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「涼、ごめんね。舞台が終わってみんなで盛り上がってたのに」
「そんなのは別にいいんだよ、あとからいくらでも騒げるから。それより麻穂の体の方が大事だろ」
保健室へと続く人気のない渡り廊下を涼に抱えられながら、麻穂は彼とポツポツ会話していた。みんなは気づいていないかもしれないような舞台上でのミスやセリフのど忘れ。涼と話していると色んなことを笑い飛ばせる。心がふわっと軽くなる気がした。
「ミスしてたっていいんだよ、今回の劇は麻穂が一番頑張ってた。保証するよ」
涼が不意に、麻穂の顔を覗き込むようにして言う。
無意識なのだろうが、彼は珍しく柔らかく微笑んでいた。先ほどの劇で、自分が顔を近付けた彼の顔。そしてその声の響きはいつもよりとても優しく聞こえた。
そんな彼の表情を直視できず、恥ずかしさと驚きから麻穂は思わず顔をそらしてしまった。一瞬、自分の息が止まってしまったように感じた。
いつもの方がよっぽどワイルドな口調で、きつい目つきをしているはずなのに。なぜか普段より男らしく感じてしまった。
そんな彼女に、涼は不思議そうに眉根を寄せた。
「どうした?」
麻穂は赤面したまま頭を大きく左右に振るしかない。
「おい、あんま動くな。落とすぞ」
いつもの様子に戻った涼に注意されて、麻穂はおとなしくなった。
しかし、先ほど不意に見せた妙に大人びた男らしい一面に、彼を急に強く意識してしまう。
彼が自然に触れている自分の脚だとか肩だとかに、妙に力が入ってしまう。先ほど祐真とダンスをしたときと同じだった。
今更になって、彼との距離が近いことや自分の体重が重くないかなど気にしはじめてしまう。
緊張状態のまま運ばれていると、涼がふいに口を開いた。
「お前さ、もう体の感覚戻ってねぇ?」
「えっ」
「ああ、なんか軽くなった。人の体って完全に脱力してる時の方が重いんだよ」
そう言って腰を落とし、彼女をしっかり支えてやる。
涼の体の熱から離れ、麻穂はゆっくり自分の足に力を入れた。
「本当だ」
「な。さっき何故か一瞬体がこわばっただろ、多分その時に筋肉が復活したんだろうな」
「ここまで連れてきてくれたのにごめんね、ありがとう」
麻穂は自分の足で立って涼の顔を見上げた。久しぶりに彼の顔を直視して、そのままじっと見つめてしまう。
彼は低く結った髪を左胸の前に流していた。顔周りの後れ毛はしばらくウィッグにしまいこまれていたせいか、少し癖がついて乱れていた。服装は劇の衣装のままで、ひどくアンバランスさを感じる。着替えようとしていたところを慌てて駆け寄ってきてくれたのだろう、それだけ自分を心配してくれていたのだと感じる。
見つめられた涼は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「麻穂、なんでそんなにじっと見るの? なんか恥ずかしいんだけど」
「ご、ごめん。なんだか涼、前よりも男らしくなった……?」
口に出してみて、麻穂は改めてそう思う。
元々背の高い彼だが、出会った時よりも彼の背が伸びているように感じることとか。抱きかかえられた時の腕が筋肉質だったり、胸板が厚かったりすることとか。
「え……」
涼は麻穂の素直な言葉と恥らうような眼差しを受けて、心の中にすうっと風が通っていくのを感じた。
そもそも女装している身なので、男らしいと言われることが良いことであるはずがない。
しかし麻穂に言われるその言葉が、彼女に男性として認められることが、なぜだか嬉しくて仕方ない。
本当は正体を隠さないといけないのに、彼女の前では男らしく居たいと思ってしまう。彼女にだけは、男として良く思われたい。
二年半、今までなんの恥ずかしさもなかった「あたし」という一人称も、女らしく演技する振る舞いも、彼女だけには見られたくなくて。
他のどんな人よりも彼女のことが心配で、彼女が困っていたら他の誰でもなく自分が助けたいと思う。
視線はいつも自然と彼女を探し、人ごみの中でも彼女の声を聞きつけてしまう。彼女が自分の名前を呼ぶ声を、いつでも思い出すことができる。
彼女が他の男と居れば嫌な気持ちになるし、もっと彼女と一緒に居たいと思う。突然の悲劇で離れ離れになんてなりたくない。
例え二人が婚約者同士でも、祐真に麻穂をとられたくない。
今まで整理のつけられなかった曖昧な気持ちが、自分の心のあるべきところに収まっていく。
気づいたらいつも、彼女のことばかり考えていたのだ。
(ああ。俺はとっくに、麻穂のことが好きでたまらなかったんだ……)
大道具担当の生徒たちは舞台道具を片付け、演者たちは衣装を脱いだ。皆が気持ちのいい開放感に包まれていた。
そしてある程度の片付けが終わると、生徒たちは文化祭に繰り出していった。多くの生徒が朝から劇にかかりきりだったため、文化祭をほとんど楽しめていない。クラスと兼ねて部活動や有志で出店したり、イベントに参加している生徒も多数いる。
結局保健室には行かず、皆のもとへ戻った麻穂と涼。
