11
「これからちょっと付き合ってくれない?」
放課後。麻穂は勇気を出して、隣の三組の教室に祐真を訪ねた。
突然の誘いにも祐真はにっこりと微笑み、
「喜んで」
と口にした。
そのキザったらしい言動に、麻穂はまたいらだちを覚えたが、彼はこれから協力しなければならない相手だと自分に言い聞かせ、ぐっとこらえた。
祐真が帰りの仕度をし終えると、二人は教室を出た。
廊下を歩くと麻穂はとにかく視線を感じた。祐真は学校の有名人。そんな彼と二人で歩いている女子、視線を集めてしまって当然だった。
「嬉しいなぁ、麻穂ちゃんが僕を誘ってくれるなんて」
隣に立つ祐真は、麻穂を見下ろしながらそう微笑んだ。
「勘違いしないで。今からいく場所は、楽しいところでもなんでもないんだから」
「どこにいくんだい?」
「私のおじいちゃんのところ」
「君のおじいさん?」
階段を三階分下って、クラスの違う二人は下駄箱で一度別れる。
祐真は下駄箱で他の女子生徒に掴まったようだったが、麻穂が傍で待っているのを察知して他の女子生徒はしぶしぶ退参していった。
この人と一緒にいると本当に疲れると、麻穂は内心でうんざりしていた。
そして二人は共に中等部の校舎を出て、左手に曲がる。生徒が普段は滅多に近寄らない、職員棟がある方角だった。
「麻穂ちゃん、本当にどこへいくんだい?」
祐真が訝しげに尋ねてくると、麻穂ははっきり言った。
「理事長のところよ」
「君のおじいさんのところじゃないのかい?」
「だから、そうなんだってば」
祐真は少し眉根を寄せて考え、そしてひらめいた
。
「君は本当に理事長の孫娘だったのか」
「だからそうだって、ずっと言ってるじゃない!」
ここまでしてようやく理解されたかと、麻穂は呆れるしかない。
「これから婚約破棄のお願いをしにいくから、ちゃんと反対してよね!」
彼女の言葉に、祐真は少し複雑そうな表情をした。
麻穂はそれを見逃さなかった。
「どうしたの?」
「いや。そう、うまくいくかな……」
祐真の懸念が払拭されぬまま、二人は職員棟最上階の理事長室に辿りついた。
麻穂は扉をノックした。
すぐに中から返事があって、二人は扉を押し開けた。
「失礼します」
麻穂は室内に入って驚いた。
理事長は何故か、たった一人でジェンガをしていた。
「おお、麻穂。高時君」
白髪と白い口髭の割に、老いを感じさせない若々しい張りのある声。濃い色のスーツに身を包んだ理事長は、ジェンガに悪戦苦闘している。
「おじいちゃん、何してるの……?」
半ば引き気味の麻穂が、眉根を寄せて実の祖父に問う。
「知らんか? ジェンガじゃよ。これはハマるなぁ~。一緒にやるか?」
相当夢中なようで、二人には目もくれず言う理事長。
肩を落とす麻穂とは対照的に、祐真は楽しそうに笑っていた。
「楽しそうですね、是非僕も一緒に」
「ちょっと!」
ジェンガに加わろうとする祐真を麻穂は制した。
「おじいちゃん! 今日は話があってきたの。ちゃんと私たちの話を聞いて」
麻穂が声を張ると、理事長はようやく顔をあげた。老眼鏡をかけ直して、椅子に腰かけた。
「はいはい。お前のお母さんみたいにかりかりするな。どうだ麻穂、杉浦学園は楽しいか?」
「楽しいけど……そういう話じゃないの」
麻穂は祐真の顔を一瞥してから、強い口調で言い放った。
「今日は、彼との婚約を破棄してほしくてここにきたの」
「なんじゃと?」
理事長の穏やかな顔つきが、険しく一変した。
「私も彼もこの婚約を望んでいないわ。本人たちの意思を無視した無理な婚約なんて、私たちの未来のためにも、杉浦学園の未来のためにもよくないと思う」
麻穂は一生懸命言葉を選んで口にする。隣に立つ祐真は黙ったままだった。
麻穂の真剣な眼差しを受けて、理事長は口を開いた。
「君たちはまだ知り合って少ししか経っていないだろう? お見合いで行ったら最初の十分みたいなもんじゃ。そんな短い時間ではまだ、お互いを分かりあうことは出来ないだろう。わしは二人はとても相性がよく見えるんじゃがなぁ」
「おじいちゃん! 私たちは自分で相手を選びたいの」
