安心な裸体
「離れてくれ」
彼が言った。僕は3歩下がる。
彼は長い指でマスクの中央を下ろし、高い鼻を露出させた。そして目を閉じて深く息を吸い込んだ。その音は一定の「ラ」の音だった。
「贅沢だ」
マスクを戻して彼は言う。
「マスクをとって公園で息をする、それすら今の俺たちとって贅沢なんだ」
「そうだね」
僕たちはゆっくりと緑地公園を歩き回った。
途中で何度も彼はスマートフォンで木々や花、そして僕を撮影した。
日が暮れて名残惜しさを感じなら、僕たちは歩いて5分のアトリエに戻った。
描きかけのキャンパスから、油絵具の匂いがする。彼が試しに出した色を塗りつけただけのキャンバスからも、才気が溢れている。
彼はなんでも描く。
風景画も人物画も象徴画も、きれいな絵も残酷な絵も。大きな体中に芸術の熱気が流れているのだ。
コロナ禍で彼は個展を中止している。
活動中止は彼にとって辛いだろうと、僕はSNSに絵を載せることを勧めた。
好奇心旺盛な彼はすぐに始めて、たちまち予想以上のフォロワー数を獲得した。
暖房をつけっぱなしだったアトリエは暑いぐらいだ。
彼が紺色のエプロンをつけて、キャンバスの前に座る。
僕は服を脱ぐ。
僕の体はどこまでも白い。贅肉が一切ない。
筋肉は必要な分だけしか備えていない。
細く長い脚に毛はない。腕も。どこにも、僕の体に白さを濁すものはない。
白いプリーツのマスクは外さない。
裸体を見せるのは信頼関係があってこそだ。
では顔は?
今や唇を見せるのも信頼がなければ成り立たない。僕は彼のためにマスクを取ることができる。
しかし、彼はマスクをした裸体の僕を描きたいのだ。
僕はキャンバスの前の椅子に座る。足を組んで、一輪の百合を足の間で固定した。
僕は彼を見据える。
君の目は切れ長でとても形がいいとほめてくれた目。その褒め言葉を思い出すと、モデルとしてポーズをとる集中が途切れない。
彼は僕のことをミューズだと言った。
だから百合の花を持つことを提案した。
完成した絵はたちまちSNSで拡散された。
僕は僕の美しさをたたえるコメントしか読まなかった。卑猥だなんて言葉も賞賛に思えるほど僕はナルシストだ。
マスクをつけた裸の絵に、彼がつけたタイトルは「安心な裸体」
終
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