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文化祭が終わり、のんびりとした日々が戻ってくる。早朝から放課後、休日にいたるまで演劇の練習をしていたクラスメイトたちは、すっかり燃え尽きて気が抜けている。
それでも時間は進む。文化祭が終わってすぐ、テスト期間が迫りつつある。テスト前につき部活動などの課外活動が中止になっていた。
そんな、ぼーっとしていたいのに気を引き締めなくてはいけない、気持ちが体についていかない時期。
麻穂は次の体育の授業のために教室で着替えていた。麻穂のクラスでは女子が教室で着替え、男子が廊下に出て着替えるのが暗黙のルールになっていた。
「ああ、いやだなぁ」
麻穂は自分の心の言葉が、勝手に口から出てしまったのかと思った。
しかし自分は発言していない。それは周りで着替える女子生徒たちから口々に漏れていた。
「ほんっとに嫌。他の競技を倍やってもいいから、持久走だけはやりたくないわ。教師も一緒に走ってみなさいよね」
クラスの女子生徒たちがみな、暗い表情をして呪詛を吐いている。
麻穂たちのクラスの体育の今の課題は持久走。持久走が好きという人を、麻穂は見たことがない。みなが一様に嫌がる競技の一つだ。
そして多くの例にもれず麻穂も持久走が大の苦手で、数日前から憂鬱になってしまうくらいだ。
深いため息と共に教室を出ると、廊下でも男子生徒たちが愚痴をこぼしていた。
「嫌だ嫌だって言ってもさ、女子は4キロっしょ? なんで男子は5キロなんだよ。15歳ぐらいじゃそんなに体格差ないでしょ」
そう口にしている男子生徒は、麻穂とそう背が変わらないくらいの小柄である。そして偶然視線が合ってしまった麻穂に、苦笑いを浮かべた。
「いや、その、吉瀬さんはちっちゃくて細っこいからね……4キロも走らせたら可哀想だと思うよ」
女子の持久走をボロクソに言っていたのを聞かれてしまったので、フォローに必死のようだった。
「でもやっぱり、男子の5キロは大変だと思うよ。1キロも違うんだもの。お互い頑張ろうね」
麻穂が言葉を返すと、同じく愚痴をこぼしていた男子たちも「やるしかないよねぇ」とため息まじりに同意する。
しかしその中で、男子生徒の一人が急に声を張った。
「俺たちの大変さを分かってくれてありがとなぁ、吉瀬さん。ただ、俺たちが納得いかないのは……片岡! お前が4キロしか走らないってことだ!」
大声にびっくりして麻穂が振り返ると、後ろにはいつものようにトイレの個室で着替えを済ませてきた涼が立っていた。
「これから疲れるっつーのに、デカい声出すなよ」
涼が面倒臭そうに呆れた表情で返す。
学校指定ジャージに身を包んだ彼は、部屋着兼寝巻きのジャージを着用している時とは違い、キリッとして見えた。ジャージの腕と足を途中までまくり、髪は結ばずにいるものの、体格のよさが垣間見える。男女同じデザインのジャージなので、男子にまざると長い髪がなければ男に見えてしまうだろう。
「片岡はマジで男子と一緒に5キロ走れよ! 自主的に1キロ追加しろ!」
「女に向かってその言い草はないだろ」
言い返す涼も、これからの持久走に備えてなのか省エネ対応で、テンプレートの反論文を述べるばかりだ。
「片岡は成長期いつ終わるんだよ! そんなデカいナリで、こんな小柄な吉瀬さんと同じ距離しか走らないっておかしいっしょ!」
ヒートアップする彼の熱弁を、涼は面倒くさそうに聞き流している。
聞いていられなくなった麻穂がフォローに入った。
「そんなこと言ったら良くないよ。ほら、涼は背が高いっていうだけで、ほかは普通の女の子と変わらな……」
「吉瀬さんは転校生だから知らないかもしれないけど、片岡はヤバイんだって!」
麻穂の言葉をさえぎり、別の男子生徒までもが口を挟んでくる。
