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“元婚約者”より愛をこめて

作者: 雨傘撃墜

 私は目の前の光景を見てこう思った。――まるで物語の世界だ。


 きらびやかに照らされた大広間。

 腕利きの楽士たちが奏でる音楽。

 その曲に合わせて踊る着飾った紳士淑女たち。

 小さい子が夢想するようなおとぎ話の光景が、目の前に広がっている。


 それを眺めている私の隣には、背が高くて目付きの鋭い美青年がいる。

 この国の王太子、ノックス殿下だ。そして私は彼の婚約者。つまり次期王太子妃ということになる。

 一見幸せそうに見えるだろうけど、そんな事はない。

 ――だって私は、この後に何が起こるか、すべて知っているから。


 ノックス殿下がサッと片手を上げた。

 それだけで音楽が止まり、世界が舞台装置のように静止する。何事かと、招待客たちがこっちを見てくる。

 煌めくシャンデリアの下で、私は王太子殿下の手を取って立っていた。

 だが次の瞬間、その手はあっさりと振り払われる。


「ルチアーナ・ド・ランプリング。この場をもって、君との婚約を破棄する」


 ……来た。

 やっぱり来た。


 ざわめく大広間、突き刺さる視線。

 私は一瞬だけ笑いそうになった。だって、まるで大っ嫌いな安っぽい“あの小説”そのままじゃない。

 そう――私は理解している。

 ここは“物語の世界”で、私は“悪役令嬢”の役を押し付けられているのだ。


「ノックス殿下……相変わらず、冗談がお下手ですわね」


 私は涼しい顔を作り、口元に余裕の微笑みを浮かべてみせる。

 本当は心臓が煩いほどに鳴っているのに。


 でも大丈夫……私は知っている。

 この筋書きでは、王太子は私との婚約を破棄して、聖女だか庶民の娘だかを選ぶのだ。

 そして私は、王太子に捨てられた『高慢で憐れな女』として、世間で笑い者にされる。


 ――ふざけないで。

 私はそんな安っぽいキャラクターじゃない。

 私は物語の悪役なんかじゃない。自分なりに頑張って生きている、一人の人間なんだ。

 勝手に私をどこかのヒロインの当て馬役の小悪党に仕立て上げるというなら、この世界の方が間違っている。


「冗談? 君は私が、この場で冗談を言うと思っているのか?」


 殿下の声が広間に朗々と響く。


「君はいつも己の才能を誇示するように口を出し、まるで私を立てるという事をしない。昔からそうだ、その態度にはいい加減うんざりしていた」


 ――ほら、小説通りのプライドだけ高いバカな男のセリフ。

 やっぱりこれは“演出”だ。

 私を陥れるための筋書きにすぎない。


 そう思えば思うほど、怒りと滑稽さが胸の奥で渦を巻いてせめぎ合っていった。


「……そうですか。殿下がそうお望みならば、私に異存はございませんわ」


 沈黙が落ちる。

 まるで舞踏会場の空気ごと、私の言葉で凍りついたようだ。


 ――思ったとおり、皆唖然として見ている。

 “悪役令嬢”が惨めに泣いて喚いて、王太子に縋りつくとでも思っていたのだろう。

 でも違う。私は、そんな見苦しい“役割”なんて絶対に演じない。


「ご要件は、それだけですか? では、本日はこれにて失礼いたしますわ、殿下。ご機嫌よう」


 私はドレスの裾を翻し、優雅に背筋を伸ばして歩き出した。

 あえてゆっくりと、靴音を響かせるように、堂々と広間の出口を目指す。

 誰も止めない。

 止められるはずがない。


 退場する私の背中に、様々な好奇の視線が突き刺さる。

 でも、それすら“台本通り”に思えて笑えてくる。


 ――せいぜいそうやって見ていればいいわ。

 でもあなた達の望む“悪役”に、私はならない。

 役割を押し付けてきたこの世界に、私は抗ってみせる。


 大扉が背後で閉まった瞬間、私は心の奥で小さく吐息をついた。