「高時君は反対なのかね?」
声を上げる麻穂を無視して、理事長が祐真に話をふる。
祐真はイエスともノーともつかない返事をした。
「僕の意思としても、麻穂さんと同じ思いがあります。しかしこの縁談が僕の家にとって良いお話だということも分かっています」
「そうじゃな。君のご両親は賛成しておった」
「おじいちゃんっ!」
話がうまくまとまりかけたところを、強引に麻穂が割って入った。
そんな麻穂に理事長は鋭く指摘した。
「では麻穂、高時君に匹敵するような相手を今すぐ連れてこられるのか?」
麻穂は言葉に詰まった。
今、麻穂には好きな相手すら居ないし、高時に匹敵するような人物など思いつかない。
「今はいないけど、将来的に素敵な人に巡り合えるかもしれないじゃない」
「今いないなら、今から高時君に決めればいいじゃろ。“かもしれない”未来より、今の縁談の方が確実じゃよ」
麻穂が搾り出した台詞を、いともたやすくはねのける理事長。学園の経営者の腕か、やはり口が立つ。
「高時くん! あなたも何とか言ってよ」
麻穂が話をふった高時は、静かに首を横に振った。
「麻穂ちゃん、今日のところは帰ろう」
「えっ。なんで……」
その先の言葉を続けられなかったのは、見上げた彼の表情が、今まで見たことも無い悲しげなものだったからだった。
「理事長、今日のところはこれで失礼します」
祐真は理事長に深く礼をして、麻穂を扉へエスコートした。
「二人とも仲良くな」
理事長の最後の言葉に、麻穂は顔をゆがめた。
扉を閉めると、そのわずかな間に沈黙が生まれた。見上げる麻穂に、祐真が微笑み返す。
麻穂は彼の腕をを引いた。
「どこに行くんだい?」
「あなたと話がしたいんの」
「じゃあこっちにおいで」
逆に祐真が麻穂の手をとって、理事長室とは反対側の方向に彼女を導いた。
「ここは最上階なんだけど、実は屋上に出るためのもう一階があるんだ」
祐真が導いた先は、屋上に出る階段のちょっとしたスペースだった。けして清潔とは言い難いが、人が誰も寄りつかないことは間違いない。
麻穂の手を離すと、祐真は自分のハンカチを広げて階段の数段目に敷いた。
「どうぞ」
麻穂は彼の気配りに少し気恥ずかしくなったが、正直にそれに甘えることにした。
祐真はその少し下の段に腰掛けて壁に背を向けた。
「女の子の扱いに慣れてます、って感じね」
「どういたしまして」
「褒めてないってば」
麻穂の嫌味をさらりとかわす祐真。
麻穂は早速祐真を問い詰めた。
「なんでさっき、明確に否定してくれなかったの」
その台詞に、いつも微笑んでいる彼の表情が少し陰る。
「僕にとってこの婚約は、そんなに単純なことじゃないんだよ。麻穂ちゃん」
困ったようなその表情に、麻穂は押し黙るしかなかった。
「僕の意思に関係なく、僕の両親はこの縁談を歓迎している。僕の家のためにもそれは無下に出来ない」
「でっ、でも、いいの? 好きでもない相手と結婚させられちゃうんだよ?」
麻穂が彼を問い詰めるも、祐真は遠くを見るかのように目を細めるだけだった。
「僕としてもどうにかしたいとは思っているよ。自然と破談にならないかな、とかね」
「待ってるだけじゃ、このまま大人になっちゃうんだよ?」
「もしそうなっちゃったら、君が悲しまないように、君に好きになってもらえるよう努力するよ」
祐真の優しい眼差しに、麻穂は思わず顔を赤くした。
麻穂は思う、祐真はずるい。自分が格好いいことを良く分かって発言しているとしか思えない。そしてきっとこんなことを、どんな女の子にも話しているのだろう。それは彼が優しいから。今だって麻穂のために彼は優しい。自分だけに向けられた感情じゃないと理解しているから、説明できない切なさ、息苦しさを覚えるのだ。
「……正直、あなたのことは嫌いじゃないよ。いい人だと思う。でも多分、それ以上の感情はいだけないよ」
「分かってるよ、麻穂ちゃん。無理しなくたっていい。僕たちがお互い幸せになれる道を探していこう」
思いつめたような彼女の顔を覗きこんで、祐真は彼女の手に自分の手を重ねた。彼の大きな手が細い指を覆う。
