15
その日は、風の強い曇りだった。
「涼、おきて! 遅刻しちゃうよ」
いつもの寝巻兼部屋着のジャージ姿で、二段ベッドの上段にて涼はすやすや眠っている。長い髪をシーツにたゆたわせていた。
既に外へ行く格好に着替えた麻穂ははしごを駆け上がり、涼の肩を揺する。
涼は寝言のような聞き取れないくぐもった声を発すると、寝がえりを打ってまた眠り始めた。
「涼! 今日は公民館でリハーサルだよ!」
麻穂が先程より大きな声を出すと、不機嫌そうに目を開けた涼が、前髪をかきあげて尋ねた。
「リハーサル? 11時からじゃねえの?」
「もう10時だよ」
麻穂が時計を示す。
「じゃああと30分寝れるじゃねえか。起こすなよ」
涼は布団を鼻の位置まで引っ張り上げて、再び眠りの世界につこうとする。
しかし麻穂はそれを許さなかった。
「起きなさい!」
そう一喝すると同時に、麻穂は彼の布団を足もとまで全てはいでしまった。
「うわっ、さみい!」
「服を着替えたりご飯を食べたりしなくちゃでしょ。余裕をもって行動しなきゃ」
「先生みたいだな、麻穂」
こうなった麻穂には逆らえない。涼は渋々上半身を起こした。
それを確認し、麻穂ははしごを降りる。
「何着る? 服出してあげるよ」
「俺? このジャージでいいよ。どうせ近所だろ」
涼の言葉に、麻穂は思わず表情を強張らせた。
今日は、演劇の本番を近日に控えた2組と3組の生徒で、公民館を借りてリハーサルをする。学校の舞台は既に他のクラスが使用していて、予約がとれなかったのだ。
公民館は駅の裏なので、遠いということはない。しかし駅前に行くとなると、近所のコンビニに行くのとはわけがちがう。
「なんだよ、その何か言いたげな顔は」
寝起きのぼさぼさ頭のままで、涼が言う。
麻穂は言葉を選びながら、気持ちを伝えようとする。
「いや……その格好じゃ、地元のヤンキーとかに喧嘩売られないかな?」
「喧嘩くらい買ってやるよ」
「そういう問題じゃなくって!」
話にならない、と判断した麻穂。許可をとって、涼の引き出しをあけた。
「何か外出用の服とかないの?」
「女物はないぜ」
涼が言う通り、引き出しの中には暗い色のズボンと男性が好みそうな柄のシャツくらいしか入っていなかった。
「涼、お友達と遊びにでかける時とかどうしてるの?」
「いかねーもん。誘いとか断るし。買い物とかは一人で近所で済ませてる」
ようやく目が開いてきた涼が、ベッドのはしごを降りながら言った。
「よく今まで男だってバレなかったね……」
引き出しを閉めて麻穂は言った。
「まあな。平日は制服とジャージ。休日は家に引きこもる。これで三年目だぜ」
妙に得意げに涼はそう語るが、麻穂からすると何か違うのではないかと思ってしまう。
「でも、たまには皆とも付き合わないと、淋しくない?」
麻穂の言葉に、涼は少し考えてから同意する。
「まあ、ちょっとな」
麻穂は自分のクローゼットを開いた。結構な数の洋服がかかっている。
「よし、今日は私の服を貸してあげる!」
突然の提案に、涼は「はぁ?!」と声を上げた。
「俺はいいよ、出来る限り女の格好とかしたくねえし」
「でもいつまでも私服を見せてなかったら、きっと怪しまれるよ。今日だって制服で行くわけにはいかないんだから」
涼は面倒臭そうに後頭部をかいて、麻穂の顔と麻穂のクローゼットを交互に見つめた。
「絶対可愛くコーディネートするから!」
麻穂の気迫に押し黙らされてしまう。そして、かろうじて絞り出した言葉は、
「可愛くじゃなくて、カッコ可愛くくらいで手を打ってくれよな……」
だった。
