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麻穂が入寮した翌日、麻穂の登校初日となった。
起床時間になっても、ルームメイトは長い髪をベッドに遊ばせぐっすり寝込んでいる。
そんな涼を何とかゆすり起こして、寮の食堂で朝食をとる。涼は人気者らしく色々な人間に挨拶をされており、その度に麻穂を紹介してくれた。おかげで麻穂は覚えきれないくらいの人間と友達になることが出来た。
麻穂は制服に着替えた涼が、昨日のそれと違う雰囲気であることに内心で驚いていた。
昨日は制服をきちんと着ていたのに、今日はブレザーを着ずにネクタイをゆるく結んでいるだけだった。第二ボタンまで開かれたワイシャツからは白い胸板が覗いている。
正直なところ、制服をきっちり着込んだ麻穂からすると、不良のように見えてしまう。
学校は寮から5分ほど離れた場所にあり、麻穂は涼と二人で向かった。
一晩を一緒に過ごした涼は、口調は悪いが性格はさほどぶっきらぼうではなく、実は面倒見がよくて親しみやすい性格だということが分かり、麻穂はすっかり信頼を置いていた。
麻穂はここに転入する前、杉浦学園理事長である祖父に転入を頼んだ際に"いわくつきの部屋”でいいならとこの部屋を紹介してもらった。しかしルームメイトの涼とすっかり打ち解けた今、全然いわくつきなどではないと安心していた。
朝食時に雪乃に会ったが、「吉瀬さん、こんな野蛮人と一晩過ごせました?」という心配そうな言葉にも「大丈夫です」と答えることが出来た。雪乃は涼と本当に相性が悪いんだなあと、麻穂は苦笑いを浮かべるしかなかった。雪乃は「また学校で」と優雅に去っていった。
涼と学校に向かっていると、背の高い大きな校門が見えてきた。
「あれが杉浦学園の校舎?」
「そうだよ。麻穂、学校見学もしないで転入してきたわけ?」
「だって、急いでたんだもん……」
言葉を濁す麻穂に、涼はただ肩をすくめた。
学校の目の前の通りの反対側からは、同じブレザーとワイシャツを着た男子生徒たちが校門へ急いでいた。
「あっちには男子寮があるの?」
「ん? ああ、そうだよ。女子寮とは真逆にあるんだ」
と言って、尋ねられた涼ははるか遠くを指差した。
麻穂がと何か思案しているような表情をしていたのを、涼は見逃さなかった。
学校に到着して、麻穂はまずその大きな校舎と向き合った。
中等部校舎は時計台のある棟を中心に左右対称に広がっており、奥のほうは木々に隠れてうかがえない。真新しいというわけではないが、小奇麗なコンクリートの三階建ての建物だった。
窓からはちらほらと登校する生徒が見受けられ、時計台の下の開かれた正面玄関に生徒たちが吸い込まれていっていた。
校庭や校舎の周りには木々や芝生などが育てられており、整備された花壇も多かった。都内では珍しく自然と調和した学校なんだろう、という印象を抱いた。
「ほら、早く行くぞ」
涼に背中を押されて、麻穂は玄関へ急いだ。
そこから男子生徒の流れと合流したが、涼の人気は女子だけに限らないようだった。色々な男子が涼に声をかけ、そしてその度に麻穂のことを訊いていた。
麻穂は涼と同じクラスだと聞いていたので、無数にある下駄箱の列の中、自分の場所をすぐに探し出すことができた。
真っ白な上履きを履いて、人々の注目を集めながら三階の教室へ向かった。
教室に着くとすぐにチャイムがなって、涼は自分の席についた。麻穂はどこに座ればいいか分からなかったので、教室の隅で担任の到着を待った。
「野郎ども、朝だー」
やる気の無い声を発しながら入ってきたのは、髪を一本に束ね、白いシャツとタイトな黒ズボンの似合う、引き締まった体の女性だった。年は若く、大学生のような風貌。細いフレームの眼鏡を押し上げて教室内をぐるっと見渡した。
「あらっ、君は吉瀬だね」
「は、はい」
麻穂と目を合わせると、ニカッと笑って挨拶をした。
