マッチ棒令嬢のしあわせ王宮生活— 夜会は辞退のはずが、いきなり求婚されました
初めての短編です。よろしくお願いします。
夕食が終わり、銀器の触れ合う音が遠ざかる。ウィンザー侯爵家の食堂は、ワインの香と暖炉の火でほどよく満ちていた。父ヘンリーが咳払いをひとつ。
「王家主催の夜会への招待状が届いた」
私は本を閉じもしない。目で同じ行を三度も往復しながら、平然と告げる。
「お断りしますわ、お父様」
皿の上でフォークが跳ねた。母イザベルはハンカチを握りしめ、兄ジョナスと妹エミリアは顔を見合わせる。
「なぜだ!」と父。「事の重大性をわかっているのか。王太子殿下の婚約者選びだぞ!」
「もちろん存じ上げております。もし私が殿下の心を射止めれば、我がウィンザー家は大いに栄えるでしょう」
「だったら——」
「無意味ですわ」
私は立ち上がり、前髪をかき上げ、広々と解放したおでこで父をまっすぐ指さした。
「どうか自分の娘をよく観察してみてください。貧相な胸、くびれのない腰、小さなお尻、立派すぎるおでこ。ついたあだ名は——マッチ棒」
家族が固まる。母は口をぱくぱくさせ、父は思いのほか傷ついた顔をした(父は密かに私を“けっこう可愛い”と思っている節がある)。
「若き乙女が群れなす王太子の夜会で、私が選ばれる可能性は……ゼロですわ!」
沈黙を破ったのはジョナスだった。
「まあまあ、無理を言うのはやめようよ、父さん母さん。——それより良い案がある。殿下の家庭教師を探しているらしい」
「家庭教師!?」家族全員の声が揃う。
「ああ。誰も一週間ともたないそうだ。そこでリディアを推薦するのはどうかな」
「ちょっとお待ちください!」私が慌てる間に、父は腕を組んで頷く。
「なるほど。リディアは昔から本の虫、博覧強記。飛び級で王立大学も卒業した。歴史も数学も哲学も文学も、薬学も政治学も兵法まで——」
「殿下は私の二つ下ですよ。年上の私なんて嫌がられるに決まっています」
「大丈夫」とエミリア。「お姉様、教えるのはとても上手だもの」
「実は王宮筋へそれとなく売り込みは済ませてある」とジョナスはさらりと言い、私は絶句した。
父はとどめを刺す。
「夜会に出るのが嫌ならば、家庭教師をしなさい。——長女としての責任だ」
四方八方からの圧は、豪奢な天井より重かった。
「……わかりました」
こうして、私の王宮通いが決まった。
◆
王宮の白い石畳に馬車が止まる。高い尖塔が雲をひっかけ、鳩が光の中を切り裂く。初めての王宮。足が少し震えた。
「ウィンザー家のリディア嬢ですね」廊下の角から現れたのは側近の青年、レオン。
「はい」
「殿下がお待ちです」
扉が開く。私は深く一礼した。
「家庭教師を命じられました、リディア・ウィンザーと申します」
机の上では、一匹の白猫が王太子の指先にじゃれ、若い男の横顔が光の中に浮かんでいた。王太子アレクサンダー——アレク殿下。長い睫毛が影を落とし、しかし目は私を見ない。
「今度の家庭教師はずいぶん子供だな。お前に何が教えられる」
感じが悪い。いや、非常に。
「失礼ですが殿下。私は殿下より二つ年上、十八歳です。そして歴史、数学、哲学、文学、薬学、政治学、兵法において学位を有しております。勉強がお嫌いという殿下に、学ぶものが無いとは申しません」
「ふん。学位がなんだ。そんなものでは余は頭を下げん」
猫(のちにマリーと知る)もつられて尊大な顔をする。私は奥歯を噛みしめた。
「だが、また教師が代わるのも面倒だ。とりあえずやってみよ」
「……ありがたき幸せ」
ありがたき、の中に怒りを溶かし込む。
その日、私は机の袖に隠れていた紙束に気づいた。精緻な線。柔らかな陰影。——絵だ。
「まあ、上手」
「見るな!」殿下が猫ごと突っ込んできて、足を滑らせて壁にぶつかった。
「大丈夫ですか」
「よくも余の秘密を」
「秘密、というほどのものですか? とても良い絵ですよ。誰にも見せていないのですか」
「皆、余に絵など期待していない」
そこで私は、一つ賭けに出た。
「では、授業中に描けばいいのです」
「……は?」
「殿下は授業を聞かない。サボる。抜け出す。寝る。——それならば、いっそ私の授業時間を“絵を描く時間”にしましょう。殿下が黙っていてくださるなら、私は職務を果たしていることになり、殿下は自由を得る。いわば共犯です。殿下が喋ってしまえば私はクビで、また新しい厳しい教師が来るだけです」
殿下は目を細め、やがて小さく笑った。
「面白い。——よかろう、その提案、乗ってやる」
「懸命なご判断かと」
猫のマリーが私の足元で喉を鳴らした。
◆
それから、殿下は遅刻も欠席もしなくなった。授業のあいだ、殿下はひたすら描く。私は本を読み、時に要点だけを淡々と語る。レオンが覗きに来れば、殿下は頷き、私は黒板を指す。息はぴたりと合った。