麻穂は自分より背が高い涼でも着れるように、スカートを選ぶことにした。嬉々としてクローゼットをあさる麻穂を横目に、涼は鏡の前で寝ぐせ直しスプレーを握った。
髪の長い涼は、多少寝ぐせがついてもくしで梳かせばすぐに自然になる。
今度は洗面台で顔を洗い、歯を磨いた。
2年半一人きりでこの部屋を使ってきた涼は、洗面台にあるもう一本の歯ブラシを見て、目元だけで小さく微笑んだ。
「とんでもねえやつが転入してきたもんだぜ」
と、涼が独り言をつぶやいた。
「何か言ったー?」
麻穂はそれを聞きつけて声を張る。
涼は歯磨きを終えて、「なんでもねえよ」と返事をする。
「って、うわ。俺それ着るのか?」
涼は床に広げられた服を見て顔をしかめた。麻穂の選んだ服は、過度に女らしいわけではないもののやはりそれなりに可愛らしかった。
「時間がないから早く着ないと!」
「え?! 俺に決定権ないの?!」
彼の問いに答えることなく、麻穂はいそいそとトイレの個室に入った。
お互いが着替えるときは着替えないほうがトイレの個室に入るという、この部屋独自の取り決めがあった。
涼は残された洋服を見つめて、しばらく迷ってしまう。
狭い個室に麻穂を待たせるのも悪いし、着替えるなら早く着替えなければ。しかしこの服を着るのは抵抗がある。しかしせっかく麻穂が自分のために選んでくれた服だ。
ワイルドな見かけによらず、人情に厚い涼。麻穂の好意を無駄になどできなかった。
しばらくして涼は麻穂に出てくるように言った。
「うわぁ、モデルさんみたい!」
麻穂は素直な感想を口にする。
ミニスカートにニーハイソックス、かわいらしい柄の入ったインナー、大き目のボーダーのカーディガン、頭にはスカートと似た色のキャスケットをかぶっていた。
テンションを上げる麻穂を前に、涼は恥ずかしそうにそっぽを向いている。
「似合ってるよー。女の子にしか見えない! 髪も巻こうよ!」
「おい、急ごうぜ! あと40分だぜ」
「大丈夫、10分もかからないから」
どうやら今日の涼には決定権は一切ないらしい。
涼を椅子に座らせて、麻穂は髪を巻くためのコテを用意した。
巻く部分はかなり高熱になり、もちろん肌にふれればやけどする。 それを知識として知っていた涼は、コテを扱う麻穂に恐々言った。
「頼むから肌につけないでくれよ」
「大丈夫だよ、慣れてるから」
笑いながらそういい返す麻穂。彼女はとても手際がいい。
「涼の髪ってすごく巻きやすい。うらやましいなぁ」
美容師並の手際を見せる麻穂に、涼はふと浮かんだ疑問をぶつけた。
「麻穂、髪短いのに巻いたことあるのか?」
その言葉に麻穂は一瞬きょとんとしてから、「ああ」と理由を述べる。
「私ここに転入してくる前は髪長かったんだよ。涼ほどじゃないけど。たまに巻いてたりしてたんだ」
「ふーん」
涼は髪が長い麻穂を想像しようとしたが、いまいちうまくいかなかった。
「今度その頃の写真見せ……って危ねえ!」
コテが涼の頬ぎりぎりまで迫っていて、思わず上半身をのけぞらせた。
「大丈夫だから動かないで! 女の子のおしゃれは命がけなの」
涼の頭をひしっと掴んで、麻穂は強引にポジションを戻す。
「麻穂さん今日強引じゃないですか?!」
麻穂の気迫に思わず敬語になってしまう涼。
彼女の返事がなかったので、それをきっかけに二人の間に沈黙が訪れる。
涼は彼女の手が、自分の頭に触れたままであることを意識していた。
自分が本当は男性だということを彼女は一切忘れているだろうな、と涼は思う。
「なぁ、麻穂」
「なあに?」
「もし俺が高時でも、こうやって同じことするの?」
