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第一話 運命の夜

 

 その日――。


 両親が殺された、その日。

 彼に初めて出会った、その日。


 彼女の運命は大きく変わった――。


 

 

 一八**年二月*日。



 マリアは夜中に目を覚ました。

 寝床があまりに寒くて、目が覚めたのだ。マリアは当て布だらけの粗末な冷たい布団の中で、身じろいだ。もう一度眠ろうとしたが、寒くて寝付けない。

 今晩は特に冷える。

 そう言えば、昼過ぎに出会ったマッテオお爺さんが空を見上げて、


「今夜は雪になるよ」


と、言っていたのを思い出した。お爺さんは、


「晴れた日の夜中のほうが冷えるんだ」


とも教えてくれた。

 もっとも、この家は建てつけが悪く、冬になるといつも冷たい隙間風が流れているような、そんな家だったが。


 マリアの家庭は貧しかった。元々貧しい村だったが、その中でも特に貧しかった。暖炉にくべる薪にすら困窮し、マリアが森の奥深くから集めてくるのが日課だった。農家をしている両親と彼女が何とか食べていける程度の暮らしであった。

 しかし、そのことを不幸だと思ったことはなかった。両親は優しかったし、マリアも両親のことが大好きだった。

 マリアはそれで十分だと思っていた。

 

 マリアは何度も布団の中で寝返りを打ったが、一向に眠れなかった。空腹だったこともある。昨晩に食べた食事はほんの僅かで、今年の春に九歳になった成長期の彼女には到底足りる量ではなかった。空腹を紛らわせるために、いつも早く眠りに就く。

 しかし、一度目が覚めると、空腹が気になって眠れなかった。


 やがて、マリアは咽喉の渇きを覚えた。台所に汲み置きの水がある。薄い寝巻で布団から出ることには覚悟が要ったが、どうせ、このままでは眠れないだろう。諦めて、マリアはベッドから出た。

 木の床は冷え切っており、立つだけで、はっきりと目が覚めてしまった。さっさと水を飲んで戻るしかない――とマリアは部屋の扉に手をかけた。戸の隙間から、僅かに暖炉の残り火のような弱々しい明かりが漏れていた。

 両親はまだ起きているのだろうか。

 

 目覚めたはしたものの、まだぼんやりとした思考で、マリアは扉を開けた。扉のすぐ向こうを遮るように、父が立ち塞がっていた。やはり、その向こうに見える暖炉の火もかなり小さくなっている。この寒い部屋に、薄い服と中綿入りのベストだけでは父も寒かろうに、何故かこちらに向かって仁王立ちのまま動かず、じっとしていた。

 

「お父さん?」


 マリアの問いかけにも、父は答えなかった。ただ黙って、こちらに腕を伸ばしてきた。ゆっくりと――。

 そして、マリアの肩を掴んだ。肩に載せられた手の冷たさにぞくりとして、マリアは身を固くした。

 まるで氷のような冷たさだったからだ。


「お父さん……?」


 戸惑いを隠せないマリアの声にも無言で、父は掴む手の力を強めた。


「痛っ……! 痛いよ、お父さんっ!」


 痛みに顔を歪めたマリアが訴えても、父親は解放してくれなかった。それどころか、残ったもう片方の肩も掴まれた。さらに、そのままマリアは宙に持ち上げられた。逃れようと身を捩っても、父親の手は頑として外れなかった。そうこうするうちに、父親の顔が迫ってきた。

 半開きの父親の口元には乱杭歯が覗いていたが、状況が掴めないまま、パニックに陥っていたマリアはそのことにも気付かなかった。


「お父さん、どうしたのっ!? お母さんっ!! お父さんがっ……!!」


 部屋の奥にいるはずの母親に呼びかけたが、返事はなかった。どうすればいいのか――と戸惑うばかりのマリアは、不意に支え――といっても、拘束する父親の腕であったが――を失い、落下する感覚に見舞われた。

 しかし、次の瞬間には、しっかりと誰かに抱き止められていた。


 見れば、この村の者ではない見知らぬ男。

 革製のジャケットを羽織り、黒い髪に黒い瞳をした男であった。その男を見つめ、呆然とするマリアは未だ、肩が冷たいことに気が付いた。眼をやれば、父親の手がまだくっ付いている。父の手は、手首と肘のちょうど真ん中で断ち切られていた。零れる血は思ったよりも少なかった。

 父親に眼を移せば、左脇の半ばから心の臓、そして右肩までを剣が貫いていた。緩く反った刀身の、見たこともない種類の剣だった。

 それは正しく日本刀であったのだが、マリアが知る由もなく、刀身に美しい刃紋を持つその日本刀に、マリアは束の間見惚れた。父親を貫くその刀の柄を、今しがた助けてくれた見知らぬ男がしっかと握っていたというのに――だ。