 やりきった安堵と、矜持を守った僅かな勝利感、そして消えない苛立ちとともに……。



―――――――――



 静まり返った大広間には、重苦しい空気が残っていた。

 さっきまでの華やかな空気は霧散し、人々は視線を交わし合い、各々に囁き声をこぼす。

 私――ノックスは、ルチアーナ嬢に婚約破棄を言い渡したその場で、誰にも悟られないよう、心の奥で深く息を吐いた。


 ……終わった。


 ルチアーナ……。かつて想い、焦がれた女性。

 君は最後まで取り乱さず、懇願して頭を下げる事もしなかった。

 毅然と去ったその背中は、ある意味でとても誇り高かった。誰もが真似出来るものではない。

 ――だが同時に、その君の気質こそが、君を孤独へ追いやったのだろう。


 私は何度も思ったのだ。

 もし君が少しでも、他人に歩み寄ろうとすれば、もし君が“周囲全てが敵”かのように振る舞わず、素直に弱さを見せてくれたなら、私は……――。

 あり得たかも知れない、違う未来が脳裏を過ぎる。


 だが、もう遅い。すべては遅きに失したのだ。


 私は、君の()()()を知っている。いや、知ってしまった。いっそ気づかずにいれば、どれだけ良かったか。

 君の気高さでも、その罪を覆い隠すことはできない。

 だが、権力から遠ざかれば、その罪も明るみにはなるまい。こうして一方的に私から婚約破棄を切り出せば、世間は才媛の婚約者を捨てた『高慢で愚かな王太子』の単なる我が儘にも見えるだろう。それが私に出来る、唯一の手向けだ。

 君が信じる“物語”が何であろうと、こうなってしまったからには、もはや関係がない。


「……ルチアーナ。どうか、この先で己を顧み、自身と向き合うことを願う……」


 心の中で、そう呟いた。

 大広間の外に消えた彼女の背中は、もう二度と振り返らないだろう。

 無意識に強く握られた拳だけが、私の気持ちを受け止めてくれた。



―――――――――



 ……今でも鮮明に思い出せる。

 彼女と初めて出会ったあの日、まだ二人とも幼かった昔のことを。

 不思議なことに、初めて出会った日のことは、今でもよく夢に見る。


 あの日、父王からこう告げられた。

「今日、正式におまえの婚約者を紹介しよう」と。


 幼いながらも、胸の奥が高鳴ったのを覚えている。

 王太子としてではなく、一人の少年として――どんな少女なのかと期待していたのだ。


 そして婚約発表を兼ねた舞踏会の広間で、緊張していた私の前に、深紅のドレスを纏ったルチアーナ嬢が現れた。

 彼女は私と同じ十二歳とは思えぬほど背筋が伸び、周囲の視線にも臆せず、堂々とした気配を纏っていた。

 周りの同年代の少女たちが無邪気に笑い、華やかな会場の雰囲気にはしゃいでいる中で、彼女だけは静かな炎のように、凛としてそこに在った。


「はじめまして、王太子殿下」


 そう言って差し出された手は、自分と大して変わらぬ小さな手のはずなのに、まるで大人の女性のように洗練された所作だった。


 ――美しい。

 ただ純粋に、そう思った。

 この人となら、この国の未来を共に歩めるかもしれない、と。無邪気にそう思ったのだ。


 だから、その瞳の奥に潜む影には、気づけなかった。

 柔らかな微笑みの奥にあるのが、思慮深さや私に向けられた憧れでも、まして期待でもなく、冷たい決意と警戒心であることを。


 私が惹かれたものは、彼女が必死に張り巡らせ取り繕った『殻』そのものだった。

 その事実を悟るのは、ずっと後のことになる……。


 婚約を交わした日から、私とルチアーナ嬢は互いの親交を深めるために、たびたび顔を合わせるようになった。

 庭園の散歩、舞踏会の稽古、学問の講義――未来の王太子妃としての立場を自覚してか、それとも天賦のなせる技か、彼女はどの場でも完璧に熟してみせた。まさに理想的な才媛だった。


