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『ベルから取り上げた魔法の手鏡を使い、ガストンは村人たちに野獣の姿を見せました。野獣を恐れる村人を奮起させ、ガストンはなんと野獣退治へ出発してしまいます。それを止めようとしたベルは、父親と共に家に閉じ込められてしまいました』
「野獣め! このガストン様がお前を倒してやる!」
「うるさい、私に構うな……。私はもう……」
「ベルをたぶらかしたのはお前だな、醜い野獣の分際で! お前の首を手土産に、俺はベルを妻に迎えるのだ!」
「なんだと?」
野獣の家来たちがほとんどの町人を追い返すも、ガストンは一人で野獣の元にたどりつき一騎打ちをしかける。ベルを失い最初は悲嘆にくれていた野獣も、ベルを奪うというガストンの発言に本気になるというシーンだった。
しかしそれを演じる涼に先程のような動きのキレや勢いは感じられなかった。
舞台袖で見守る麻穂はひやひやしていた。激しいアクションシーン。お互いレプリカではあるが剣を使っているので、気を抜けば怪我につながる恐れもある。
最後は野獣が勝たなくてはならないのに、集中力が散漫しているのか涼の反応が妙に鈍く、ガストン役の男子生徒との立ち回りが噛み合わない。このままでは何かの拍子に涼が本当に倒されてしまいそうだった。
「片岡、しっかりしろ!」
麻穂たちとは反対側の舞台袖でずっと演技を見守っていた、担任兼監督の園山みことが初めて口を開いた。
BGMにまぎれた声に反応して、涼はちらりと園山の方を盗み見た。集中しろこのボケカスが、と言わんばかりの鬼の形相だった。
その視線での激に応えるように、涼は自分を叱咤する。気になって仕方が無い祐真の言葉を一旦心の隅に追いやった。
何とか態勢を立て直した涼。ついに二人は戦いに決着をつけた。
ガストンを城の外に放り出すも、野獣も致命傷となる傷を負い倒れる。
『こっそりついてきていた家来の力を借り、ベルは家を脱出します。そして急いで野獣の城へと向かいました。しかし城にたどり着いた彼女の目に飛び込んできたのは、力なく倒れている野獣の姿でした』
「なんてひどい……お願い、しっかりして」
「来てくれたのか、ベル。最後にお前を一目見られて、よかった……」
「私はあなたを愛しているの。どうか死なないで」
目を伏せ仰向けに倒れている涼の傍で、麻穂は膝をついて台詞を口にした。涼の手の甲を自分の頬に近づけて、一番の演技を見せる。劇が盛り上がる最大の見せ場だ。
しかし台詞が終わると、麻穂の動きが止まってしまう。
(……キスのふりってどうしたらいいの?!)
ここでベルが野獣に愛の口付けをするということになっているのだが、するふりでいいと台本には勿論そう書いてある。
ここの部分は演者よりも舞台上の入れ替えが忙しいので、練習の時は麻穂のセリフで終わりすぐに次のシーンへ、というように飛ばされていた。
しかし今は本番である。
見慣れた女の姿の時の顔ではない、男の姿の時の顔。涼が目を伏せて眠っている姿なんて、寝坊がちな彼を起こす時に何回も見ているのに。ただの演技のワンシーンのはずなのに、妙に意識してしまってますます頭がパニックになった。
音楽が盛り上がっていくのにもかかわらず動かない麻穂を不思議に思ったのか、涼が片目を薄く開いた。
真上には表情の固まった麻穂がいる。
「おい、適当に顔近づけておけ」
涼に小声でうながされ、麻穂は目をつむりドキドキしながらゆっくりと涼に顔を近付けた。ほんの一瞬のことだったのに、まるで二人以外の周りの時間が止まってしまったかのように感じられた。
麻穂が顔を近付けた瞬間、ライトが消えた。大道具の生徒たちが慌ただしく飛び出してくる。
ライトが消えるとすぐに涼は麻穂の腕をすり抜け、代わりに人間の姿に戻った王子役の祐真が舞台に滑り込む。すれ違う両者にはなんの会話もなかった。