「今すぐにとはいかないかもしれない。もしかしたらダメになるかもしれない。でも諦めないでいれば道は変わるかもしれない」
「もう、“かもしれない”ばっかりじゃない」
不安に曇った麻穂の表情が、柔らかく崩れる。
それを見て祐真は、手を離しにっこり笑った。
「麻穂ちゃんが笑うところ、初めて見たよ」
そう言われてみて麻穂は、杉浦学園に来てからの自身を省みた。
祐真を親の敵のように嫌うものとして扱っていたので、出会ってから笑顔一つ見せていなかった。
「だ、だって最初の出会いが、あなたが喧嘩してるところだったから……」
麻穂がたどたどしく理由を並べるも、祐真は大して気にしていない様子で軽く答えた。
「喧嘩? ああ、猫を助けたときのことか」
「助けたの?」
「あそこに最近、悪い子たちがいてね。僕、猫好きだから助けなきゃと思って」
祐真が再びにっこり笑う。
「一緒に帰った時も喧嘩してたでしょ?」
「そうだね。確かにあれは喧嘩かもしれない。あの男の子たちはうちの学校の女子寮の周りで、一人で下校する女の子にまとわりついたり、悪ふざけしたりするんだよ。異性が気になるお年頃、ってやつかな?」
麻穂は祐真の話を聞いて、「なんだ……」と肩を落とした。
「てっきりあなたは悪者なのかと思ってた」
「悪者ね。まあ、向こうから見ればそうかもしれないけど。僕は猫と女の子の味方だから」
「何言ってるのよ」
麻穂は呆れてつっこみを入れた。
祐真と過ごす時間は不思議だ。包容力があって、一緒に居ると全てを彼の色に染められてしまいそうになる。涼といるときが安心出来る時間なら、祐真との時間は緊張の連続。思いがけない発言や行動にドキドキさせられてしまう。
「ねえ。今度からは私のこと、無理に相手しなくていいからね」
「どういうこと?」
首を傾げる祐真に、麻穂は恥ずかしそうにうつむく。
「私、“女の子その他一般”みたいに扱われるのが嫌いなの」
彼女の言葉に、祐真はきょとんとしてから聞き返した。
「それって、僕に特別扱いされたいってこと?」
「そんなこと言ってないでしょ!」
慌てて否定する麻穂の顔が赤い。
「麻穂ちゃんはまだ婚約者だって分かってないときから、僕の特別な女の子だよ」
また祐真は、麻穂の心臓に悪いことをさらりと言う。
「な……なんで?」
「僕のことを拒否する女の子なんて珍しいから」
悪意のない笑顔でとんでもないことを言う祐真。
聞き返した自分が馬鹿みたいだと、麻穂は呆れるしかない。
「ああ、そうですか」
「あとそうだ、片岡さんもそうだったな」
いきなり涼の名前を出され、ドキッとする麻穂。
涼なら祐真のアプローチを拒否して当然だろうと麻穂は思う。何故なら、涼は本当は男の子なのだから。
「ねえ、お願いだから涼の恋人疑惑は否定してあげてくれない? 他の女の子と恋人疑惑立ててあげた方が、よっぽどその子が喜ぶと思うよ」
麻穂が駄目元でもう一度お願いしてみると、祐真は意外にあっさり「いいよ」と快諾した。
「でももう、他の女の子と付き合ってるなんて言うのはやめるよ」
「どうして?」
「麻穂ちゃんが悲しむだろう?」
「は?!」
麻穂は心底意外そうに驚く。
声を上げる麻穂を前にしても、祐真はにっこり微笑んだままだ。
「だって、麻穂ちゃんは特別扱いされたいんだよね? 僕に」
「だからそんなこと言ってないじゃない……!」
「誰かを特別扱いしたら、麻穂ちゃんとの約束を破ることになるからね」
「あなたはそんな約束だけで、自分の身の振り方決めちゃっていいの?!」
会話が盛り上がって麻穂が大声を出すと、祐真は「シィッ」と口許に人差し指をやった。
「女の子は悲しませないのが、僕の生き方なんだよ」
「わけわかんない……」
もう祐真には話しても仕方が無いのだと分かり、麻穂が呆れて脱力する。
「他の子に同じこと言われたらどうしようかなぁ。その時は早い者勝ち、ってことにしようかな」
「もう勝手にすれば……」
麻穂は祐真に振り回されながらも、このあとしばらく、陽が沈んで暗くなるまで二人で話していた。
初めて婚約者の偏見なく彼と喋ることが出来た機会だった。