「殿下、立ち位置が半歩ずれていますわ」

「む……そうか」

「舞踏は形が大事です。見ている人がどう思うかが、すべてですもの……指の先までしっかり意識して動かしてください」


 彼女は確かに正しかった。正しく、そして優秀だ。

 けれど、その言葉がどこか投げ遣りな響きを帯びているように感じたのを、当時の幼い私は不思議に思った。


 そんなある日、庭園でのことだった。

 庭の良く手入れされた花を見ながら二人で散策していた時に、私は彼女に尋ねた。


「ルチアーナ、君はどの花が好きだ?」


 彼女はわずかに間を置いて、笑顔を向けてくる。


「私は……バラですわ。誰からも愛される花ですから、私もそのように在りたいと思います」


 その笑顔と答えは、まるで用意されたように滑らかだった。

 その答えを聞いた瞬間、なぜか、胸の奥がひどく寂しくなったのを憶えている。

 彼女は、本当はバラなんて好きじゃない。

 彼女が一番に意識を向けていたのは、花壇の隅で静かに咲いている、白い小さな可憐な花であることを、当時彼女に夢中だった私は気づいていた。

 私はただ、彼女の好きなその花の名前を、彼女から聞きたかっただけなのだ。


 同年代の子どもたちが無邪気に笑い合い、時に喧嘩して感情をぶつけ合っている中、ルチアーナだけは常に大人びた仮面を外さなかった。

 そこに私は、最初に抱いた『聡明で凛とした令嬢』という理想像とは違う、言い知れぬ歪みを感じ始めていた。


 だが当時の幼い私は、その違和感を形にする言葉を持たなかった。

 ただ彼女を理解しようと何度も声をかけ、少しでも相応しくなる為に努力するしかなかった。


 ――けれど彼女は、近づこうとするほど、遠ざかっていった。

 まるで『何かの役割』に自らを縛りつけ、頑なにその枠から踏み出そうとせず、あるはずのない逃げ場を探しているかのように、いつもどこか張り詰めていた。




 それから時が過ぎた、ある日の舞踏会。

 煌々と照らされる室内に、楽団の奏でる音楽が大広間に響き、豪奢なドレスの衣擦れに笑い声が重なっていた。

 市井の民が噂する、きらびやかな世界。

 けれど私はそれに背を向け、胸の奥にひそかな期待を抱きながら、人目を避け、護衛の監視を掻い潜り、会場を抜け出していた。


 ルチアーナに会うために。

 少し前に、彼女は父親とともに広間を後にしていた。

 華やかな場では決して見せない、素の彼女を見るチャンスだと思った。


 舞踏会の喧騒から遠く離れた回廊。燭台の灯りが壁に長い影を落とし、音楽も笑い声もここまでは届かない。

 明るい広間から、月明かりが照らす暗い廊下に出て、彼女の後を追って奥へ奥へと進む。


 すると、ひそやかな話し声が聞こえてきた。

 男の低い声と、抑えた少女の小声――ルチアーナの声だ。

 一瞬喜びに気色ばむも、だが、少女の声に怒りが潜んでいることに気づいた。


「……なぜ、私を王太子殿下の婚約者にしたのですか」


 その冷たい声色に、心臓を鷲掴みにされた様な気がした。思わず足を止めて、近くの柱の影に身を隠した。


「愚問だな」


 父と思しき男の声が返す。


「我が家の名誉と権勢を高めるために決まっている。お前は、ただ家のために役割を果たせばよい」


「“役割”……?」


 彼女の声は震えていたが、それは怯えではなく、隠しきれない侮蔑の色が滲んでいた。


「私はお父さまの権力欲を満たすために、産まれてきたわけではありませんよ」


「戯言を抜かすな」


 男が低く笑う音が廊下に響く。


「お前は美貌を持ち、貴族の立場を持ち、王太子殿下の婚約者という最上の地位を得た。女の身でそれ以上、何を望むというのだ? あまり贅沢を言うな」


「お父さま……――いえ、父上」


 彼女の呆れたような声色が、零下のように冷えきった。とても、肉親に向ける声ではない。

 まだ成人前の私の背を強張らせるには十分だった。


「そうやって今夜も、また無意味に鼻を鳴らして、得意げに笑っておられましたね。ご存知ですか? 市井ではここで開かれる舞踏会の事を、『古臭い権力欲の見本市』と噂しているそうですよ」


