27
夕方になり来校者の退場時刻となった。
校門付近は保護者や友人たちとの別れを惜しむ生徒たちであふれかえり、文化祭実行委員や各学年の生徒会が総出で整理にあたっていた。
それが過ぎると、生徒たちだけの内輪のお楽しみが始まる。
『本日七時より、毎年恒例打ち上げ花火!』
至る所に貼られたポスターに、でかでかと太字で書かれている。
麻穂は騒がしくなった校門付近を避けて、クラスのみんなが集まるといっていた中等部校舎の屋上に向かうことにした。もしかしたら涼もそこにいるかもしれないと思ってのことだった。
四階建てとはいえ建物自体の背が高いため、一階から一気にのぼるとマラソン並みに息が荒くなる。生徒の数が増えてきて、みんなここから見るのを狙っているんだなと麻穂は思った。この校舎は全校舎の中でも一番花火打ち上げ場所に近い。
体力のない麻穂がゆっくりのぼってようやく屋上にたどり着くと、普段の殺風景さとは180度違った人ごみだった。クラスメイトたちが角の方に固まっているのを見つけて駆け寄った。
しかしそこにも涼の姿はなかった。
「橘さん、涼がどこに行ったか知らない?」
学級委員の橘に聞くも分からないと言う。麻穂は一縷の望みを託してキョロキョロと辺りを見回してみた。
するとある場所で、見慣れたロングヘアを一瞬見かけたような気がした。
(あれ?)
麻穂がその姿に確信を持てなかったのは、ちらりとしか見えず遠方だったから。それに加えて、花火が打ち上げられる場所とは、麻穂が今いる中等部校舎を挟んで正反対の場所にある建物・職員棟の内階段で見かけたからだ。
辺りが夕闇に落ちる中、じっと目を凝らす。周りが暗くなったため、校舎内の電気が点灯して見やすいのがありがたかった。
麻穂は彼がどうしてそこにいるのかもわからなかったし、それが彼だという確信も持てなかったけれど、足が勝手に動き出していた。
クラスメイトたちの「どこいくの?! 花火始まっちゃうよ!」という引き止めるような声が聞こえたが、麻穂は振り返らなかった。
のぼってくる生徒たちを避けながら、四階を足早にかけ降りる。
玄関を出ようとしたところで思わぬ相手に行く手を阻まれた。麻穂は勢いのままぶつかってしまう。
「麻穂ちゃん、どうしたの?」
その人は衝撃を受け止めようと自然と麻穂の手首をつかんでいた。相手はびっくりして彼女を見ている。
その相手とは、花火に向けて中等部校舎への入場整理をしていた祐真だった。彼は中等部生徒会長のためこの場を仕切っていたのだった。
「今から出ちゃうと、花火が上がるまでに屋上に戻れないよ」
そう言ってずらっと入口に列をなしている生徒たちを示した。
「教えてくれてありがとう。でも、行きたいところがあるの」
麻穂は彼にお礼を言ってからそう告げると、彼の脇をすり抜けた。祐真の手からするりと抜けていく細い手首。
祐真は彼女のそばにいつもいるはずの涼がいないことに気づいていた。彼女が走っているのもきっと彼絡みということも、察しがついていた。
決して速いとは言い難い速度で小さな肩を揺らして離れていく彼女の後ろ姿を見つめ、祐真は目を細めた。
麻穂は隣の職員棟へ向かった。中等部校舎が壁になり花火がほとんど見えなくなるところにわざわざ来る生徒など一人もいない。花火を諦めて早々にふけようとする生徒たちとはちらほらすれ違うも、職員棟の前には誰もいなかった。
職員棟の入口には札がかかっており、
『文化祭中の生徒及び外部者の立ち入りを禁ず』
と記されていた。
この職員棟には各校舎内にある職員室とは別に、全学年職員及び事務員の休憩室や当直室が入っている。保管しきれない紙媒体の書類などが入っている倉庫もある。さらに予備の来客用応接室や、以前に麻穂が祐真と訪ねた理事長室もこの建物の中だ。
そのため外部の人間はもちろん、生徒も特別な用事がない限りはあまり立ち入ってはいけない場所とされている。文化祭の開催中に立ち入り禁止にすることは、至極当たり前だろう。
(どうして涼は、立ち入り禁止の職員棟にいるのかしら?)
