8
中にあるのはただ殺風景な白で覆われた空間。中から外を窺い知ることはできなかった。隔絶された世界の中に二人はいた。
「帰ってきたよ、二人とも」
二人が長い間、閉じ込められてきた場所。それでも二人が生活してきた場所だ。みやはの父親は病院で無感情のままに空を眺めている。みやははいつも言っていた。
お父さんは感情を忘れてきてしまった。今もあの牢獄に囚われている。だからいつか迎えに行けたらと。
その願いは叶えられた。帰ってきたという彼女は成長した姿で二人の前に姿を現したのだった。
「ねえ……霧彦?」
前に歩いていったみやはが霧彦のほうへ振り向く。みやはの前に広がる光景に霧彦は驚愕した。
「み、みやは」
「どういうことなの?」
その光景に二人は驚嘆の表情を隠しきれない。瞳孔が開き、その光景を多くその眼に焼き付けようとしていた。
「二人がここにいる。見えてるよね、霧彦」
「ああ」
みやはが霧彦の腕へ帰ってくる。少し怯えるように。
みやはの前にいたのは笑顔の両親。今は笑うことさえできないはずの両親だった。
どんなに願ってもその二人は姿を現してくれなかった。ここが虚構世界だから。その考えに至るのは時間もかからなかったが、思考が体に追いつかなかった。条件反射的に二人を呼んでしまう。
「お母さんっ、お父さんっ!」
悲痛な声で二人を呼んでも、彼らはただ笑顔を向けるだけだった。
「おい、みやは。これは嘘が本当になっただけ。ただの幻想が視認できているだけだ」
「わかってる、わかってるけど……」
どんなに叫んでもあの二人は人間ではない。ただの映像。ここにいるはずのない者たちだから。
こうなることは世嗣も予想していた。深く念情を抱いている場所には虚構しやすくなる。だから気を付けるようにと世嗣にも念を押されていた。それでも乗り越えなければいけない。それが世界を救うカギになる。
「みやは、大きくなったのね」
「成長して見違えてしまったよ」
虚構が意を持って話しかけてくる。虚を乗り越えなければ本物はやってこない。それがみやはの試練でもあった。
「これ……さ」
「ダメだ。これはただの虚構でお前の親じゃない」
「わかってるけど……それでも親なんだよ」
「お前の母親は行ってしまっただろう。父親はここにはいない。だからそれはまやかしなんだ。姿形が一緒でもその中身は無だ」
「みやは、こっちにおいで?」
母親がみやはを呼ぶ。優しい声音はみやはを揺さぶった。
「お母さん……」
「みやはっ!」
霧彦の腕を振りほどこうとする。霧彦はみやはを縛り付けるように留まらせる。
「離して、霧彦っ!」
「ダメだ。今そっちに逃げるのはダメだ。お前は立ち向かわないといけないんだろ?」
「でも、そこにお母さんとお父さんが——」
「寂しかったのはわかる。辛かったのはわかる。けど逃げるのは間違ってる。今は立ち向かう時間だ。逃げる時間じゃない」
悲しく笑う彼女は見ていられなかった。けれど霧彦は彼女を止めなければならなかったのだ。彼女の親が目の前にいようとそれはただの幻影で逃げ道。彼女が一歩進むために。
「みやは……二人に言わないといけないことがあるだろ?」
「言わないといけないこと?」
この空間は虚構の力が強く働く。昔に戻りたい、二人との幸せな時間を取り戻したいという内に隠れた感情がみやはを過去へと引き戻そうとする。
そちら側に行ってしまえばもう戻ってくることはない。みやはは虚構の住人となり、永遠に嘘にまみれた幸せを輪廻することだろう。
だから。
「お前は過去とお別れを言いに来たんだ。さようならを言いに、来たんだ」
「うそ、うそだよ。二人は迎えに来てくれた。だからわたしは二人の胸で泣く権利がある」
「違う。その二人はただの木偶だ」
霧彦にはもう、ただの木偶にしか見えなかった。ただの木のはずなのにそれを人間と錯覚してしまう。それが虚構の力。そう理解すると、自然と本当が見えてきた。
「二人は話しかけてきたよ?」
「ただの隙間風だ」
「笑ってるんだよ?」
「木には表情なんて作れない」
「でも……」
困惑するみやは。瞳孔が開ききって憔悴していた。何が何だかわからない。その不安がみやはに追い打ちをかける。
「お母さんたちは嫌いなの?」
