19
祐真の部屋から間一髪抜け出せた麻穂は、男子寮の敷地内で迷子になっていた。
名門私立学校であるにもかかわらず、設備が特別新しいわけでもない杉浦学園の唯一の長所は、とにかく敷地が広いことだ。それは付属寮も例外ではなかった。
寮の門限である八時が過ぎ、敷地内の街灯が全て消されてしまい、どの方向に行けば街道に出られるのかわからなくなってしまった。
街道へ抜け出る口以外の四方を住宅に囲まれているため、陽のあるうちは忍び込むのが楽だった。しかし月もない暗闇に落ちた今は、玄関以外に確認出来る所がない。しかも玄関は入口ロビーから丸見えなので、通過することもできない。
麻穂は落ち葉を払うように歩き続けていたが、気づけば歩みはとまっていた。
心細い気持ちでいっぱいになる。まさか寮長の祐真が規則を破ってまで、帰ったはずの自分を探しにくることはないだろう。誰にも言わずに男子寮まで来た自分を、助けてくれる人はいない。
――ざっ、ざっ。
窓のない壁にもたれかかっていたところに、自分のものではない足音が近づいてくる。
そして一本の揺れる光の筋が見えた。懐中電灯だ。こんな時間にこんなものを持って歩いている人間が自分の味方であるわけがないことを、麻穂は本能的に察知していた。
麻穂は逃げ出そうとして木の根に足を取られ、転倒した。
「きゃっ!」
「なんだ? 君、こんなところで何をしてるんだ?」
その声を聞きつけて現れたのは、姿はよく見えないが体格と声色から判断するに大人の男性だった。恐らく寮の管理人だろう。
「あ、私……」
懐中電灯を向けられ、麻穂は顔を背けた。男子寮の管理人に顔を知られていないとは思うが、つかまって詳細を話すことになってしまえば杉浦学園の生徒だと隠すことはできない。
早鐘のように鳴る心臓の音がうるさい。意識しないと呼吸を忘れてしまいそうだった。
「君、ちょっとこっちに来なさい。杉浦の生徒かね?」
管理人が手を伸ばしてくる。
逃げたら追いかけられる、鈍足の自分に逃げ切る自信はない。それに逃げて捕まればもっとやましさを疑われるだろう。
絶体絶命にまぶたを強く閉じた、その時だった。
「すみません、その子は自分の連れなんです」
背後から男の声がして、麻穂はその腕にぐっと立ち上がらせられた。緊張で腰が抜けて足がもつれる麻穂は、そのまま男の胸板に頭を押し付ける形になる。
男もよろめく麻穂の体を支え、管理人に麻穂の顔を見せないよう彼女を自分の胸に強く抱き寄せた。
えっ、と驚いて体が強ばったのもつかの間。その人の匂いを、体温を、麻穂はよく知っていた。
麻穂の体の緊張が解けたのを腕に感じ、そのまま黙ってろ、とばかりに彼女を抱く男の腕に力がこもった。
管理人は訝しげに男に尋ねた。
「君は?」
「近所の者です」
「あのね、関係者以外立ち入り禁止って書いてあるでしょ」
「申し訳ないです、この子は田舎から出てきたばかりで」
「まったくね……今度は気を付けてよ」
管理人は「はあ」とわざとらしくため息をついたあと、じろじろと二人を見つめて背を向けた。
「……こっちに」
管理人の姿が完全に見えなくなったのを見届けてから、低い声がささやく。きつく抱きしめた腕を解き、麻穂の手を引いて早足で歩きだした。
高い身長、ジャンパーを羽織った広い背中、短い髪から覗く太い首筋。
こちらに越してきてから、杉浦学園の生徒以外に男の知り合いは居ない。でも麻穂はこの繋がれた大きな手に、見上げる目線の高さに、追う背中の広さに、見覚えがあった。
そして男子寮から少し離れた街灯の下で、彼は歩みを止めて振り返った。
「お前、こんなとこで何してんだよ」
麻穂は彼の顔を見て息を飲んだ。
「涼?!」
やっぱりこの人は涼だった。安心するその匂いは、涼のものだった。
しかし、直視した彼の姿はいつものそれとは違った。
「あ、れ……?」
後ろ姿から疑問に思っていたが、いつもの長い髪がないのだ。短い髪で男物の服に身を包んだ彼は、完全に男になっていた。声や態度こそいつもの彼だったが、姿があまりに見慣れないので、思わず目をぱちくりさせてしまう。
「これ、演劇の時のヅラ。学級委員もいいもん買ってきてくれたぜ」
麻穂の疑問を察し、自分の頭を示して涼が言う。
合点がいった麻穂は「ああ!」と手を打った。
そして涼はその男の姿のまま深いため息をつく。
「ったく、マジで勘弁してくれよ、男子寮に忍び込むとか。超焦ったぜ」
「どうして……」
「ウチの寮長にきいた。お前が男子寮のこときいて、付き添いは俺に頼むって言ってたって。八時近づいても帰ってこなくて、なんかあったんだと思ったんだよ」
なるほど、と思ったが、麻穂が聞きたかったのはそこではない。
「そうじゃなくて、その格好……」
「女の姿のままだと、俺は生徒にも管理人にも面が割れてるから。麻穂が男子寮の敷地内に入っちゃってたら、門限すぎてるし、姿を変えないと助けにいけないと思ったんだよ。現にうまいこといっただろ」