麻穂はまさか開いたりはしないだろうなと思いながら、その重い扉を押してみた。
すると、わずかではあるがドアに隙間が生じた。
(うそっ!)
麻穂はドキドキしながら、華奢な指先をドアの隙間に忍び込ませた。元々手首はかなり細い方だったが一筋縄では入らず、手を蛇のように動かしてなんとかねじ込んだ。そして指先だけで内側の鍵を開けてしまった。幼少の頃よりピアノを演奏してきたこの細い指が、まさか鍵をあけるのに役立つことになるとは思いもしなかった。
ガチャリと音を立てて開錠した瞬間、ヒヤリとして手の動きをとめた。さほど大きな音でもなかったはずなのに、キョロキョロと周りを見回して息をついてしまう。
冷静に自省する。言いつけや決まりごとを破ってこんなことをしていいのかと。
考えてみると最近の自分は、以前の自分からは想像もつかないような派手な行動ばかりしている。祐真に会いに男子寮に忍び込み、門限を過ぎてしまったことを思い返す。しかも祐真に嘘をつき、更に彼に嘘をついてほしいとまでお願いした。
前の学校にいた時、こんなことは全くしなかった。言われたことはきちんと守っていたし、規則を守らない人たちに心から疑問を抱いていた。
でも、今ならわかる。
理性という立派なレンズを通して世界を見ていても、どうしようもなく抗いがたい衝動に背中を押されてしまうことがある。何がそうさせるのかはわからないけれど、麻穂の頭に今浮かぶのは、演劇のあと自分に優しく微笑んでくれた涼の姿だった。
麻穂は扉を開いた。
鍵を閉め直し、玄関で靴を脱いだ。足音を立てないように、下駄箱に常備してあるスリッパは履かなかった。靴下のまま階段を上がっていく。
玄関以外では廊下と階段しか電気がついていなかった。それも点々とした最低限の明かり。人がいないのだから当たり前だとは思ったが、周りもすっかり日が暮れた中、あまりに不気味に感じられた。麻穂はまるで肝試しをさせられているような気分になる。
理事長室のある階へのぼろうとしたとき、上から複数の人の声がした。距離があり廊下で反響しているため何と言っているか良く聞こえなかった。
ギリギリまで近づいてみると、それは老人と、自分の親世代の女性の声であることが分かった。
「……さん、下までお送りできずすみませんなぁ」
「ご挨拶出来ただけで……うちの子の元気な姿を見られて……」
聞こえたところをつなぎ合わせると、恐らく保護者との会話。聞き覚えのある声は、場所的にも自分の祖父である杉浦学園理事長のものであると推測出来た。
別れの挨拶が終わったようで、遠慮がちに扉がしまる。
こちらに来てしまうのでは、ということに今さら気がついた麻穂。その場を動こうか否かわたわたと迷っていると、あちらからパタンとスリッパが踏み鳴らされる音がした。
「誰かいるのか」
鋭い響きを持った声。今まで聞こえてこなかった若い男のものだった。
麻穂はその台詞に縮み上がった。
(バレた!)
