魔王様は敵わない!
――魔王様には敵わない。
そんな常識も、今となっては過去のものだ。
勇者と魔王の戦いが終わって、百七十年――。
魔王城にも緩慢な時が流れ、魔王様の幹部や部下の戦場は、書類作業や経理、雑務へと移っていた。業務には「魔王様の妹君の育児」も含まれ、ある意味で手強かったのも懐かしい思い出だ。
武器の仕入れや城の拡充、備品の発注に明け暮れる……血の一滴も流れぬ平和な毎日。
だがその平穏は、突如として打ち破られた。
「我が忠臣モルダよ」
小鳥の囀りが子守唄に聞こえる、和やかな朝のこと。
名を呼ばれて跪いた僕に、他ならぬ魔王が告げた――その一言で。
「『勇者』を討とうと思う」
――――
「今、なんと仰いました?」
僕は努めて平静を装って聞き返した。朝に弱い頭が、一発で冴えるほどの衝撃。
だが腐っても魔族、何より魔王様の右腕。ここは冷静で居なくては。
ドラゴン一体を収納できる高さの天井から、シャンデリアの絢爛な光が彩る大広間。今や見ることもなくなった、ヒトの返り血の如き真っ赤な絨毯が続く先。
黒玉に装飾された玉座に鎮座し、魔王様は再度口を開く。
「進軍だ。勇者を、この手で討つ」
ブロンズの髪から、紅色の目が垣間見える。滲むのは混沌。獣のような眼光の鋭さが、眼差しの重みが、開戦への意気込みを語っている。
「しかし何故、今更」
「今更などではない。今だからだ」
手すりに両肘を付き、両手を組む。
眉を顰め、広間を覆い尽くしてしまうほどの大きな嘆息が反響する。
「…………妹に構ってほしい」
「しょーもなっ」
「『しょーもなっ』とは何だ!! 一大事だというのに!」
玉座から腰を上げた魔王様は、窓へゆっくりと歩き出す。
肩に掛かる長さの髪が、進むのに合わせて揺れる。ただ歩いているだけなのに、どうしてこうも荘厳さと優美さに満ちているのだろう。真っ黒なローブにこれまた漆黒の外套、荘厳なる二本の角が、支配者としての迫力を一層引き上げる。
外見は人間の青年であるにも関わらず、明確に人間とは違うと思い知らされる。
魔王の座に相応しい佇まいだ。目的以外は。
漆黒を固めたカーテンを開けると、陽の光に髪が艶めく。反射した毛は、傀儡を辿る糸のよう。朝日に目を細める様でさえ、惹かれてしまう。
本当に端麗な姿だ。目的が不純でなければ。
物憂げに溜息をついたシスコンは、頼んでもいないのに事の経緯を解説し始めた。
さて、僕はモップ掛けでもやっておこうか。
「最近エリュがな。毎日のように外へ繰り出してな、帰ってくるのも朝方なのだ」
「エリュ」と言うのが妹君の名前だ。
眉根を寄せて語る魔王様は真剣そのもの。
魔王様の不安も、十分理解できた。
確かに、エリュ様が城を不在にする時間が増えたのは事実なのだ。
しかしエリュ様も年頃の女の子。青春というものを謳歌しているのだろう。
「兄として不安なのだ……悪い虫がついているなら、抹殺せねばと」
「お気持ちは分かりますけど」
僕の返答に、主の言葉が続く。
「それにだ……侍女たちの話によるとな、相手は男だと言うのだ」
両目が怨嗟で濁っていた。
「そういう訳だから、勇者を倒してエリュにオレの勇姿を見せるのだよ!!」
「そんなことで軍を動かしてたまるか!」
「『そんなこと』?! で、では一人ででも……」
「軍のイメージが悪くなるのでやめてください。ただでさえこのザマなのに」
「ひどぃ……」
縮こまる魔王様に、僕はつかつかと詰め寄る。
「久々に正装が着たいと仰っしゃるので何事かと思いましたが……洗濯するので脱いでください」
「断る! 勇者を倒すまで脱がんからな!!」
「我儘言わないでください」
魔王様が、両手で装束を押さえて抵抗している。
それはさながら、お気に入りの玩具を取られたくない子どものよう。
「魔王」の威厳は、戦いの平定とともに葬ったのか。
「安心しろモルダ、必ず勝ち星を上げてやる!」
「そういう問題じゃないです!」
「勇者をこの手で一網打尽にし、エリュの心を射止めてやろう!!」
「私怨でとばっちり喰らう勇者の身にもなれ!!」
脱げ脱がないの押し問答。
「流石はモルダ……このオレと互角だったのは、歴代の勇者とお前だけだっ」
「お褒めに預かりっ、光栄です……!」
お互い両手を突き合わせた均衡状態。
一糸乱れぬ攻防が続く。
だが……。
「あっ」
勢い余って押し倒してしまった。
仰向けの魔王様に対して、四つん這いの姿勢、これはチャンスと見た!
「観念してくださいよ……!」
と、マントのボタンに手を掛けたその時。
「モルダ、お小遣い前借りした……」
「「あ」」
やべ。
木製の扉が開かれ、小柄な少女が現れた。
朱色の髪を肩のあたりで切り揃え、幼さを残した顔立ち……魔王様の実妹、エリュ様のだ。
カーキ色の上着に身を包んだ姿は、羽型の角を隠しているのも相まって人間の少女と変わりない。
「……ごゆっくり」
そして即退場。
普段あまり表情を変えないエリュ様が、露骨に引いていた。
「「違う!! 納得しないで!!」」
大広間に重なる、僕ら2人の心からの叫び。
脊髄反射で飛び上がるのも、息ぴったりだ。
しばらくして、徐ろに扉が開く。
金色の取っ手を押しながら、エリュ様が顔を覗かせた。
「……相変わらず、兄様が支配者とは思えないんだけど」
「僕もです、エリュ様」
「町の人にも舐められてるし」
「仕方ないです、エリュ様」
「辛辣……エリュ~、兄ちゃんは悲しいぞぉ」
そう言って抱きつこうとした魔王様を華麗に躱し、僕に駆け寄ってきたエリュ様。
紫色の結晶を思わせる、人ならざる瞳が僕を見上げ。
そして、事も無げに言ってのけたのだ。
「デートするから、お小遣い前借りしても良い?」
「……」
魔王様、塵になる。
僕も言葉が詰まりかけた。
「えと、デートですか?! 誰と?」
灰燼魔王に見向きもせず。
慌てて聞き返すと、エリュ様は淡々と事も無げに答えた。
対照的に、僕らは開いた口が塞がらない。
その内容が……相手が、僕らには信じがたいものだったから。
「城下町の『勇者』と」
「「は………………?」」