殿下の絵は見事だった。猫のマリー、銀の食器、窓辺の果物、遠景の庭園。意外にも服のデザイン画も多い。
「我が国の兵の制服はかっこ悪い。いつか変えたいと思っておる」
「人は描かれないのですか」
「モデルがいない」
「私がなりましょうか」
殿下の手が止まり、視線が私に固定された。——その日以来、殿下は時々、私を描いた。本を読む横顔、眉間に皺を寄せる癖、広いおでこに落ちる光。私は“置物”よろしく動かないでいる。殿下は黙々と線を重ね、睫毛の影が机に揺れた。
ときどき、寝ている彼の横顔を見る。——寝ていると、とんでもなく綺麗だ。
◆
「すごいじゃないか、リディア!」ある晩、父が上機嫌に言った。
「何がですか」
「殿下が、お前を気に入っていると評判だ。家庭教師は誰も一週間ともたなかったのに、お前はもう一ヶ月!」
母は「きゃー!」と両手を頬に当てる。ジョナスとエミリアが身を乗り出した。
「実際どうなの?」
「殿下ってどんな人?」
「感性が豊かな方ですわ」
「感性?」エミリアは首を傾げる。
「私を女性として見ている、という線は薄いでしょうね。強いて言えば——置物です」
家族は沈黙した。私は席を立つ。
「明日も早いので失礼します」
ぽつり、と父が背中に投げた。
「実はまた夜会が開かれることになった」
私は返事をしなかった。
◆
王太子の私室。殿下は新しい木炭を削っていた。
「夜会に出ぬのか」
「……嫌な思い出があるんです。社交界デビューの日、私は精一杯着飾りました。でも『あれがウィンザー家の長女?』『ずいぶん痩せてるわね』『マッチ棒みたい』と、笑われました」
「——くだらぬ」
吐き捨てるように言う殿下に、私はむっとした。
「くだらなくても、痛いものは痛いんです。私は社交に興味がないし、本当は学者になりたかった。でも貴族の娘に期待されるのはそういうことではないから」
殿下はしばし黙り、それから一枚の紙を差し出した。ドレスのデザイン画。私の体の線を、矜持に変える線だった。
「命ずる。夜会に出よ。そのドレスで」
「私の、ために?」
殿下は耳まで赤くなった。
「う、うるさい! これは命令だ!」
猫のマリーが「ニャ」と同調した。
◆
夜会当日。煌めくシャンデリアの下、ざわめきが波のように満ち引きする。父と兄の姿。父は驚嘆、兄は口笛。会場の片隅では、以前の“モブ”令嬢たちが私を見てひそひそ。
「ウィンザー家の長女?」「あのマッチ棒が、どんな手を使ったのかしら」
エミリアが立ち上がりかけ、母が袖を引いた。「やめなさい。これが貴族社会よ」
側近レオンの声が響く。「王太子アレクサンダー殿下、ご入場!」
扉が開き、殿下が私の手を取って現れた。会場の空気が跳ねるのが、肌でわかる。私は殿下の横で、深く息を吸った。デザイン画どおりのドレスは、痩せた体を誤魔化すのではなく、線そのものを“美”に転じてくれる。布が落ち、縫い目が走り、広い額には透明なヴェールが軽く触れる——光は味方だ。
「とてもよく似合っている」
殿下が珍しく柔らかな声で言うので、私は耳まで熱くなる。
「ありがとうございます」
殿下は前に進み、壇上で振り返った。会場が静まる。
「本日はよく集まってくれた。——余から発表がある」
心臓が早鐘を打つ。私の手を、殿下がもう片方の手で包む。
「余はこのリディア・ウィンザー嬢に、婚約を申し込む」
時間が止まる。次の瞬間、止まった世界に感情の波が一気に押し寄せた。
「えええええええ——!」
誰かが叫び、誰もがどよめく。父は「やったぞ!」と拳を握り、エミリアは「お姉様すごい!」と泣き笑いしている。私は、殿下が膝を折りかけるのを慌てて止めた。
「そんな、頭をお上げください!」
「受けてくれるか」
殿下の瞳に、冗談も虚勢もなかった。私は息を吸い、笑った。
「……もちろんです」
歓声が花火のように弾ける。殿下は私の手を引いた。
「では、一曲、余と踊れ」
「はい」
音楽が始まる。私は殿下の胸の鼓動をすぐ近くに感じる。軽やかに回るたび、広いおでこを飾るヴェールがふわりと揺れた。マリーがどこから紛れ込んだのか、柱の陰から誇らしげに見ている。
(これは、家庭教師だった私が、王太子アレクの婚約者になってからの——)
殿下の肩越しに、ふと視線を感じた。赤い唇を噛み、嫉妬で瞳を濁らせるセシリア令嬢。遠くのバルコニーでは、任務とやらに就いたレイモンド騎士が夜会を冷ややかに見下ろしている。
(——物語の、はじまりに過ぎない)
この時の私は、これから起こる面倒の数々をまだ知らない。けれど、殿下の掌の温もりと、足元をすべる音楽だけは確かだった。
笑い合う私たちに、シャンデリアの光が降り注ぐ。マッチ棒だって、火がつけば明るい。私の火は、今、確かに灯ったのだ。
コミックシーモア様でコミカライズされています
https://www.cmoa.jp/title/321901/