パタパタと足音が近づいてくる。麻穂がどうしようかと迷う間もなく、あっという間に距離を詰められた。
「……えっ?! お前、なんでこんなとこにいるんだよ」
「涼!?」
小さくなって壁に頼りなく寄りかかる麻穂を見つけたのは、珍しく制服をかっちり着込んだ涼だった。ネクタイもゆるめずきちんとしめ、ブレザーもボタンを全て留めている。
こんなきちんとした着こなしをする涼を見たのは、恐らく麻穂が入寮した初日以来。あの日も涼は理事長に面会に行っていた。
「どうして、おじいちゃ……いや、理事長先生のところに?」
麻穂が疑問を口にすると同時か、涼の背後から先程の声の主と思われる女性が近づいてきた。涼よりは背が低いものの同年代の中では長身の部類に入るだろう。
「どうしたの? あら、生徒さん?」
女性が麻穂を見つけて目を丸くする。
「あー、母さん。彼女は寮で同室の子」
軽いパニックになりかけた場を、涼が手早い説明で収める。母親の前で少し気恥ずかしそうな様子の彼が、麻穂には珍しかった。
「まあ、同じ部屋の女の子なのね」
「はじめまして、吉瀬麻穂です」
暗がりからあゆみ出て、麻穂はぺこりと頭を下げた。
「丁寧にありがとう、いつもこの子がお世話になってます」
涼の母親が頭を下げるのをみて、麻穂はまた頭を下げてしまう。
初めて見た涼の母親は、失礼ながら涼に似ていると思える部分がほとんどなかった。物腰が柔らかく、おっとりとした喋り方。細められた目元も優しげだ。きっと涼は相当な父親似なのだろうと麻穂は思った。
「今日は北海道からいらしたんですか?」
「そうなの。理事長先生のご招待でね。息子には滅多に会えないから、楽しみにしてたのよ」
と、にこやかに言ってから、涼の母親はアッと自分の口をおおった。
「母さんってばうっかり言っちゃった、『息子』って」
どうしよう、と自分の息子に助けを求める。
涼は盛大にため息をついた。
「だから俺は反対したんだよ。母さんがボロを出すかもしれないから、学園には来ない方がいいって」
そう嘆いてから、母親に改めて説明する。
「彼女は学園で唯一、俺の正体を知ってる生徒」
「そうだったの……よかったわあ」
本当に心から安心したような涼の母親と、呆れとうんざりが混ざり疲れた表情の涼。
麻穂はそんな二人を見ていて、涼がしっかり者に育った理由がなんとなく分かった気がした。
「ええと、麻穂ちゃん。うちの子こんなぶっきらぼうだけど、本当は優しい子なの。母親想いだし、お父さんに似て頼もしいし。これからも仲良くしてあげてね」
麻穂にそう話す母親の横で、頼むからもう黙ってくれ、と言わんばかりにうなだれる涼。
麻穂は彼が優しいことなどもう十分わかっている。それどころか粗野に振舞っている間だって彼は優しいし、その気になれば大人とかしこまって話すことだって出来ることも知っている。
「はい、もちろんです」
そんなことを考えていたら、返事をしながら思わず笑顔になってしまう。
「何をいきなりニヤニヤしてんだよ」
気味悪そうに涼に突っ込まれて、麻穂は思わずごまかし笑いをする。
「でも、杉浦学園にいるのももう残すところあと数カ月なのね。あとちょっとしたら毎日涼に会えるようになると思うと、母さん嬉しくて仕方ないの」
涼の母親の言葉に、一瞬場の空気が凍る。
麻穂は胸を針で刺されたように、チクリと痛みを感じた。そこから広がるモヤモヤとした何か。名前の分からない、心地の悪い感情。
涼はあと数ヶ月でいなくなってしまう。それがもうどうしようもないことなのは分かっている。女としてはごまかしきれない見た目の変化。それに、ずっと離れて暮らしている親子の絆だってある。
涼がいなくなると思うとこんなにも辛くなるのは、いつからだろう。
劇の練習期間に吉田に涼が男ではないかと疑われたとき、中庭で涼と話し彼の秘密を絶対に守り抜くと心に誓った。
無事に学園生活が終わり故郷に帰れるようになることが、彼にとって一番いいことのはずなのに。
「はい……。早く、家族みんなで暮らせるといいですね」
麻穂はなんとか明るい言葉を絞り出した。
その顔が本当はわずかも笑っていないことなど、涼にはお見通しだったというのに。