そう、だからあの時管理人は男に変装した涼の正体に気づくことなく、近所の男の子として見逃がしてくれたのだった。
管理人を欺いた涼の口調がいつものそれとあまりに違ったため、麻穂にはまるで別人にように感じられた。
「それで、麻穂はなんでこんなことしたわけ? わかってるよな、もしバレたら最悪退寮だぞ?」
男の姿のまま涼に凄まれると、実に怖いものだと麻穂は思った。見知らぬ男性にいきなり怒られている気分だ。
「ごめんなさい」
謝罪のあとに、続く言葉がない。麻穂は涼から視線を逸らしてしまう。
その様子を見た涼は、呆れたようにため息をついた。
「話したくないなら、別にいいけど。俺も毎回タイミングよくこうやって助けに来られるわけじゃないんだから、もうやるなよ。お前鈍臭いんだから」
そう言うと涼は麻穂に背を向け、女子寮の方へと歩きだしてしまった。
今の話はもう終わり、ということだろうか。根掘り葉掘りきかれるとばかり思っていた麻穂は、逆に拍子抜けしてしまった。
「ね、ねえ、怒ってないの?」
「別に。俺もよく規則破りしてるし、人のこと言えねえよ」
確かに涼はよく門限後の無断外出をしている。現に今も門限の八時を過ぎていた。
「どうやって出てきたの?」
麻穂が早足で彼の背中に追いつき、隣に並ぶ。
「前に寮長に一回貸しにしといたじゃん、猫探した時」
ああ、と麻穂は思い出す。まだ涼が麻穂に正体を告げていなかった時のことだ。
「その姿で出てきたの?」
「窓から出てきた」
まじまじとその横顔を見つめると、涼は完全に男の子だった。
麻穂が黙って顔ばかり見てくるものだから、涼は居心地悪そうに「なんだよ」と立ち止まる。
「いや、なんでもないの。ええと、助けてくれてありがとう」
麻穂が取り繕うようにドギマギしながらそう言うと、涼はまた「はああ」と深くため息をついた。
「ありがとう、は分かったから。もうやるなよ! いや、やるときは俺に言ってからにしろ!」
どっちなの、と麻穂は苦笑する。
「あと、夜は危ないから。一人で出歩くな」
口調や態度は非常に面倒臭そうなのに、涼は自分を気遣ってくれる。
麻穂はふと不思議に思って彼に尋ねた。
「ねえ、涼はどうして来てくれたの?」
「は?」
涼はその質問の意図が分からない、とばかりに眉根を寄せた。
「そりゃあ、麻穂が心配だったからだよ」
当たり前のように涼が言う。
麻穂は自分の鼓動が大きく鳴り始めるのを感じた。いつも彼はこうして自分を気遣ってくれているのに、今更どうして。じっと彼を見つめて考えていた。
(やっぱり男の子の姿になると、涼は女の子じゃないんだってよく分かる)
頭では彼が男であることは分かっている。しかし周りが彼を女として扱い、彼自身もそう振舞っていると実感は湧きにくかった。
(私、男の子にそんなことに言われたの、初めてだなぁ)
しかしよく考えてみると、涼は普段と同じことを言っているだけであることに気づいた。
なんだかんだ自分のことをいつも心配してくれるし、自分を傷つけることに怒ってくれる。女の子の格好をしているせいで、ピンときていなかったけれど。
そう思うと、彼を見つめる自分の顔が赤く染まっていくのを感じた。
夜の闇に紛れて分からないとは思ったが、恥ずかしさから頬を両手で包み込んでしまう。
「え、何?!」
涼が驚くのも無理はない。いきなりよくわからない質問をされたと思ったら、じっと見つめられ、そのあと彼女は急に取り乱したように顔を隠してしまったのだ。
「なっ、なんでもない! 早く帰ろう!」
細い肩を揺らして、麻穂が涼の先を行こうとする。
涼は目に入った彼女があまりに薄着なのを見て、自分のジャケットを脱ぎ、彼女の肩にはおらせた。
「え……?」
「ちょっとでかいけど、夜は冷えるから羽織ってろ」
そう言って涼は彼女の横に並んだ。
麻穂からしたら、上着を脱いでしまった涼の方がよっぽど肌寒そうだった。少し申し訳ない気持ちがしたが、彼の優しさを無駄にしたくなかった。彼を見上げて「ありがとう」と微笑む。
街灯に照らされる彼の横顔は、いつもと同じく整っている。ちょっと鋭い目つきや、薄い唇、見上げる目線の高さもいつもの涼だ。
でもやはり長い髪がないと首から鎖骨にかけての骨ばった感じはよくわかったし、胸の膨らみをごまかしていないので平らな胸板がより男らしかった。
麻穂は自分の中のこの落ち着かないようなソワソワした気持ちを、苦しいのに嬉しいような気持ちを、まだ自分で理解しきれていなかった。
静かで、月のない夜だった。
その遠く離れた後ろに。
陰ながら二人を見ていた、一人の影があった。
「……やっぱり、か」
それは麻穂の身を案じ、私服に着替えて彼女を追いかけた高時祐真だった。
麻穂と初めて邂逅した夜のように、寮長であり一人部屋の彼には部屋を抜け出すことなどお手の物。
いつものように微笑んでいるでもなく、怒っているようでもない。感情の読めない表情で、去りゆく二人の後ろ姿を見つめていた。