28
麻穂は涼が母親を校門くらいまでは見送るものと思っていた。
しかし「一緒にいるところを誰かに見られると面倒だから」ともっともらしい理由をつけて、職員棟玄関まで見送るにとどめた。
あかりの乏しい薄闇の中、二人はぬるい夜風に吹かれていた。
母親の姿が見えなくなるまで黙っていた涼が、首元のボタンを外しネクタイをゆるめながら口を開いた。
「麻穂はどうしてこんなところに?」
「中等部校舎の屋上から職員棟を見たら、涼の姿が見えたの」
「マジかよ、あんな遠くからよくわかったな」
「いや、自信は持てなかったんだけど。行ってみようかなと思って」
「ふうん。自信は持てなかったけど行ってみようかなと思って、鍵かかってるとこを強引に開けて忍び込んできたんだな」
涼はなんでもお見通しといった風に、腰を曲げて麻穂の顔を覗き込んだ。長い髪がさらりと肩から滑り落ちる。
驚いた麻穂は目を見開いたまま、何も言えずに彼を見つめ返す。
次第に涼の顔が、不機嫌そうな表情に変わっていく。
「え、えへへ。バレちゃった……」
麻穂は彼が怒っている様子を察して、わざとらしいまでの作り笑いをするしかなかった。
「玄関に施錠したのは俺だ。ここはガタがきてるから、鍵をかけても少し隙間が開いちまう。そんなところに手を突っ込んで、わざわざ立ち入り禁止の札があるところに入ってくるような奴はいないと思ってたんだけど」
どうやら涼は本当に怒っているようだ。麻穂は怖くなって両手を胸の上に重ねた。
「ごめんなさい、決まりごとを破って」
「俺が言いたいのはそういうことじゃなくて、ほら」
涼は麻穂の手を強引に自分のほうに引き寄せた。
「手にたくさんサビのあとがついてる。強く扉に押し付けて、手首をねじこんだな。あそこはあんまりちゃんと掃除しないから、いつもさびてんだよ」
校舎の敷地に点々と並ぶ電灯の一つに照らされ、麻穂の白い肌に赤茶色い粉が描く筋が見える。
「あ、気付かなかった……」
あの時は自分でもわけが分からないくらい夢中になっていたから、痛みにも気づかなかったのかもしれない。
「まあ暗かったからな。人に見られないように、わざと電気も消してたし」
そう言って涼は、近くの水飲み場で自分のハンカチを濡らして彼女の手を拭いてやる。
「い、いいよ。汚いから自分でやる」
恥ずかしがる麻穂が手を引っ込めようとするのを、涼は握力を強めて逃げられないようにする。
男の彼が本気を出したら力の面では敵わない。それはお互い分かっていることだった。
「涼……」
「俺は怒ってんの。決まりを破ったことにじゃなくて、麻穂がまた俺の知らないところで無茶してることに」
真剣な涼の瞳にとらえられて、麻穂は背筋がゾクッとしたような気がした。
呆れながらも面倒くさがりながらも結局いつも優しい彼が、怒っている。分かりやすく怒っているならまだいい。涼は冷ややかな態度で声を荒げることもない。本気で怒っているのだ。
「この間も俺に黙って男子寮に忍び込んで、しかも門限破って。こそこそ何をしてるんだ?」
涼は話しながらも手を止めなかった。すっかりサビの跡や汚れは取れ、麻穂の手が清さを取り戻す。
彼女の手を自由にしてやってから、また涼は続けた。
「これも今回は汚れただけだったけど、怪我したりするかもしれないだろ。なんでそんな無茶なことをするんだよ」
妙に説教臭く言ってくる涼に、麻穂はむっとなって言い返した。
「私は涼が心配なの。私のこと危ない危ないっていうけど、私からしたら涼の方が散々危ないことしてるよ。私、いつもひやひやしてるんだから。今回お母さんがくることだって、きっと前から分かってたんでしょう? どうして私に何も言わずに……」
麻穂がその先の言葉を続けることが出来なかったのは、視線を上げた先に、予想もしない彼の悲しげな表情があったからだった。
「もう俺は、麻穂に俺の秘密について話したくないんだよ。そもそも俺の正体を話したせいで、今お前を苦しめることになってるんだ」
涼の言葉の裏にはある日の記憶があった。演劇の練習で、吉田に男じゃないのかと詰め寄られたとき。自分を追ってきた麻穂と中庭で話して、彼女が悲しそうな顔をするのは彼女が自分の正体を知っているせいだと痛感した。