やばい、と言い飾られた涼を、麻穂はちらりと見上げた。
「中等部一年次の一番最初の校内スポーツテストで、上級生女子もブチ抜きの一位! その時の記録はいまだ破られてない」
麻穂が涼を唖然とした顔で見上げる。
記録がすごいということに対して驚いているのではなく、何故手加減しなかったのかということに関して呆れているのだ。
責めるような麻穂の視線に耐え兼ねて、涼が彼女にだけ聞こえるような小声で言い訳をする。
「入学したばっかで、女子がどのくらい運動できるのかなんて分からなかったんだよ」
そしてまた男子生徒は続ける。
「体育祭の学年混合リレーでは、毎年選抜選手入り。しかも男子を差し置いて一年次からずっとアンカー」
また麻穂に見上げられて、涼はもごもごと言い訳を口にする。
「その……毎年、チームの団長が応援団引き連れて頭下げに来るんだよ……」
「学年対抗球技大会では、三年常勝の伝統を崩して一、二年を優勝に導いた立役者だったし」
「なんか園山が毎年ほかの教師連中と勝負してるらしくて……『もし負けたら二度と実家に帰れないと思え』ってすげえ剣幕で……」
「剣道は強すぎて剣道部の男子を負かしてたし、マット運動では男子が誰も出来なかったバク転をクラスでただ一人決めてたし、ほんっとにメチャクチャなんだよ、片岡は! だから俺たちと同じ距離を走らないのが納得いかないんだ!」
麻穂が涼を見つめる目が、もはや驚きや呆れを通りこして冷ややかになる。
涼ももう言い訳する理由がないようだった。
その後、男子生徒たちと別れ、二人は校庭へ移動する。
まるで処刑台に連行される囚人のように、周りのクラスメイトたちの顔色は悪く、足取りは重い。
そんな中、麻穂は涼に唇を尖らせて言った。
「もうっ、ほんとにちゃんと隠すつもりあるの?」
涼は説明に困って眉間にしわを寄せる。
「いや、なんつーかその……勉強と同じでさ、できるのにできないふりするのって、なかなか難しいしつらいんだよ……」
涼の言い訳に、麻穂は無闇に責めることもできなかった。
彼の身体能力が非常に優れていることはよくわかっている。本当は部活動に打ち込んだりしたいだろうに、正体を隠しているせいで何も参加できず力を発揮できない。そうなるとこういった校内のイベント事に張り切ってしまうのも道理かもしれない。しかし、正体を隠している身として一時の気のゆるみに流されて良いものかとも思う。
だが、それは麻穂が悩むよりもっと彼が葛藤していることだろうと思ったので、それ以上何も言わなかった。
その時何やら、玄関でにわかに明るい声が上がった。
暗い顔をして校庭に向かう一行に、希望の声が届いたのだ。
「体育は自習に変更!」
周囲の生徒たちが飛び上がる勢いで狂喜乱舞するのに対し、崩れ落ちる勢いでうなだれる涼。
「せっかく着替えたのに……」
涼にとって着替えは、いちいちトイレの個室でひやひやしなければならない面倒なこと。やるならやるで最後までやってほしかったし、自習とわかっていたなら最初から着替えなかったのに、と。
しかし麻穂はそんなことに気づきもせず、他の生徒に混じって歓喜していた。
体育委員の指示で男女ともに体育館に移動する。皆の顔は一様に明るい。最初は落胆していた涼も、結局持久走はしないにこしたことはないと気持ちを切り替えた。
体育館は半面を別のクラスが使っていた。大きな体育館とはいえ、2クラス合同の授業を男女それぞれ行うのは難しそうな広さだ。
「お前ら遅いぞ、チャイムは鳴ってる」
そこで彼らを出迎えたのは、麻穂たちの担任である園山だった。
「急な出張で体育科の先生がこられなくなったので、今回は急遽男女合同の自習とする。自習監督は私だ。適当に交代してバスケをしろ」
姿はパンツスーツに身を包んだ細身の女性なのに、振る舞いは体育教官そのものだった。