先ほどまで息荒く瀕死の演技をしていた涼が俊敏に動くものだから、そのギャップに麻穂はびっくりしてしまう。涼と祐真は急な暗転でも素早く行動出来るよう暗闇に目を慣らすため、ライトが消える少し前から目をつぶっていたのだった。
その思考をさえぎるように、祐真が麻穂の手を引いた。
そして雪乃のナレーションのあと、寄り添う祐真と麻穂にスポットライトが当てられる。
『ベルが野獣に愛を告げたその時。王子に呪いをかけた魔女が与えたバラの、最後の花びらが散りました。野獣は間に合ったのです。暗く不気味な城は本来の姿を取り戻し、家具にされた家来たちは皆人間に戻りました。そして野獣も人間の姿に戻ることが出来たのです』
「ありがとう、ベル。あなたの愛の力で、私は本当の姿に戻れました」
「まあ! それがあなたの本当の姿なのですね」
「あなたを愛しています。ずっと私と一緒にいてほしい」
王子役の祐真がひざまずいて愛を語るシーンは、彼の普段の振る舞いも相まってとても絵になるものだった。袖で見ている女子生徒たちも、観客席で見ている女子生徒たちもきっと黄色い声をあげたくなっただろう。それは男子生徒も感心してしまうほどだった。
麻穂が「はい、喜んで」と頷くと、舞台全体が明るく照らされる。
今までの暗い城のセットが一変、花が飾られ光に溢れ、明るく豪華になった。周りでは人間に戻った家来たちも二人を優しく見守っている。
麻穂は一瞬舞台袖に引っ込むと、10秒とかからない早業でドレスアップとヘアメイクをほどこされる。
再び麻穂が現れると二人は小さく頭を下げ、音楽に合わせて踊り始めた。
経験者同士ということもあり、周りから見ても二人のダンスは中等部のそれとは思えぬほど優雅で美しかった。伸びた背筋からは自信と気品が感じられ、のびのびと気持ちよさそうに二人が踊っている。
麻穂に「心配しないで」と豪語した祐真の発言に偽りはなかった。それは麻穂が思うよりもはるかに上手で、むしろこちらが彼の足を引っ張らないか心配になるくらいだった。
そして麻穂は先ほどよりも余裕があるせいか、色々なところに意識が向かっていた。
(ダンスのためだってわかってるけど、同級生の手が背中に回るのって恥ずかしい……)
祐真の手が麻穂の肩甲骨に触れている。変な意味があるわけでなく、ダンスでは普通のことなのに妙に意識してしまう。それは単に異性だから恥ずかしいのか、自分に好きだと言ってきた相手だからなのか。
左手が触れる彼の右肩にも、右手を重ねる彼の左手にも、どのくらいの力具合で触れたらよいのかわからなくなる。
涼とのダンスが練習してきたことをなぞるものだとしたら、祐真とのそれは本当の意味での実践的なダンスだった。
音楽の盛り上がりに加えて、家来たちや華やかさを足すためほかのダンスのペアも踊りだす。
もう台詞がなく踊るだけのシーンだけなのに、麻穂には今が一番長く感じられた。
「麻穂ちゃん、リラックス」
麻穂の強張りを察したのか、祐真の笑うような声が音楽にまぎれて落ちてきた。
改めて麻穂は自分の鼓動を感じた。ゆっくり吸って吐くだけで、緊張が少しはほぐれたように思えた。
「大丈夫。僕に身を任せていいよ」
ステージ上なので小声で話しているせいか、いつもより顔を寄せてくるのが恥ずかしい。麻穂はもう一度深呼吸した。
『こうして真実の愛で結ばれた二人は、ベルの父親や家来たちと一緒に、末永く幸せに暮らしました』
雪乃の最後のナレーションを合図に、緞帳が下りてくる。会場は音楽を上回る惜しみない拍手に包まれた。緞帳が落りきると、音楽は少し続いたあと止んだ。しかし会場の明かりが戻ったあとも、大きな拍手は送られ続けていた。
長く長く続く拍手の渦の中で、舞台裏では生徒たちが興奮のあまり飛び跳ねたり大声を上げたりはしゃいでいた。
「終わったー!」