「これ以上麻穂に迷惑をかけたくない、つらい思いもさせたくない」
電灯のライティングだけで浮かび上がる思いつめた涼の顔が、麻穂には知らない人のもののように見えた。
涼が遠い。昼間一緒に劇でダンスをして、自分を保健室まで抱えていってくれた人とはまったくの別人のよう。あの時微笑みかけてくれた優しい顔の、面影一つ残していない。
午後、一人きりでつまらなかったのは過ごす相手がいなかったからじゃない。誰でもない涼がいなかったから。彼の居ない隣が寂しくて、ずっと涼のことを考えていた。
だからこんなところまで夢中で追いかけてしまったのに。
それなのに、この涼の冷たさと言ったら。
色々なことを同時に考え出す脳が混乱してきて、すべてがプツンと切れる。
麻穂は口を大きく開いた。
「涼の……ばかっ!」
涙が溢れそうになるのをまばたきでごまかしながら、彼に怒鳴った。
怒鳴られた涼は驚いて目を丸くしてしまった。彼女が自分に対してこんなに感情的に声を荒げたのは、出会ってから初めてのことだった。
「迷惑だなんて思ってない! 私がつらい思いしてるだなんて誰が言ったの? 私は言ってない。つらくなんてない、苦しくなんてない!」
「麻穂……」
怒鳴られたことにも、聞いたことのない麻穂の大声にもびっくりしたが、それよりも彼女の言葉に頭を殴られたような衝撃があった。
今まで涼は一人で悩んでいたけれど、彼女から何を言われたわけでもないのだ。
「それにね……私は前の学校にいたとき、こんなことする子じゃなかったんだよ? 今みたいに大声出すのも、ヒヤヒヤするような大胆な行動するのも、みんなみんな涼の影響なんだから。迷惑だとしても構わないよ。もっと迷惑かけてほしいとさえ思ってるんだから」
彼に笑ってみせようとしたが、うまく笑えなかった。無理に顔を作ると、たまった涙がこぼれてしまいそうで。
「お願い。勝手に離れて行かないでよ……」
自分を見上げてそう言う彼女の言葉に、涼は心臓を強くわしづかみにされたような感覚がした。
(お前にそんなこと言われたら、俺は……)
その時、涼の思考を強制的に停止させる出来事があった。
ヒュウと口笛のような音が鳴った刹那、爆音をあげて頭上が明るくなった。
「うわっ?!」
「わっ、花火だ!」
二人はほぼ同時に顔をあげた。
いつも見慣れた学園の空に、光が無数に弧を描いている。白い煙がすぐにそれをおおったと思ったら、今度は複数の音がこだまする。立地上校舎が邪魔をして花火の全体は見えないものの、ここからでも十分に見られるものだった。
連発は打ち上げ花火の醍醐味の一つでもあるが、なんの心の準備もしていなかった二人にとってはただの突然の爆音。
特に深く考え事をしていた涼は、心臓が止まるかと思うくらい驚いた。
「ったく、びっくりしたぁ! もう七時なのか……。始める前に放送くらい入れろよ、心臓に悪い……」
涼ができる限り大きな声を出しているのに、花火の音にほとんどかき消されてしまう。
「すごいね! 毎年こんなに何発も大きな花火を打ち上げるの?」
麻穂は背の高い涼の腕を引いて腰を曲げさせ、自分に彼の耳を寄せて大声で伝える。
しかし彼は「なにー?!」と聞き返してきてくる。再び大声で伝えるも、「きーこーえーなーいー!」と口の動きとジェスチャーを交えてもう一度聞いてくる。
麻穂はなんだかおかしくなってきて、吹き出してしまった。そこからは止まらなくなって、お腹をかかえて笑い出してしまった。
二人がこんなに大声で叫んでいるのに、肝心の内容が何も通じない。言い争っている私たちみたいだ、と麻穂は思った。相手のことを思って主張しているも、肝心の目の前にいる相手と通じ合えない。
彼女が大笑いしている理由が涼にはさっぱりわからなかったが、聞き返しているうちに涼もなんだかおかしくなってきてしまって、つられるように笑い出してしまった。
一学校の文化祭のおまけの打ち上げ花火だというのに、絶え間なく連発される花火。流石は私立の財力というべきか。
次の連発の準備に入ったのか、花火の連発が一旦収まる。
