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第十六話 一応の結末

 

 九日早朝になって、レオンは運河に浮かんでいるのを発見された。もっとも、彼は男だったので、娼婦――女性ばかりを狙う〝切り裂きジャック〟の犯行とは見なされなかった。


 エリスも遺体で発見された。

 それも、残酷な姿で――。


 エリスは、皮膚から、内臓から、すべてを解体された姿で発見されたのだ。

 残酷ではあったが、医学的には高度な解体である――とは、スコットランドヤードの検察医の報告であった。例えば、腕などは真皮・腱・筋肉・脂肪と綺麗に切り分けられ、臓器は律儀にも、元々収容されていた通りに並べられていた。

 

 実際には、マリアが本国に召還されたことに憤ったランドが、エリスをマリアの代替として怒りを爆発させたのであった。

 

 マリアに斬り落とされた右腕は一ヶ月が経っても回復しなかったのである。痛みも大分和らいだとはいえ、未だに、じりじりとした焼けるような痛みが続いていた。その怒りをマリアにぶつけようと思っていた矢先、マリアの帰国を知ったランドが、エリスに八つ当たりをした、見せしめの犯行である……と異端審問会の調査部は結論付けた。

 

 その報告に審問会の一部は慌てた。ランドの凶行を危惧したマリアを無理に帰国させたうえ、交代要員として送った二人も死亡。さらにエリスを無残に死なせてしまった。

 上層部の完全な判断ミスであった。このままでは、責任を問われることになる。誰でも、非を認めるのは嫌なものだ。

 

 とりあえず、スコットランドヤードに協力を頼み、無残な姿で見つかったエリスを、当時、行方不明で捜索願が出ていた〝メアリー・ジェイン・ケリー〟として発表するように要請。新聞社をはじめとする世間の目を誤魔化した。

 

 マリアはその時、別件に投入されていたが、そちらを解決し、異端審問会本部に戻って来てから、事の経過と顛末を聞かされた。

 エリスの最後を聞いたマリアはただ、


「そう……」


と言ったきりで自室に引きこもり、二日間、部屋を出て来ることはなかった。

 

 この後はランドの犯行と断定出来るものもなく、しばらくは便乗犯らしき事件が多少あったものの、〝切り裂きジャック〟事件はうやむやのうちに沈静化した。



 年も改まり、翌一八八九年春。


 ヴァチカンの異端審問会の有力者であり、マリアの後見人でもあったオルシーニ枢機卿が病に倒れた。八十を越える高齢でもあり、もう長くはないと自覚した枢機卿はマリアを呼んだ。


 枢機卿という役職に就いていることからすれば、驚くほど質素な部屋であった。大きめなベッドとクローゼット。それに本好きの枢機卿らしく、たくさんの本がぎっしりと詰まった本棚が一つ。

 後は看護用の椅子と小卓があるが、それら以外は何もない。


 看護役を外させ、枢機卿はベッドの横にマリアを呼び、椅子を勧めた。素直に従ったマリアを見つめ、深い吐息を漏らした。ちょっとしたことをするだけで疲れるほど、衰弱しているのだろう。

 こういう時、マリアは『大丈夫ですか?』とか、『すぐに元気になりますよ』などと安易には決して言わない。ただ、黙って傍にいるだけだ。

 

 そういう性格なのを思い出したか、枢機卿は、ふっ――と軽く笑い、そして、

 

「儂はもう、長くない」


と、事実のみを伝えた。建前で否定するでもなく黙ったままのマリアに、力のない手を差し出した。そっとその手を取ったマリアを見つめ、


「若かった儂が初めてここへ来て、そなたを見た時、一目で心を奪われた。そのようなこと、許されぬのに……な。それ以来ずっと心に秘めてきたが、あの頃から、そなたは全く変わらぬ美しさのままじゃ……」


と、老いて皺くちゃな自分の手とを見比べた。対するマリアの手は十代の若さに満ちた肌の張りと色艶であった。吸血鬼と人との混血児ダンピールであるマリアに()()はない。

 過去へと思いを馳せる枢機卿の話は何年前のことだろうか。

 

 それから、これは話しておかねばならないと思っていたのか、

 

「エリスのことは残念であった。そなたの友人であったと聞いておったが……」

「この仕事を生業なりわいとして、この世界に身を置いている以上、致し方ないことです」

 

 僅かに目を伏せたマリアを見やり、枢機卿は、そうか――と声にならないほど小さく呟いた後、遠くを見つめて言った。

 

「ああ……。儂はそなたの力になれたじゃろうか……?」

「ええ。とても」

 

 枢機卿の問い掛けに、聖母のような暖かな微笑を浮かべ、言葉少なにマリアは頷き返した。それを見た枢機卿は満足そうに、

 

「なれば良い……」

 

と、そう言って頷いた。彼はもう一度マリアを見詰め、永く息を吐いた。それから、


「ふう……。少し、疲れた。眠るとするよ。すまないが、一人にしておくれ……」


と、マリアに告げた。


「はい」


 マリアは返事をし、枢機卿に布団を掛け直して、部屋を出た。しかし、すぐには自室に戻らず、ドアの前に立ちとどまった。そして、そのまま、じっと部屋の中の気配を窺っていた。


 部屋の中では、ゆっくりと目を閉じたオルシーニ枢機卿が、静かに細い息を吐いた。それきり、オルシーニ枢機卿が再び()()()()ことはなかった。

 マリアは、ドアの前を通りかかった看護役を呼び止めた。


「オルシーニ枢機卿がお呼びです」

「はい。分かりました」


 そう看護役に告げて、マリアは立ち去った。廊下の角を右に曲がる頃、オルシーニ枢機卿の部屋から慌てた声が零れてきたが、マリアはそのまま、自室へと向かった。



 二日後――。

 枢機卿の遺言により、彼の葬儀は虚飾を廃した薄葬にて執り行われた。



 

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