麻穂は、それなら自分が試合に出なくてもよいかもしれない、と内心で喜んだ。実際、自習の時間に自ら進んで試合に出たいというのは、本当に運動が好きな人たちくらいだ。
適当に準備運動を終えると、体育委員が適当にチーム分けをはじめた。
流れで男子からになったため、男子の試合が終わるまで応援という名目で壁際にたまりだす女子。涼と麻穂もその例外に漏れず、壁にもたれて駄弁っていた。
その早速始まったダラダラした様子に、園山が活を入れる。
「控えのやつら、ダラダラするな。しっかり応援しろ!」
そう言われても、「はぁ~い」「わかってまぁ~す」と間の抜けた返事をするばかり。
園山はニヤリと口元にいやらしい笑みを浮かべた。
「そうだな、じゃあこの試合に勝ったクラスは、男女共に次の持久走を免除してやる」
その宣言の直後から、待機している女子生徒及び男子生徒たちが飛び上がって一斉に声を張り上げる。
「頑張れ一組! 負けたら承知しないよ」
「絶対勝て、二組! もし負けたらどうなるかわかってんだろうな」
それはもう応援というより恐喝に近づいてきている。
園山は「それでいいんだ」と満足げ、というよりは、生徒をもてあそんで楽しんでいる悪い表情をしている。
みんなの必死な本音が見え隠れする応援の中、既に選ばれてしまった選手たちは、やる気を出すというよりビクついている。
「俺たち、負けたら殺されるかもしれないな……」
「リアルな予想をすると、昼飯は食べられないだろうな……」
口々に弱音を吐く、不運にも選ばれてしまった男子たち。
一組対麻穂たちの二組。
先に行動したのは一組だった。一組で試合のメンバーに入っていたバスケ部部長が、てきぱき指示を出していく。男子の中でもずば抜けて背の高い、真面目そうな仏頂面の男。
「文化部で運動に自信がないやつ、ほかのバスケ部と変わって。あと、サッカー部のあいつも呼んできて。俺の指示通りやれば、間違いないから」
容赦なくメンバーを入れ替えて、腕に覚えのあるメンバーで固めようとしている。
この空間はある意味、体育祭よりも盛り上がりを見せている。それだけ持久走免除のご褒美は大きかった。
一組の動きを察知して、二組の男子生徒たちもクラスで固まって作戦を練り始める。
「うちのクラスの男子の中には、バスケ部がいないんだよな……。昔バスケやってた奴とかいる?」
「俺、やってたけど全っ然うまくない。野球だったら少しは力になれたんだけどな……」
「今年の球技大会でバスケに出てた男子は誰だった? かなりいいとこまで行ったよな。そのメンバーを中心にチームを編成するのはどうだ?」
「ええ、俺一応メンバーだったけど、出たくないよ。すげえ強かったのは女子だけで、むしろ男子は足引っ張ってたし……」
メンバー編成に頭を悩ます男子生徒たちの輪に首をつっこんで、担任である園山が冷やかすように笑う。
「一組、本気で勝ちにきてるなぁ。お前ら大丈夫かぁ?」
「先生が変なこと言うから、俺たちプレッシャーで死にそうですよ!」
今にも半泣きになりそうな選抜メンバーたち。
その時ふと、選手の一人がつぶやいた。
「あれ? そういえば、どうして今年の球技大会で女子だけがすごく強かったんだっけ……? 女子バスケ部とか運動部に所属してる生徒は、運営側から出場できる試合数に制限がかかってたはずだから、一人が何試合も出場したりはできないと思うんだけど……」
「そりゃあ、ウチのクラスにはあの女子がいるから……」
と、そのつぶやきに対しもう一人の選手が、当たり前とばかりに言葉を返そうとした時である。セリフは途切れ、皆が顔を見合わせた。
「やべえ、俺たち超いいこと思いついたな」
そして彼らは体育館壁際の女子のたまりに声を張った。
「片岡! お前入ってくれ!」
思わぬ指名に、一組も二組もざわついた。