 彼女の父は、眉をひそめた。


「愚か者め……唯一、貞淑さだけは持ち得なかったか。娘でありながら父に刃向かうとは。貴様は誰の庇護でここまで来たと思っている?」


「庇護? 呆れた……」


 彼女は裾を軽く払って背を向けた。まるで目の前の人物を一人の人間としてすら扱ってないような態度だ。

 あれが、彼女の素顔なのか……?


「私は貴方とこの国に“役割”を押し付けられただけ。私を王太子殿下の婚約者に仕立て上げたのも、結局あなたの欲を満たすためでしょう? あなたは娘を愛したことなんて一度もない」


 彼女の侮辱に、父親は激昂した。


「黙れルチアーナ! 女が己を勘違いし、立場を忘れたときに待つ末路を知らんと見える!」


「末路、ね……」


 彼女は小さく笑った。その笑いは、舞踏会で取り繕う令嬢の微笑みではなかった。どこか擦れて疲れたような、皮肉混じりの溜め息に近い。


「そんなもの、今さら怖くもありません。だってあなた方が築いたこの“箱庭”は滑稽だもの。時代錯誤の芝居小屋で、誰もが与えられた“役”を必死に演じているだけ……あなたはその中でも、最低の悪役」


 父親は言葉を失っていた。彼女の態度は、ただの反抗や我儘ではなく、まるで異なる別の価値観に裏打ちされた冷笑に満ちていたからだ。


 彼女の声は、怒りと軽蔑を混ぜながらも妙に透き通っていて、まるで()()()()の理そのものを嘲笑っているようすらに聞こえた。


 私の胸に、鈍い違和感が走る。


(彼女は……なぜあそこまで、この世界を嫌っているように語るんだ……?)


 彼女が投げかける言葉は父親を通り越し、舞踏会の喧噪をも超えて、世界全体を侮蔑しているようだった。


 しんと静まり返った廊下に、その言葉だけが重く残った。

 一瞬の沈黙の後、父親が低く唸る。


「……口の減らぬ娘だ。だが忘れるな、お前の未来は私が決めたのだ。もしも王太子妃の座を捨てた時、お前に残るものは何もないぞ」


 足音が遠ざかり、父親が去っていった。


 残されたルチアーナは、苛立たしげに腕を組むと、柱にもたれて深く息をついていた。

 強気に言い返していたはずの彼女の手は、小さく震えている。


 ――その姿を、私は初めて目にした。

 完璧だった仮面を外した彼女の、怒りと弱さと孤独を抱え込んだ素顔を。


 胸が締め付けられるように痛んだ。さっきの彼女の言葉一つ一つが、まるでナイフのように心を穿った。

 ……あぁ、私は今まで何も知らなかったのだ。

 彼女が望まぬ『婚約者』を演じざるを得なかった理由も、その影にある父との確執も。


「調べなければ、なるまい……」


 婚約者となる者には、秘密裏に私生活を洗う内偵調査が行われる。それが昔から王家に伝わる習わしだった。

 幼い私はそれに異を唱え、父王に我が儘を言って取り止めにして貰った。

 彼女に秘密で、彼女のプライベートを覗くような行為を恥じたのだ。


 実際、この習わしは前時代的であり、いずれは改められる風習だった。当時のルチアーナ嬢にしても何ら問題はないように思われたため、私の我が儘はすんなり通った。

 だが、いまや事情は変わった。

 偶然とは言え、このような事情を知ってしまったからには、調べぬ訳にはいかない。

 いまだ混乱渦巻く胸中を抑え、私は王太子としての責務だけを考え、その場を離れた。


―――――――――


 王宮の高窓から射す光の下、私は自室の机に広げられた書簡に目を落としていた。数日前にルチアーナ嬢の調査を命じた家臣からの報告書だ。


 そこには彼女の名が記され、いくつかの細かい“素行の異常”が列挙されていた。


 我が国の政治や制度に対して、異常な冷笑や反発を見せる。

 父親との確執が常習的であり、言葉づかいに容赦がなく、直接的な暴言も見られる。

 時折、周囲が理解できない比喩や言い回しを用いる。


「……なんだ、これは……?」


 私は唖然と、低く呟いた。


 彼女と出会った頃の印象――大人びた聡明さ、毅然とした態度、そしてどこか“外”から来たような異彩さ……。それらは王太子だった私にとって新鮮であり、同年代の貴族令嬢とは違う空気をまとっている彼女に惹かれた。