「すごかったよ、みんな本当によく頑張ったよ!」
「もう終わるなんてさみしい、またやりたい!」
「今までで最高の劇だった!」
演者も裏方も、男子も女子も、生徒も教師も皆で手を取って喜び合う中、麻穂は舞台が終わったことをまだ認識できずに呆然としていた。
「麻穂ちゃん、いつまで僕にくっついてるの?」
嬉しそうに言う祐真の言葉に、麻穂はようやく我に返った。
「わっ、ごめんなさい。劇が終わって安心したら、ぼーっとしちゃって……」
そう言って慌てて彼から体を離した瞬間、麻穂はふらりと足から崩れ落ちた。
元々人前で何かをするタイプでもないし声を張る方でもない彼女がここまで頑張れたのは、ほぼ気力のおかげといっていいだろう。緊張の糸が切れて体から力が抜けてしまったのだった。
傍でいち早く彼女の異変に気づいた祐真が、倒れ込む麻穂を抱きとめる。彼女をゆっくり床に座らせて、自分の腕の中にもたれさせてやった。
「大丈夫?」
「ご、ごめんね……なんだか全然力が入らなくって」
無理に立とうとすると、気持ちだけが先走りしてまたふらついてしまう。祐真は彼女を支え「無理しないで」と背に優しく手を添えてやった。
周りが歓喜ではしゃいでいるのに加え、拍手が鳴り止まず声が通らない。祐真が周りを見回すと、低く一本に束ねた髪をなびかせて早足で近づいてくる者がいた。
「おい、どうした」
それはウィッグとつけ耳を外していつものロングヘアに戻った涼だった。乱れた髪が邪魔だったのか、低い位置で応急処置的に結っていた。
うるさくて声がほとんど聞こえない中、大声で祐真に尋ねていた。
「緊張が解けて、力が抜けてしまったみたいだ」
祐真も涼に声を張って答えた。
涼は腰を落として、麻穂の顔を覗き込んだ。
さらりと見慣れた後れ毛が見えて、麻穂は心細さに染まった顔をあげた。慣れない舞台の空気の中、涼の髪から香るいつもの匂いがした。
「足が、動かないの」
「腕には力入るか?」
涼はすっと彼女の両手をつかみあげた。小さく震えているのが伝わってくる。
「これじゃ背負えないから、抱き上げるぞ」
周囲がうるさいので麻穂の耳元に顔を寄せてそう告げると、彼女の背と膝の裏に腕を差し込んでぐっと抱え上げた。彼女が両腕でしがみつけないアンバランスさを解消するため、なるべく彼女を自分の胸に寄せるようにして支える。
「高時はこのあとすぐに生徒会の仕事があるんだろ? 麻穂を保健室に連れてくから、みんなに言っといてくれ」
涼がそう言うと、祐真は「分かった」と頷いた。
麻穂を抱えて舞台を去る涼の後ろ姿を、祐真はじっと見つめていた。
いくら麻穂が小柄で華奢とはいえ、普通は女子生徒がこんな風に人をひょいと抱え上げることなどできない。男子生徒にだって難しいくらいだ。
祐真が記憶している限り、涼の手足は細い。
いつも他の女子と変わらないくらいのミニスカートで、そこから覗く脚はほっそりしている。しかしいつか偶然近くで見た時、運動部でもないのに筋肉がしまっていたのを覚えている。
体育でもジャージを着ていることの多い涼の二の腕を見た記憶はないが、前に中庭で殴り掛かられた時の拳の圧力は、確かに力のある男性のものだった。
最近は背の高い女性も多いが、涼は学園の女子の中で一番背が高く、自分のような背の高い男子とも同じ目線で話せる。今日のように首を晒せば男性のように太く、声も女性にしてはかなり落ち着いている。水泳の授業を三年間頑なに拒み、誰にも着替えを見せない。
まじめな麻穂がわざわざ規則をやぶってまで、自分に嘘をお願いしてきたこと。そしてその夜に見た、麻穂を助けに来た男の姿をした涼。
(色々なことを考えると、吉田の睨むように『片岡涼が男』であることは間違いない。学校側は気づいているのか? しかもその正体を知っているであろう寮のルームメイトが、理事長の孫娘……)
祐真はしばらく、二人が消えていった方を見つめていた。