 男は刀を引き抜くと、その柄頭で未だマリアの肩を掴んでいた父親の手を払い落とした。あれほど力強くマリアを掴んでいた両手は呆気ないほど、ぽとりと落ちた。

 床に倒れた父親を、マリアは何も言わず、静かに見詰めた。酷く現実味に乏しかったからだろうか。不思議と涙は零れなかった。

 

「大丈夫そうだな」


 男が独り言のように呟いた。マリアの無事を確認しただけなのだろう。男が話すのは、確かにこの国の言葉だった。少し訛って聞こえたのは、この村が田舎だからかも知れない。

 実際には、マリアたちの方が訛っているのだ。


「お父さん……。殺したの?」

「……。ああ……。もう、元には()()()()ところまで、進んでたからな」

「お母さんは?」


 倒れた父の後ろに、これも倒れ伏した母親の姿を認め、マリアは男に問いかけた。


「お母さんも……?」

「そうだ」


 男は静かに答えた。その行為はとても酷いことなのに、何故だか、マリアにはそれが正しいことに思われた。

 だというのに、彼女の口を吐いて出たのは、非難の言葉であった。


「人殺し」

「ああ、そうだ。憎んでも、怨んでくれても構わんよ」


 男は否定も言い訳もせずに、静かに肯定した。

 そう告げる顔はただ、とても悲しそうで――。


 その表情が意味するものを、マリアが理解出来るようになるのは、もっと後になってからのことである。


 男は刀を鞘に納め、辺りを確認するように見回して、マリアに言った。


「とにかく、怨みつらみを聞くのもここを無事に出てからだ。俺を怨むなら、その後にしろ」

「ここを出る?」

「村を見て回ったが、無事なのは()()()()()()だ」


 男が告げたその言葉を、マリアは聞き咎めた。


「あたしだけ? じゃあ、村のみんなも……」

「他の連中は手遅れだった」

「……殺したのね」

「外は寒い。これを着てろ。行くぞ」


 男は否定しなかった。つまり、事実なのだろう。

 それから着ていた上着を脱いで、マリアに投げて寄こした。しかし、マリアは上着を着渋った。仕方がないな――と判断したのか、男は結局、マリアを上着にくるみ、素早く肩に担ぐや、家を出た。家の外は身を切るような寒さで、雪が舞っていた。

 街道に出るには、村を突っ切らなければ行けない。マリアの家は村の奥側の外れにあった。

 男は駆け出した。足は滅法速かった。


 男の肩に担がれたマリアが目にしたものは、燃え盛る、あるいは燃え尽き崩れ落ちる家々と、道に累々と倒れた村人の死体であった。中には、マッテオ爺さんやガキ大将のルイージ、同い年のフランチェスカとアンナの顔もあった。マリアを『お姉ちゃん』と呼んで慕ってくれた、まだ三歳になったばかりのテレーザの顔も。


 街道に出て、坂道を少し登ったところにある丘に出た。

 そこまで来て、ようやく男はマリアを肩から降ろした。マリアは村を見た。天を焦がして、村が燃えているのが見えた。

 その日、マリアの村は死んだのだ。

 その様子を黙って見ていた男が、声をかけた。


「行く当て……は、なさそうだな。お前さんが良ければ、安全なところに連れていくが」


 男の言葉に、その顔を見上げたマリアは、何も言わなかった。頷きもしなかった。ただ、村の住人を殺した男を見ていた。睨むでもなかった。


「とりあえず、知り合いのところに行く。気に入らなければ、無理に居ることはない。出て行けばいいだけだ」


 男は背を向けて歩き出した。少し離れて、マリアも男の後をついて歩き出した。もとより、行く当てなどない。

 ふと、男が思い出したように足を止め、振り返ってマリアを見た。


「俺はミケーレだ。お前さんは?」


 金色の髪をしたマリアは、しばらく男を見詰めた後で、ぽつりと言った。


「……マリア」


 ミケーレと名乗った男は一瞬、キョトンとし、マリアと名乗った彼女を見た。それから、


「マリア?」


と、聞き返した。その声には懐かしいものに出会ったような響きがあった。


「そう。マリアよ。おかしい?」

「いや? そうか、マリアか。いい名だな」


 ミケーレはマリアにそう言った。素直に発せられた言葉だった。突然に名前を褒められたマリアは黙って、そっぽを向いた。それは照れ隠しからだった。


 それきり、二人は黙って歩き出した。



 

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