかく気をつけろよ」
まだ心配が拭えないのか、涼は麻穂の両肩に手を置いて、重々しくそう言った。
「ありがとう。私も頑張って探すね!」
麻穂は急いで下駄箱から靴を持ち出して、二人の後を追った。
寮を出ると、辺りは街頭も少なく暗闇に支配されていた。民家の明かりが妙に頼もしく思えたのは気のせいではないだろう。
寮を出てすぐ、三叉路があった。三人は顔を見合わせて頷いた。
「猫は金の鈴のついた赤い首輪をしていて、アメリカンショートヘアのような柄。まだ子猫ですわ」
「分かった。麻穂、気をつけろよ」
雪乃の言葉に涼が頷いて、麻穂にも声をかける。
「うん、大丈夫」
麻穂が返事をするのを確認して、雪乃が言った。
「さあ、門限が近いですわ」
三人はそれぞれの方向に駆け出した。
麻穂は一人、薄暗い道を駆けた。学校とは反対の方向に走っていく。
道の左右をよく見渡しながら、猫を探す。
しばらくすると暗闇に目が慣れてきて、物がよく認識できるようになった。それでも猫らしき姿は一匹も見つけられず、もう少し遠くまで足をのばそうとしていたときのことだった。
路地から人の話し声が聞こえた。
「こんな猫一匹ぐらいいいじゃねえか、お前何様のつもりだよ……!」
荒っぽい男性の声。
猫という言葉が耳について、麻穂は足音を消すように努めながら路地に近づいた。
そっと頭を出して路地をうかがった瞬間、聞いたことも無いようなくぐもった音が、夜の町に響いた。
麻穂の視界に飛び込んできた光景。それは、背の高い少年がしゃがみこんだ少年に向かって、勢いよく拳を振り下ろしているところだった。
「うわっ!」
殴られた少年の隣にいたもう一人の少年が、「この野郎!」と言って大きく振り被り、背の高い少年に殴りかかる。
背の高い少年は、その拳を右手の緩やかな動きのみで受け流し、生じた隙で少年に回し蹴りを食らわせた。そして余裕たっぷりにに言い放つ。
「ふーん、反撃するんだ。だったらこっちも手加減しないけど」
遭遇してしまった暴力の現場に、麻穂は絶句していた。気配を消すのも忘れて、半ば腰が抜けていた。体格からして恐らく三人の少年は麻穂と年齢がそう変わらない。そんな身近な存在の非日常的なシーンを見て、ショックを隠せなかった。
「に、にげるぞっ!」
二人組みの少年は麻穂にも気づかず、路地を抜け出し走り去ってしまった。
麻穂はその場から動けなくなっていた。逃げなくてはと思うのに、あまりの衝撃と恐怖で足が動かないのだ。
そして残った一人の背の高い少年が、麻穂の方を振り返る。
「君、誰?」
温度を持たない冷たい声が、夜の空気にこだました。少年が麻穂へ歩み寄ってくる。
麻穂は絶体絶命を覚悟し、ぎゅっと拳を握った。
二人の距離が1メートルくらいに詰まったところで、麻穂はその少年の顔を認めた。
「高時、祐真?」
麻穂は彼の名を口にしていた。
相手は一瞬ぴくっと体を震わせて、
「何で僕の名前を?」
と、さも親切そうな穏やかな口調でたずねてきた。
麻穂は相手が高時祐真だと分かると、キッと睨みつけた。
昼間、音楽室からの帰りに目撃した好青年・高時 祐真。学年中の女子からの人気を誇るという彼に、麻穂は何か理由のありそうな感情を抱いているようだった。
「さ、最低よ! 暴力漢!」
麻穂の非難の言葉に然程動揺は見せず、すぐ近くまで来ると彼女を見下ろして口を開いた。
「君、見たことない顔だけど、杉浦学園の子? だとしたらちょっと困るんだけどな」
部屋着のまま外に出てきてしまったので、服装で判別がつかないようだった。麻穂はただ黙って彼をきつく見上げていた。
「あれ? よく見ると君可愛いね」
祐真が薄い微笑みを浮かべて麻穂に手を伸ばしてきた時だった。
「麻穂ー!」
「涼……!」
麻穂を探す涼の声が、夜の住宅街に響いていた。
「涼? 片岡 涼のこと? じゃあ君は杉浦学園の人間ってこと?」
祐真は伸ばした腕を引っ込めて、思案するように顎に手を添えた。
涼は学園でも知り合いの多い有名人だ。涼と知り合いだと分かれば、杉浦学園の人間だとばれてしまっても仕方がないだろう。
「麻穂どこだ?!」
「涼ー!」
近づいてくる涼の声に、麻穂は一生懸命声を振り絞って応えた。
祐真はやれやれと肩をすくめて、
「じゃあね、マホちゃん」
と、麻穂の肩をぽんと叩いてから、女子寮とは逆方向に足早に去って行った。
麻穂がその後姿を警戒しながら見送っていた時だった。
ニャーオ。
か細いながらも、猫の鳴き声が聞こえた。
麻穂はそろそろと足をそちらに進める。路地の奥は行き止まりになっていて、そこに針金のようなものが絡まった猫が一匹横たわり、まとわりつくものから逃れようと必死に体をくねらせていた。目をこらして見てみると、金の鈴のついた赤い首輪をしており、柄も条件と合致していた。麻穂は恐る恐る、暴れる猫に手を伸ばした。
「麻穂!」
そこに涼が駆けつけた。
見慣れたジャージ姿に長い髪をなびかせた涼が現われて、麻穂はほっとしてしまう。
「お前、いつまで経っても帰ってこねえから、心配したんだぞ」
「ごめんなさい。涼、猫がいた!」
たしなめる涼に、麻穂は声を張った。
「マジか!」
涼は走り回って探していたのか額の汗を拭って、麻穂の手元を覗き込んだ。
「ひでえ、悪戯されたんだな」
涼がかみつかれないよう多少強引に猫を押さえて、絡まった針金を解いていく。
「寮に戻ってペンチで切ったほうがいいんじゃない?」
麻穂が提案するも、涼は首を横に振った。
「いや。猫の飼い主の奴らが、こんな姿見たらショックを受けるだろ」
「そっか……」
自分が至らなかった涼の配慮に、麻穂は心を打たれた。そして涼を手伝った。
そして手伝いながら、もしかしたらさっき祐真が暴行した二人の少年は、この猫に悪戯をして遊んでいたのではないかという可能性を思いついた。それを制止するために暴力という手段に出たのでは。反射的に彼を責めてしまった麻穂は、一瞬申し訳ないことをしてしまったかと思ったが「いいや」と思い直す。どんな時でも暴力は悪いこと。それに好青年とは名ばかりのとんでもないナンパな奴だったし、と麻穂は自分に言い聞かせた。
「よし、これでいいだろ。麻穂、猫抱いてってくれよ」
「う、うん」
人慣れしている猫のようで、簡単に抱くことが出来た。
そしてすぐに雪乃と合流し、三人は門限ギリギリで寮に戻った。