ようやく訪れた静寂に、涼は麻穂に尋ねた。
「そういや、クラスの連中と花火見なくてよかったのか? 誘われてたんじゃないのか?」
「ううん、誘われてたのは如月さんなの。なんかジンクスがあるんだって」
「ジンクス?」
なんだそれは、と片眉を上げる涼。
こういった色恋話に全く興味がなさそうな涼は、ジンクスなど知らなくて当然だろうなと麻穂は思った。
「そうなの。杉浦学園の伝統のジンクスらしいんだけど、後夜祭の花火を一緒に見た男女は……あっ」
麻穂は説明しようとして、思わず途中で止まってしまう。
「なんだよ?」
涼は急に説明をやめてしまった麻穂の顔を覗き込もうとしたが、彼女は顔を両手でおおってしまっていた。
「や、やっぱりなんでもない、忘れちゃった……」
その時また花火の連発が始まる。
今度は覚悟ができていた二人は、先ほどよりは驚かなかった。
麻穂はクラスメイトから説明されたジンクスを心の中で思い出していた。
(「吉瀬さん転校してきたばっかりだから知らないよね。うちの学校は後夜祭でデカイ花火をたくさん打ち上げるんだ。それに関しての甘いジンクスがあって、花火を一緒に見た男女は近いうちに結ばれるっていう……」)
そしてその状況はまさに、今だったのだ。
涼と麻穂が二人きりで花火を見上げている、この状況。
麻穂はジンクスを盲信したりはしないが、それをここで彼に言ってしまったらまるで自分がそれを意識しているかのように聞こえてしまうではないか。
恥ずかしくて顔をおおった指ごしに、花火とそれを見上げている涼が見えた。
色とりどりの花火に照らされる彼の横顔は相変わらず整っている。男らしい振る舞いや女の中では浮く長身、それらをフォロー出来る綺麗な顔。
出会ったばかりの頃に彼にいだいていた印象とは、かなり変わった。最初はこれだけ整った女顔だったら確かに皆を欺き女に見えるだろうと思っていた。
でも、今は違う。
彼はどう見ても男の子にしか見えない。たとえ、どんな格好をしていても。
花火が再び落ち着く。今度は連発ではなく、ゆっくり一発ずつ打ち上がる。
打ち上がる時の爆音を避けて涼が口を開いた。
「この花火の時を狙って、母さんにここにきてもらったんだ」
突然話を切り出されて、麻穂は彼に向き直った。
「最近俺、園山にしょっちゅう呼び出されてたろ。母さんが会いに来たがってるっていうことだったんだけど、俺は反対してたんだ。誰に見られるかもわからないし、母さんあの性格だからボロを出すかもしれないし」
実家も北海道と遠く、涼いわく貧乏な方だという家庭の両親が、そうそう東京に来ることも出来ないだろう。それに涼も東京で正体を隠して暮らしている限りは、気を抜いて長時間会うことはできない。そして容姿的な事情で涼が地元に帰ることが出来ないのも明白だった。
「でも、どうしても会いたいって言われて。俺も会いたくないって言ったら嘘になるし」
「だから、文化祭の時に?」
「ああ。一般客に混じって入場してもらって、職員棟の応接間で落ち合うことにしたんだ。理事長も協力してくれた。帰りは少しずらして、花火の時にこっそり帰ってもらおうと思ったんだ。花火打ち上げるって時に、こんなとこに来る奴はいないだろ?」
麻穂が話に聞き入っているあいだに、花火はまた小休止を挟み、無音になっていた。
説明を終えると、涼は麻穂の顔を見て優しく微笑んだ。
「きちんと話した。これで大丈夫か?」
昼間、保健室に抱えていってくれた時の柔らかい微笑みと同じだった。麻穂は彼の深い瞳をじっと見つめてしまう。
麻穂はさっき涼と言い合っていたとき、母親が来ることが前もってわかっていたのになぜ自分に言ってくれなかったの、と彼を責めた。もっと話して、迷惑がかかったって構わない、と。
彼はそれを説明してくれたのだった。
「うん、大丈夫。ありがとう」
彼の気持ちが嬉しいはずなのに、なぜか目頭がじわっと熱くなるのを感じた。涙をこぼさないように我慢しても、まつげが震えてしまう。
「もう、可能な限り黙って行動しない」
穏やかな声でそう語る涼の手が、麻穂の頬にのびる。
「だから、そんな顔するなよ」
彼の親指が、麻穂の頬の水滴をそっと拭った。