彼の口からいきなり出てきた高時の名前に、麻穂は一気に赤面する。
「な、なんで高時くんの名前が出てくるの?」
麻穂の疑問に、涼は上手に答えられなかった。
唇を噛んだりわななかせたりしながら、視線が落ち着かない涼。
「え……なんでだろ。なんとなく……」
彼がらしくない困り方をしている。
その態度を見て麻穂も思わず、彼の髪に触れている指先を意識してしまう。
もう随分慣れてしまったけれど、涼は男の子。頭では知識として分かっているけれど、認識は女の子のままだった。
だがしかし、ふとした瞬間にそのギャップを突かれることがある。
「それって、男の子としての涼と高時くんを比べてるの……?」
麻穂にそう言われて、涼は頬が熱を帯びていくのを感じた。
(俺は何を言ってるんだ……)
混乱しきった思考の中で、わけのわからないことを口走る自分を叱咤した。
「悪い、今の言葉は忘れて。ほら、早く髪巻かねえと遅刻するぜ」
両頬をパンパンと叩いて、涼は強引に話をそらした。
麻穂はぎこちなく「う、うん」と返事して、作業に戻った。
公民館は駅の裏にあるが、さほど遠くはない。20分前に出て丁度到着した。
それでも二人はかなり最後の方に到着したらしく、大道具担当の生徒の方が早く来ていたくらいだった。学級委員の橘には、「もっと主役の自覚をもって!」と叱られてしまうほどだった。
それよりも話題の的だったのは、初めてお披露目された涼の私服姿だった。
「涼、超きれい!」
「巻き毛初めて見たー!」
「私服センスいいね!」
すぐにクラスの女子が涼を囲んで品評会が開かれる。
それに圧倒されて近づくこともできない麻穂は、輪の外からそれを眺めていた。
(みんな、涼が男だって知ったらどう思うのかなぁ)
ふとそんなことを考える。
今までだましてきていたことを恨むのか。それでも友達でいようといてくれるのか。女装という行為に引いて距離をとるのか。
麻穂は早い段階で男だと知ったからいいものの、そう考えると涼の正体は決して発覚してはならないものなのだと思った。秘密を握る人間の一人として決意を新たにした。期限は中等部を卒業するまでのたった半年だ。
「吉瀬さん。涼の髪型可愛いね~」
隣に寄り添ってきたクラスの女子が、涼を指で示して言う。
麻穂はその子に言った。
「あれ、私が巻いてあげたんだ」
その言葉を聞くと、女子は驚いたように麻穂を見つめた。
「えっ、そうなの?」
麻穂はその視線に耐えかねて、苦笑い浮かべる。
「え? 何かおかしい?」
「涼は人に髪触られるの大嫌いなんだよね。あんなに長くてさらさらなのに」
彼女の台詞に、麻穂は目を見張った。涼が髪を触られるのが嫌いだなんて、今まで全く知らなかったからだ。
今日ほどたくさん彼の髪に触れたのは初めてだったが、涼は嫌がる素振りなど見せなかった。
無理をしていたのだろうかと、麻穂の胸が痛む。
しかし、麻穂は彼の言葉を思い出す。
(「もし俺が高時でも、こうやって同じことするの?」)
嫌がっている人の言葉には思えなかった。むしろ。
(むしろ……)
麻穂は、女の子に集られた中で一際背が高くて目立つ涼を見つめた。
むしろ、の先が出てこない。出したくない。
「どうかした?」
麻穂が黙り込んだのを気にして、隣の女子が声をかけてくれる。
「ううん、なんでもない。ごめんね」
麻穂は何とか表情を微笑みに作り変えた。
麻穂にとっていま、涼が近くて遠い。いろんな色の感情がまざりあったマーブル模様のような心。
でも、涼が半年後にいなくなるのだと思うと、胸がきしむのであった。