「担任の園山みことです。席はそうね、一番後ろの窓際の……あそこに座って」
担任・園山は麻穂に座席を指で示した。
前と横を女子生徒に囲まれており、麻穂は少しほっとした。
「みんな、今日からうちのクラスに吉瀬麻穂ちゃんが転校してくることになった。仲良くやりな」
園山は麻穂に挨拶するようアイコンタクトをとる。
「吉瀬 麻穂です。よろしくお願いします」
教室から歓迎の拍手が起こる。
麻穂は小さな頭を一回小さく垂らしてから着席した。
「えーと、寮での同室は、片岡! てめえか。しっかり面倒見てやんな」
まるでやくざの姐さんのような口調に麻穂は圧倒されていたが、落ち着いている教室の面々はもう慣れているようだった。
「分かってるっつーの」
教室の最後列の真ん中の辺りの席から、涼が声を張り上げる。
そのぶっきらぼうな返事に、園山はにんまりと笑みを浮かべた。意味深長な彼女の微笑みは、麻穂に理由の分からない不安をもたらした。
ホームルームが終わると、早速の移動教室。音楽の授業だった。
音楽室の分からない麻穂が心細げに表情を曇らせていると、涼に後ろから声をかけられた。
「おせーぞ麻穂、早くしろ」
「涼」
見知らぬ集団の中で唯一面識のある人間の声に、心からほっとしてしまった。
麻穂は真新しい教科書と前の学校で使っていた二本のリコーダーを手早く準備した。
音楽室は麻穂の前の学校と変わらない広さだったが、一部屋にピアノが二台もあることに驚いた。
「ここは座席自由だから、あたしの隣にすわんな」
と言って涼は、どかっと椅子に座って足を組んだ。スカートから覗く涼の足は、妙に筋肉質で締まっていた。
麻穂は遠慮がちに涼の隣に腰掛けた。
クラスの男子生徒たちが、音楽室の後ろで騒ぐ声がする。麻穂がちらりと一瞥するのを見た涼は、ひらひらと手を振った。
「ほっとけほっとけ。この歳の男ってのは、うるさいのが仕事みたいなもんなんだから」
「別に気にしてないよ、大丈夫」
「あっそ」
涼は軽く返事をすると、音楽の課題曲の楽譜に目を通しだした。
「あっ。その曲、前の学校でやってたよ」
麻穂が涼の手元の楽譜を覗き込んで、嬉々として言う。共通点を見つけられて嬉しそうだった。
「じゃあ教えてくれよ。あたし歌は駄目なんだよな」
そう言って涼は眉根を寄せる。
しかし麻穂は首を横に振った。
「私、伴奏者だったの」
ピアノを弾く仕草のように、指をしなやかに動かしてみせた。麻穂の指は細くて、折れてしまいそうな繊細さを持っていた。
「へえ、麻穂ってピアノ弾けるんだ」
言葉とは裏腹に、然程意外ではなさそうな口調で涼が言う。
麻穂は「下手だけどね」と苦笑して見せた。
授業が始まって、麻穂は実際に隣で合唱する涼の歌声を聞いた。やはり本人の言う通り、あまり得意ではないようだ。なんというか、高い音が出ていないように思えた。
そして授業が終わり、教室に戻るときのことだった。麻穂は、教師と話す背の高い男子生徒を見つけた。
制服をきっちり着用し、いわゆる好青年といった感じの整った顔立ち。鼻筋が通って、ハッキリとした二重。薄く微笑みをたたえた表情。
上履きの色からして同学年のその彼が、麻穂はどうも気になって仕方が無かった。すれ違ってからもちらちらと気にしてしまう。
「なーに見とれてんだよ、麻穂」
涼が教科書を丸めて、軽く麻穂の頭を叩く。
「いや、見とれてるっていうか……美形な人もいるんだなあと思って」
「それを世間では見とれてるっていうんだぜ」
涼は肩をすくめて言った。
「まあ目を奪われるのも仕方ねえか。あいつは学校中の女子の噂の的だからな」
やっぱりそうなんだ、と思い麻穂は「ふうん」と小さく呟く。
「涼は?」
「あたしは男なんて興味ないから」
麻穂の言葉に大袈裟に笑って見せる涼は、確かに男子には興味がなさそうだった。涼自身が男以上に男らしい。
「あいつは高時 祐真って言うんだけど……」