 だがいまは、それが異端の臭気を帯びて迫ってくる。


 私はさんざん迷った末、ある決断を下した。

 調査を指揮している家臣を呼び、下知を下す。


「……ルチアーナ嬢について、詳細を調べ上げろ。どれだけ時間を掛けても良い。正し、絶対に気取られるな」


 命を受けた家臣は即座に頭を垂れ、影のように部屋を去っていった。


 私は机上に散らばった報告をきっちりと重ね直して引き出しの奥に仕舞うと、次に近侍を呼んだ。


「ルチアーナ嬢を茶会に招待したい。手はずを整えてくれ」


 声音は静かだったが、そこに確固たる意志を乗せた。

 今度は正面から、彼女と向き合う為に。



 ――それから直ぐに、庭園の茶会は準備された。こちらの招きに、彼女は快く応じた。

 時刻は午後の陽が傾き始める頃、庭園にはバラの香が微かに漂っていた。

 私は表面上、何事もない穏やかな態度を保ちながらも、心の内では警戒心を隠せないでいた。


「こうして殿下とお茶を片手にお話が出来て良かったですわ。先日の舞踏会では、ほとんど顔を合わせられませんでしたから」


 彼女は繊細な指でティーカップを持ち上げ、優雅に笑みを浮かべる。その姿はいつもと変わらず、一見可憐に見えるが――私はすでに、その内心に潜む暗い影を知っている。


「……ところで、ルチアーナ」


 私は頃合い見計らい、会話の合間にさりげなく本題を切り出した。


「君の父君のことだが――最近は以前にも増して、方々の舞踏会や晩餐会に招かれていると耳にした。社交界でも随分と顔が効くようだ。娘の君にとって、彼はどういう人間だ?」


 わざと曖昧に投げかける。彼女の本心を引き出すために。


 一瞬、彼女の瞳に翳りが差した。わずかに強く結ばれる唇。私はその反応を見逃さない。


 ――やはり、父親を疎む心情が根底にあるのだろう。


 彼女は言葉を選ぶように答えた。


「……家のため、己が責務と外交に勤しむ姿勢は、一人の貴族として尊敬していますわ。……でも母が、時に寂しそうにしている姿を見るのは、心が痛みますわね」


「ふむ……」


 私はカップを置き、無言で彼女を見つめた。まるで子どもが、感情に任せて帰りの遅い父を断罪するような稚拙な論理だ。彼女は、母親への同情を滲ませる言葉をこぼした。その感情は一人の人間として理解できるが、同時に、危ういものだと私は見ていた。


 ――女性というものは、時に感情を盾に理を歪める。と昔の哲学者は喝破した。愛や憐憫に浸り、自らの立ち位置を忘れる――その脆弱さを、私は確かに彼女の中に見た。


 私は敢えて、彼女に反論を返す。


「だが父君の行動も、家を守るための当然の務めだろう。貴族に生まれた以上、情を押し殺してでも家督を盤石にせねばならぬ時がある。――それが例え、身内に負担を強いたとしても、だ」


 一瞬、彼女の口元がわずかに歪んだ。笑みを保ちながらも、内心では反発を抑えているのが分かる。あの皮肉げな目の光は、感情を隠そうとしているのがかえって透けて見えるのだ。


「さすが殿下、ご立派なご意見ですわ。私も見習わなくてはいけませんわね」


 彼女はわずかに首を傾け、あたかも称賛するように言った。しかしその声音には、甘さではなく冷えた皮肉的な響きが宿っているように聞こえるのは、私の気のせいだろうか?