麻穂がいつもの制服姿に戻った時、涼の姿はなかった。周りの生徒に尋ねてもどこへいったか分からないという。
一緒に文化祭をまわろうと思っていた相手がどこかにいなくなってしまい途方にくれていると、雪乃に声をかけられた。
「吉瀬さん、お疲れ様」
終始制服姿だった彼女に見た目の変化はない。それでも大舞台をやり終えた彼女は晴れやかな表情をしていた。それもそう、彼女はずっと舞台の上に出ずっぱりで、一人でナレーターをやりきったのだ。
「如月さんもお疲れ様です。ナレーション、堂々としていて素敵でした」
「ありがとう。吉瀬さんの演技もなかなかでしたわ。ダンスシーンなんて特にお上手でしたわね。高時くんとも、片岡さんとも」
そう言ってから、雪乃はふと気がついた。
「あら、そういえば片岡さんはどちらに? いつもそばにいると思っていましたわ」
「気づいたらいなくなってて……。よかったら一緒に文化祭まわりませんか?」
「ごめんなさいね、残念ながらご一緒できないんですの。わたくしのお父様とお母様が今日の舞台を見に来ていて、このあとは家族で過ごす予定ですのよ」
全寮制の学校だけあって、生徒たちはこの年齢にしては家族で過ごす時間が圧倒的に不足している。週末になると門限ぎりぎりまで実家に帰っている生徒も多い。そんな彼らは文化祭に来た家族と過ごすことをとても楽しみにしているに違いない。
「そうですか、それはご家族で過ごしたほうがいいですよね」
「吉瀬さんのご家族はいらしてませんの?」
「えっと……そうですね、父と母は仕事で来られなくて」
「あら」
雪乃が寂しさを分かち合おうとしてくれているのに対し、麻穂は嘘をついているわけではないが本当のことは言えなかった。
両親は本当に仕事で来られなかったのだが、その代わり祖父が終始舞台を見守っていた。この杉浦学園の理事長、その人だ。演劇で主役をやると伝えたら、ブルーレイ対応ハンディーカメラで録画して親戚中に配布すると言い出した、年齢よりはるかに若い感覚の持ち主である。配布に関しては麻穂が全力で拒否したのだが。
「では、わたくしはお父様とお母様を迎えに行ってきますわ。ごきげんよう」
相変わらずの優雅な微笑みを浮かべ、雪乃は去っていった。
麻穂は仕方なく一人で文化祭をぶらつくことにした。そのついでに涼を探すつもりだった。
来校者の多さもさることながら、慌ただしく走り回る生徒の姿も多数見かけた。なので一人でいること自体はさほど気にならなかった。
まず中等部校舎を回った。いつもの教室が飾り付けられ、まるで別の空間のよう。教室によっては窓やドアが全て取り払われていた。色々なところから食べ物の匂いがして、校内放送では流行りの音楽がかけられている。お化け屋敷をやっている角の教室からは、女性の叫び声がひっきりなしに聞こえてきた。
校庭に作られたイベントステージでは、放送委員たちがマイクを握って熱く叫んでいる。賑わっていたのでちらっと見に行ってみると、そこで行われていたのは『女装コンテスト』だった。
(何で男の子達はみんな、これやりたがるんだろう……)
前の学校でも文化祭でこのイベントがあった麻穂は、苦笑するしかなかった。まさか自分が本当の女装男子と知り合うことになるとは、前の学校でこのイベントを見ていた時の麻穂は思ってもいなかった。
そして男女共に歓声を上げて大騒ぎしているのを遠巻きに眺めながら、改めて思う。
(うーん、みんな微妙……涼が一番美人だわ)
自分の中にこんなに厳しい目が秘められていたとは、自分でも驚くほどである。
二年半、女の姿で周囲を欺き続けることの出来た彼。麻穂も転入してから二日間も一番近くで寝食を共にしたというのに、彼が告白してくるまでは完全に女性だと信じていた。
校庭を去り、特別教室棟へ。科学研究部のロボット対戦を見て、美術部の展示を見た。
流石有名私立、文化祭のための財力を惜しんでいない。ロボット対戦は近所の同ランクの私立四校を対戦相手に迎えて、ゲストに名のある大学教授が呼ばれていた。
美術部の展示は授業でお馴染みの水彩画だけでなく、油絵、彫刻、版画など種類が多岐に及んでいた。
すごいなぁ、と思うのだけれど。
麻穂の心は“楽しい”とは思えなかった。
(疲れたなぁ、一人じゃ全然楽しくない……)
どこを回っても涼は見つからなかった。文化祭をめぐるついでに彼を探すつもりだったのに、いつの間にか主目的は逆転していた。
(何も言わずに、どこにいっちゃったんだろう)
一人とぼとぼと廊下を歩む。
すぐにでも涼に出くわして一緒に文化祭を楽しめると、最初は気楽に考えていたのに。
奥まった通路に足を踏み入れると多少は人が少なく、視聴覚室近くの空き教室で一人休憩することにした。
自販機で買った紙パックのジュースをすすりながら、自然とため息をこぼしてしまう。周りが大騒ぎしているほど、自分の寂しさがくっきりと浮き出るものだ。
誰もいない、自分の隣。
いつもそばにいたはずの彼のことを考えながら麻穂がぼんやりと窓の外を眺めていると、予想もしない人物が彼女の名を呼んだ。




