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作者: 葉沢敬一

毎週日曜日午後11時にショートショート1、2編投稿中。

Kindle Unlimitedでショートショート集を出版中(葉沢敬一で検索)

売れない作家・吉岡は、夜な夜なデスクに向かってキーボードを叩いていた。締め切りまであと三日、しかし、肝心の原稿は未だに1ページ目から進まない。どうにも思考がもつれて、うまく言葉が出てこない。締め切りが迫る音が耳の奥でカチカチと鳴り響き、心が焦燥で焼けていくようだ。


「だめだ、もうだめだ……」


思わず吉岡は両手で顔を覆い、深いため息をつく。こんな生活をいつまで続けられるのだろうか。売れない作家の身、出版の依頼が来るだけでも奇跡のようなものだ。けれど、その奇跡をどうしてもつかめない。無力感と焦りが胸を押しつぶす。


そんな吉岡を嘲笑うかのように、部屋の隅でネコがのんびりと丸まっていた。名前は「シロ」。白くもないくせに、昔拾ったときにその名が思いついただけで、そう呼んでいる。シロは気まぐれに吉岡の足元に寄ってきて、無遠慮に頭をすりつける。


「シロ、お前はいいよなあ。好きにしててさ」


ぼやきながら、吉岡はシロの頭をなでた。ふと目の前のメモ用紙に、シロがキーボードに乗ってきた時の様子でも書いてみようかと思いつき、何となくそのシーンを書き始めた。『ネコが気まぐれにキーボードを歩き回り、意味不明な文字列を入力した。まるで原稿がネコに乗っ取られたようだった』…吉岡は少し笑いながら、その文章を書き続けた。ふわふわとした毛の感触が、少しだけ彼の心を和らげる。シロはゴロゴロと喉を鳴らしながら、吉岡を見上げる。その瞳には、焦りも絶望もない。ただのんびりとした、平和そのものの光景が映っている。


「そうだよな、あせったって仕方ないか……」


吉岡は椅子に背を預け、天井を見上げた。深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。どんなに焦っても、締め切りは変わらない。それなら、少しでも冷静になって書き続けるしかない。


その瞬間、部屋の窓がガタンと音を立てて開いた。強い風が吹き込んできて、散らばったメモ用紙が部屋中に舞い上がる。「ああ、もう!」と慌てて吉岡はメモを拾い集めようとするが、その間にシロが外に飛び出してしまった。


「シロ!待て、戻ってこい!」


吉岡は慌てて窓から外を覗く。シロは夜の街を軽やかに走り出していく。締め切りどころではない。吉岡は急いで靴を履き、シロを追いかけた。街灯に照らされる静かな夜道、シロはまるで導くように先を走る。


気がつけば、吉岡は公園の中にいた。そこには一本の大きな桜の木があった。風に揺れて、満開の花びらが舞い散っている。シロはその桜の根元で立ち止まり、こちらを振り返った。


「お前、こんなところに……」


吉岡はようやくシロに追いつき、その小さな体を抱き上げた。シロはいつものようにゴロゴロと喉を鳴らしている。見上げると、桜の花びらが次々と夜空に舞い上がり、まるで何かの奇跡のように美しかった。


「……焦っても仕方ないよな」


吉岡はシロを抱えたまま、その場に座り込んだ。そしてふっと笑った。締め切りが迫っていることは変わらない。けれど、この瞬間、少しだけ心が軽くなった気がした。焦っていては見えないものがある。シロが教えてくれたように思える。


「まあ、どうにかなるさ」


吉岡はそう呟き、再び立ち上がった。シロを腕に抱え、家に戻る道を歩き出す。桜の花びらが背中を押すように、風に乗って彼の背後で舞っていた。


そう、どんなに締め切りが迫ってきても、まだ終わりじゃない。まだ、書ける時間はある。吉岡は静かにそう思った。


「シロ、お前がいてくれてよかったよ」


吉岡の言葉に、シロは小さく鳴いた。それはまるで、何も心配いらないと言っているかのようだった。


――締め切りは恐ろしい。でも、命ある限り、どこかに希望はあるものだ。

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