 私は彼女の態度を見据え、微笑の裏を探る。女は感情に流されやすく、時に理を捨てる――そう思ったが、彼女の場合は少し違うようだ。情に偏るというより……“世の理を斜めに見る癖”がある、と言うべきか。皮肉と反骨が混じり合い、表面的な従順さの奥に、別の色を潜ませているようだ。


「……他人の受け売りだ、誇るようなものでは無い」


 私は言い置いて、平静を装ってカップを手にする。


 だが心中では、わずかな苛立ちを覚えていた。

 彼女が何を拠り所にしているのか、まるで分からない――ただの貴族令嬢としての理の中で彼女は動いていない、だがその根底にあるものはなんだ? ただの歪んだ価値観か? あるいは感情の澱なのか?

 彼女の心理が、まるで見通せない。王太子として様々な人間を見てきたが、そのどれにも当て嵌まらない“異質さ”が、彼女にはある。


 私はまだ彼女を切り捨てたわけではない。だが、王太子妃としての器量――調和を重んじ、冷徹に理を見据える力は、彼女には欠けているのかもしれない。


 杯を口に運び、甘く温かな茶の香りとともに、己の中に募る冷ややかな感覚を、苦く噛みしめた。



―――――――――



 その茶会から、幾らか年月が過ぎた。私と彼女の距離はその日を境に、目に見えて遠ざかっていった。舞踏会では形式的に挨拶を交わすのみ、馬車での同伴も減り、周囲の貴族たちも不穏さを感じ取るようになっていた。


 その最中も、彼女に対する調査は密かに続けられていた。

 そんなある日、ランプリング家に潜入している密偵がもたらした一つの報告に、私は凍りついた。


「……実の父を……暗殺、だと?」


 口元を引き結び、指先で書簡の端をつまみ、何度も読み返す。

 頭の中で、文字通りの意味が何度も何度も反響した。彼女が――自分が婚約を交わしたあの女性が――このような仄暗い計画を立てるなど、到底信じられなかった。


 報告によれば、彼女は自家の使用人を通じて、父の命を奪う計画を練っているらしい。動機は不明だが、報告に上がっている以上、それを匂わせる言動があったのだろう。

 報告書を握る指先に、じっとりと汗が滲んだ。


(まさか……婚約者たる者が、肉親を討つなど……。いや、それだけではない。彼女はこの国の倫理や法を根底から否定している。私が信じてきた秩序を、平穏を、彼女は壊そうとしているのか……!?)


 彼女への不信感は、もはや確信に変わりつつあった。

 私の胸には、『婚約破棄』という冷たく重い言葉が浮かび始めていた。


 すぐに家臣を呼び寄せ、冷静を装いながらも内心では怒りと困惑が暴風のように荒れ狂っているなか、この件の裏取りを命じた。


「この件に関して調査を徹底せよ。事実関係、彼女の動機、協力者、全てを洗い出すのだ!」


 家臣が礼をして出て行くのを待ってから、椅子に深く沈み、思考を巡らせる。

 なぜ彼女が、実の父親の生命を脅かし、地位や権力に挑むような考えに至ったのか。その理屈を考えるほどに、失望の色は濃くなるばかりだった。




 それから時を置いて、続報が届いた。

 報告の内容は、机上に積み上げられた紙の束として置かれている。信頼する家臣に命じた調査、その最終報告だった。

 一枚一枚に静かに目を通し、やがて長い沈黙ののちに書面を置いた。


 ――父の暗殺を企てた娘。

 その動機は、家督を理由に母を孤独に縛り付けた父への嫌悪と、同じ女性である母への憐憫にあった。


「軽率すぎる……っ」


 彼女の計画は、結論から言うと会話の弾みで出た内輪ネタのようなもので、計画と呼べるような代物ではなかった。母を苦しめる父に対する憤り、そして、母への同情が、無邪気な策謀として口から漏れ出た――。