涼が麻穂に説明してやろうとした、その瞬間だった。麻穂は二本のリコーダーを手から滑り落とした。
「ちょっ、麻穂! 大丈夫か?!」
涼が慌てて拾ってやるも、麻穂は反応が鈍い。
「ごめん、ちょっとびっくりしちゃって……」
どう見てもあの男子生徒のことで動揺している麻穂に、涼は眉をひそめた。
「何? あいつと知り合いなの?」
「ううん、違うの。ちょっと手を滑らせちゃって」
麻穂はかろうじて微笑んで見せていたが、涼はその隙を見逃さなかった。
「高時は学年で一番頭がいいんだ。テストではいつも一位で、教師たちにも気に入られてる。あたしは直接話したことはないけど、中等部の生徒会長と男子寮の寮長をやってる」
「そうなんだ……」
どう見ても何か考えているであろうふわふわした表情で、涼の言葉を受け取った。
次からの授業では、麻穂はすっかり上の空だった。涼はそれをしばらく観察していたが、いつの間にか爆睡して教師に起こされていた。
四時間目になり、体育の授業のため着替えなければならなかった。
このクラスでは、男子が廊下で着替え女子が教室の中で着替えるのがしきたりらしく、男子生徒たちがわらわらと教室を出て行った。
麻穂は涼と一緒に着替えようと思い、涼の席のほうを振り向いたが、何故か涼はそそくさと教室を出ようとしている。
よく事情が分からずに小首をかしげていると、前の席の女子生徒が麻穂に耳打ちした。
「涼はいつもトイレで着替えるのよ。皆で着替えるの嫌なんだって」
「へぇ……」
そういえば、麻穂は同室でありながら、涼が制服に着替えるところを見たことが無い。どうも涼は肌をさらすことに抵抗があるようだ。
麻穂は疑問に思いつつ、手早く着替えてしまう。新しいジャージはごわごわと硬く、まだ体に馴染まなかった。
廊下で待っていると、涼が長い髪をなびかせてジャージ姿で颯爽と登場した。
背の高い涼は、学校指定ジャージがとても決まっていた。寝巻きがわりに部屋で着ているジャージ姿の時とは別人のようだと、麻穂は思った。
二人は共に校庭へ出た。
本日の体育の授業は短距離走。麻穂は運動が苦手なので非常に憂鬱だった。
準備運動を終えて、教師の話をきいたあと、男女四人ずつまとめて100メートルを走る。ひたすら走ることの繰り返しだった。
その中で、麻穂は何度走っても最下位だった。
「麻穂ってどんくせーなあ。もっと足を前に出すんだよ」
涼が呆れて麻穂に口を出す。
「そんなこといわれても、実際にやるのは難しいんだよぉ」
半泣きになりながら麻穂が反論すると、涼は「よし」と腰を屈めて麻穂の顔を覗き込んだ。
「あたしが走るのを見てろ」
そう言うと涼は走ってスタートラインまで行ってしまった。体育だというのに髪を結ばない涼は、長い髪が振り乱れていた。
教師が掛け声をかけると、男女八人が一斉にスタートする。涼はすぐにその中で頭一個、どころか二三個分は前に出た。
そして男子すらも追いつけないままにぶっちぎりで一着だった。
麻穂の元に戻ってきた涼は、あんなに速く走ったというのにさほど息もあがっていないようで、それにも麻穂はびっくりした。
「速いね……」
涼の足の速さは尋常ではない。運動経験がほぼない麻穂にもそれが分かった。
麻穂が感動して拍手を送るも、涼はそっけなくこう言った。
「周りがおせえだけだよ。俺は普通だって」
「俺?」
聞きなれない一人称に、麻穂は思わず目を見張る。
「お、俺?! 今あたしそう言った?!」
涼はどうみても動揺した様子だった。麻穂が涼に出会ってから、こんなに慌てている姿は初めて見た。
麻穂は不思議そうに涼を見つめていた。
「うっかり言っちゃったんじゃねえかな……はは、気にしないで!」
「う、うん……」
無理矢理作り笑いをして、強引に会話を終わらせてしまった涼。麻穂はらしくない涼の動揺を不思議に思いつつ、列に戻った。
麻穂にはそんなことよりも、考えなければならないことがあった。そう、高時祐真のことだ。