「お父さんたちとは会いたくなかった?」
木偶が喋る。みやはに聞こえた幻聴は確かに脳で描いた二人の声だった。
「二人はここにはいない」
「……」
自分にできることは何か。
それを考えると頭が痛くなる。二人にできること。霧彦の為にできること。頭の中で逡巡して搔き乱していく。
「……うん」
「みやは?」
「決めたよ」
今まで目を向けていた方向ではなく、真っ直ぐに霧彦を見つめていた。
「二人にお別れを」
「大丈夫か?」
「うん。だってわたしは未来を選んだ。だからわたしの選択は間違っていないと信じたい」
みやはは紙束を取り出す。
雪木の旋律。
そう呼ばれた巻物はこの状況を打ち砕くカギだった。そのやり方はみやはが知っていると世嗣が言っていた。
「それ、どうするんだ?」
「この中はスコアになっているの。だから——」
音の連なりを束ねたもの。
わたしはそうすることしかできないから。
霧彦に一番最初に聞かせたい。
「弾くしかないでしょ」
それまでに無かったものが浮かび上がる。
黒く光る鍵盤。その光は美しく、何もかもが吸い込まれそうになる。魅力的で且、誘惑的。虚構の中に一つの表現力が生まれた。
みやはが添えられた席に座る。懐かしむように鍵盤を撫でていた。
「ごめんね。待たせたね。きみ、弾いてもいいかな」
ピアノに語り掛ける。まるで意志を持っているようなその黒。その黒はピンと張られた弦でしか返せない。
「そうか。わかったよ」
みやはは自分の中で理解する。このピアノの特徴、言語表現。そして自分がどうそれを生かすのかを。
「わたしね、霧彦に言っていなかったことがあるの」
「今じゃないといけないことか? もう時間がないぞ」
「うん、そうだね。わたしの未来はこのピアノが現れた時に決まった」
閉鎖された空間がぐんと冷える。冬の枯れた空気が霧彦の肺を凍えさせた。
「霧彦、まずありがとうね。わたしがこうしてこれたのは霧彦のおかげ。全ての記憶が戻ってそれを本当の意味で理解できた」
「なに言ってるんだよみやは。早くしないと——」
みやはの言いたいことがわからない。それがどんなに大切なことだろうが今は世界を救うのが先。それがわかっていないのか、それとも今じゃないといけないことなのか。
異様な寒さに霧彦は悪寒を覚えた。
「わたしは世嗣ちゃんにこの記憶を封じられた。それは神殿の薬によるもので霧彦の本当を隠された。それをわたしが知りながら生きることはできなかったから。世界の調和性が損なわれるから」
「なにを言って——」
「この世界。虚構世界は枯れた世界。元から枯れているんだよ。わたしがこれを引いたことで綺麗になるわけでも、救われるわけでもない」
それがわかったのはこのピアノが教えてくれたから。
すべては嘘で塗り固められていた。けれど今、反転する。
「これを聴いて」
みやはがピアノを奏で始める。一音がとても丁寧に弾かれ余韻が残る。また次の音、次の音と全てが丁寧に作り上げられていく。
ふと、霧彦が気づく。
「この曲は……昔に」
音が奏でられる。旋律が遠くない過去を引き寄せていく。みやはがピアノを弾いている。それがとても嬉しいのに悲しい。相対する感情が霧彦の中で交差する。
優しく包み込んだと思えば、荒々しくなり暴力をふるう。まるで人生のよう。
桜髪が揺れる。白い肌に汗が流れる。全てが魅力的で……。
違う。
「俺は……彼女に感謝しなければ」
フォルテシモに叩かれた最後の一小節が霧彦に情景を浮かばせた。
俺はみやはに会いにきた。全てが大きいこの世界にきて、何もかもが新鮮だった。光の粒子が俺の周りを取り囲む。
「ここにいるはずだ」
声になるはずもない声で呟いた。ようやく彼女に会えると思うだけで何度も繰りかえしたかいがあった。
何度も人の時間をもらって、ここにいれる時間を増やして。
古い日本家屋。そこに彼女がいるはずだ。俺は彼女を救うために来たんだから。
屋内に伝う残留思念を辿り、ようやくそこへたどり着いた。
「あ、あ、あぁぁぁぁぁーーーー」
彼女のいる元へ。
嗚咽交じりに泣く彼女の姿を俺は遠目で見ていた。たかが俺一匹、何もすることができない。小さな体がそう言っていた。
だって俺は、恋をしてしまったちっぽけな存在だから。