 だが、私にとってそれは、裏切り以外の何ものでもなかった。


 書斎の窓の外で、庭園の緑が静かに揺れている。温かな春の光が差し込む中で、心の底からの失望が、冷たい冬の影のように胸を覆った。


「これほどまでに、私の目は曇っていたのか……」


 かつて彼女の機知や優しさに心を動かされた自分を嘲笑うかのような報告に、衝動的に拳を机の上に打ちつけた。決して許されるものではない――婚約者としてだけでなく、未来の王妃としての信頼も、彼女の軽はずみな行為で根底から揺らいだのだ。


 思い返せば、初めて出会った時の彼女は、同年代の令嬢よりも遥かに大人び、気高さと聡明さを備えているように見えた。私は幼さを残す自分を恥じ、彼女に相応しくあろうと必死に努力さえした。


 だがその聡明さの裏側に、こんなにも危うい短慮が潜んでいたとは……。


「母を哀れむ心、そこまでは理解できる。だが……」


 額に手を当てる。

 これは政争でもなく、正義の闘いでもない。ただ、家族の内部に生じた私怨による衝動だ。

 母を救うという名目は、結局のところ彼女自身の怒りと侮蔑を覆い隠すための仮面にすぎないのではないか?


 あの時、父親との口論を目撃した夜。彼女は、父を『愚かな男』と断じ、親子の情を切り捨てた。

 だがその言葉の端々には、どこかこの国や貴族社会そのものを見下すような響きがあった。



 まるで、()()()()()()()()()のように……。



 目を閉じる。

 そのとき胸をよぎったのは、今まで彼女と交わした数々の会話、舞踏会の片隅で見せた強気な瞳、そしてわずかに覗いた孤独の影。

 すべてが一瞬にして遠ざかり、もはや手の届かぬものに変わっていく消失感。


「……あの日、私の見た彼女は、幻だったのか……」


 言葉にした途端、胸の奥に荒涼とした感情が広がっていく。

 未来の王妃として寄せていた期待も、共に歩むかもしれぬ日々も、仄かな恋慕の情も、いまや砂上の城のように瓦解しつつある。


 その夜に、私の決意は固まった。報告書の細読が終わり次第、この事を父王へと報告し、彼女との関係の整理をしなければならない。


 ――婚約破棄を避けることは、もはや不可能な状況になっていた。



―――――――――



 舞踏会を終えた私は、自室で一人、彼女との記憶を思い返していた。


 ――『ルチアーナ・ド・ランプリング。この場をもって、君との婚約を破棄する』


 その一言を放った時、彼女の瞳は細く吊り上がった。あれは驚愕ではない。憤怒とも違う。

 あれは彼女特有の皮肉を宿した、挑発的な光だった……。

 その視線を正面から受け止めた時に、確信した。もはや、この女と交わることは二度とない、と。


 私は執務室の椅子に深く腰掛け、目を閉じる。

 過去の庭園の茶会でのやりとりが、未練たらしく脳裏に浮かぶ。

 母への同情を口にし、父を責めた幼い論理。理をわきまえず、情に流される女の習性――そう片づけることもできた。

 だが彼女の場合、ただの情ではなかった。

 言葉の端々に、皮肉な響きと、どこか世の理を斜めから眺めるような姿勢があった。あれは彼女自身の生まれ持った性質か、それとも育ちによる歪みか。結局、今も私は断じ切れずにいる。


「……それでも、王妃には据えられない」


 自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。

 彼女は他者を魅了する生まれ持った美しさがあり、そして努力無くしては得難い高い知性も持ち合わせていた。だが――王位を支える伴侶に必要なのは、情に流されぬ冷徹さと、秩序を尊ぶ気質だ。未遂とは言え、実父を暗殺しようとまで思い至った影がある以上、信頼を寄せることはできない。


 とはいえ、私自身は彼女を憎んではいない。

 むしろ、この後どう生きるのか――その行く末に一抹の関心を抱いている。

 皮肉をまといながらも、理を外れて進むあの眼差しは、どこか危うくも力強くあった。元来彼女は聡明な人物だ。貴族社会に馴染まずとも、別の生き方を見出すことがあるかもしれない。


「どうか、君の才覚を無駄にしない道を歩んでくれ……ルチアーナ」


 言葉は誰に届くでもなく、執務室の静寂に消えた。




 それから幾日か経った頃。

 いまだ冷めやらぬ婚約破棄の事後処理で忙殺されていた私の元には、既にして見合いや縁談の話が山のように舞い込んできていた。節度のない話ではあるが、王太子の横の席が空いたのだ。少しでも野心のある者ならば、見逃すには惜しい機会だろう。


 だが個人としては、しばらくは色恋関係とは距離を置きたいというのが本音だ。

 未練がましい事に、彼女のことを心の何処かで引き摺っている自覚がある。だから仕事などで余計な事を考えずに忙しくできる今の状態は、ありがたい事だった。


 そんな中、家臣が一通の緊急の書簡を持って来た。

 それに目を通した瞬間、我が目を疑った。


 ――『ルチアーナ・ド・ランプリングが国を出奔。敵国へ渡った可能性が極めて高い』


 ルチアーナ――そこに書かれた文字を目にした瞬間、思わず息を呑んだ。

 あまりに唐突すぎる。

 ――瞬時に思い浮かぶ、あの皮肉気な瞳。婚約破棄を言い渡した時の彼女の挑戦的な笑みが、脳裏に瞬く。

 あれから幾日と経っていないのに、このわずかな時間で、どうしてそこまで動くことができたのか……思い切りが良いどころの話ではない。


「どうやって国境を越えた!? いや、それよりもこの行動の速さ……これではまるで、予め準備をしていたようではないか……」


 婚約破棄は向こうの家の妨害を危惧して父王と一部の側近にしか伝えておらず、事前の通達はされなかった。今頃、ランプリング家でも家をひっくり返すような大騒ぎのはずなのだ。そんな中で準備もなく、敵国へと向かう事など現実的ではない。

 文章を読み終え、思わず椅子へ倒れ込むように沈む。茶会で見せた彼女の皮肉げな瞳、婚約破棄の宣言時の挑戦的な表情が、脳裏を駆け巡る。あの時から、確かに彼女は敵意を隠していた。だがまさか、こうまで明確に対立の場へ身を投じるとは……。


 私は書簡を前に手を組み、ゆっくりと呼吸を整えた。

 怒りか、失望か、あるいは焦燥か――今のこの感情をひとまとめに言葉にすることはできない。ただ確かなのは、この国にとって、彼女の存在がもはや無害ではないという事実だった。


「やはり、このまま大人しく身を引くつもりはないか、ルチアーナ……!」


 感情を口から吐き出すように呟く。

 彼女の行動は単なる逃避ではない。元とは言え王太子の婚約者が敵国に身を寄せるという事は、戦略的にも象徴的にも、王家への挑戦を意味する。

 あの冷徹で皮肉屋の令嬢が、座すのを止めてついに行動に転じたのだ。


 だが、同時に私は冷静であるべきだと自分に言い聞かせる。

 彼女を感情のまま敵として憎むのは容易い。しかし王太子として、私情に流されるわけにはいかない。未来の王として、国の安寧と、王家の秩序を守るため、私も行動をせねばならない。


「……行く先は敵国か」


 書簡を閉じ、視線を窓の外へ移す。

 庭園はまだ朝の静寂の余韻に包まれていたが、私にはそれが嵐の前の静けさのように感じられた。

 あの世界を皮肉気に見下ろす眼差しを抱えて、彼女はどんな策略を巡らすのか。この国への敵意をどこまで広げるつもりなのか。

 いずれにしろ、覚悟を決めねばなるまい。彼女の行動を見過ごすことは、もはや許されない。


 私と彼女の敵対関係は、ここに完全に確定した。――そしてその先に、避けられぬ戦いが待っていることも。


「“元婚約者”として、彼女の新たな門出に、一筆したためねば無作法というものか」


 彼女の皮肉癖が移ったかと自嘲しながら、私は執務机に向かい、ペンを手に取った。

 しかし彼女がいるのは敵国だ。王太子の名をそのまま差出人として書くわけにも行くまい。


 ――さて、どのように書くべきか?

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