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外に出れない霧彦たちにとって問題なのは時間だった。今こうしている間にも瘴気はどんどんと生活圏へと迫っていた。結界といっても完全ではない。瘴気の侵入を限りなくゼロに近く速度を落としているだけだった。
そしてその瘴気の正体。それは霧彦が知っている者だった。
「あれは神殿カリナが毒となったものです」
「あのばあちゃんが? どうやって」
「虚構世界は嘘が本当の世界。その者が嘘を本当にしてしまえばそれは具現してしまう」
「つまり、お婆様は自分がこの世界の毒であることを自覚し、その通りにしてしまった。だから毒となったお婆様は怨念を持って人間を、虚構世界を潰そうとしている」
「じゃあその人はどうなったんですか?」
「感情を持っていれば説得もできるんじゃないか?」
蘇芳の言ったことは的を得ていたが。
「ただの霧に人格など無いのよ。あれはただの霧。カリナという存在は霧になってしまったの」
「まあそうだよな。そんな簡単ならここまでになっていない」
説得などできれば俺たちはこんな方法、認めなかっただろう。
「その嘘を本当にできたのは、香雪虫をすべて使ったから。普通そんな膨大な情報量の嘘を本当にすることなんてできないのよ。それほどまでにカリナの怨念は強く、それに香雪虫は反応してしまった」
「じゃあ残っているのは、ここにある香雪虫だけ?」
「うん」
奇跡を叶える虫。それは恨みまでも叶えてしまう。それも奇跡なのかもしれない。
「だから私たちは失敗できないの」
「でもそんなこと一匹だけでできるの? だってお婆様はこの世界の全ての香雪虫を使った。だったらその怨念を消すのはそれと同等の香雪虫が必要になるんじゃないの?」
「それは香雪虫と人間の気持ち次第。感情が同化すればどうかするほど、その力は大きくなる。だからできるはずなんだ。その子とみやはちゃんなら」
やり方は願うこと。その奇跡を本当にするように。
「でも願う代償は大きい。その願いが大きければ大きいほど、その対価は相応に大きくなる」
「もう前置きはいいよ。だってやんなきゃここの世界は救えない。だったらやるしかないじゃん。やんなきゃいけないじゃん」
霧彦たちはその儀式を行うために移動する必要があった。みやはの思いを無駄にしない。そう自身の気持ちに嘘をつきながら、移動のための準備を進めた。
「この奇跡を行うためには奇跡を行う人が一番、辛かった場所に赴かないといけない。そこでは人の感情が大きく揺さぶられる。そして香雪虫もそれに同化しやすくなるの」
「この霧を移動する」
「わたしが辛かった場所は……神殿の屋敷の奥深く。二人がいた場所」
神殿の屋敷はそう遠くはない。学校から十分程度。しかしその十分でも人間を死に至らしめる瘴気がある。それを防ぐために世嗣はあるものを準備していた。
「この結界は神殿家の力。神殿家は邪の気を払える力を持っています。それは私でも同じ。だから兄さんとみやはちゃんにその結界を張ります」
「僕も一緒に」
蘇芳と凜も名乗り出た。二人だけにそんなことはさせられない。その気持ちが前に出させていた。
「ごめんなさい。それはできないの。私の力でそれを張れるのは二人が限界。私はただ力を借り受けたに過ぎないの。センデルシスさんの力だから」
「そのセンデルシスはどうしてるんだ?」
「この学校の結界自身となってる。そうしないとこの瘴気は何年も持たなかった。だからこの力は一回きり。このために残してきたもの」
「センデルシスさんもお婆様同様に……」
「そう、元には戻らない」
最後の一回きり。その事実が霧彦たちを緊張させた。霧彦とみやはの世界を救うための闘い。
「この結界が持つのは三十分。それが限界」
「わかった」
けれど行かねばならない。ただ無駄に時間を費やすよりかは幾らかマシだった。それで救えるのなら、本望と言ってもいい。
「最後になるかもしれないから——」
ふと、みやはが言った。優しい笑顔、最後とは似つかわしくない表情だった。
「わたしたちはもしかしたら帰ってこれないかもしれないから」
「なに言ってるんだ。霧彦もみやはも帰ってくる。確かに心配だよ? けど、みやはには霧彦がいる。霧彦にはみやはがいる。そうしてこれまでだって何度も助け合ってきたじゃないか」
「うん。けど今回は違うよ」
「なにが、違うんですか?」
「今まではお遊びみたいなものだった。けれど今回はみんなの命が懸かってる。そうなったら俺たちも命を懸ける。それが俺たちの覚悟だ」
霧彦もこの作戦には同調せざるを得なかった。だってそれしか方法が無いのだから。それが世界の選択というのなら従うしかないだろう。
けれど俺たちは考える力がある。
「けれどみやはを絶対に助ける。そんな覚悟持ってる。どうにもならないことでもどうかしようとするのも人間だ。俺たちは考えられるから。だから俺はそんな不条理に抗おうと思う」
「わたしも同じ。霧彦を助けたい。そうやってわたしたちは考えてきたんだ」
凜が悲しそうな顔をしている。今にもかわいい顔が崩れてしまいそうだった。その顔を見てみやはは笑いかける。そのことに気づくと凜は感情を吐露し始めた。
「どうしようもなくてもですか?」
「そうだよ」
「それが運命だと決めつけられてもですか?」
「そんな周りが決めたことなんて聞かなきゃいい」
「それは二人が強いからで。なんにも力を持っていない人はそんな考え持てませんよ」
「なに言ってるんだ? 凜だって強いじゃないか」
「なにを言ってるんですか。私は何にも助けられない弱者で——」
そう言った凜の頭に手を乗っける。子猫を撫でるように優しく添えられた手。反応するように凜は見上げた。
「凜は強いじゃないか。だって、助けてと言えた」
「え?」
凜は驚嘆の表情を隠しきれない。
「助けてと言える人間が弱いわけがない。助けてなんて俺やみやははまず、言えなかった」
「それは先輩たちが強いから」
「俺たちは強くないよ。ただ周りに傷ついてほしくない、卑怯者。自分さえ傷ついていればいいと、そう思ってる」
「じゃあ私は、もっと卑怯者だ。周りは傷つくのに私だけが助かろうとする」
「凜ちゃんは、人を持ってるってことだよ」
みやはが優しい声音を凜に向けた。
「凜ちゃんはただの卑怯者はそんなこと考えない。人を、感情を持っている強い子だからこそ優しさを向けられる。だって凜ちゃんはわたしたちに傷ついてほしくないから行ってほしくないんでしょ?」
「……そうです」
「だったら強い子だ。強いはただ、喧嘩が強いとかの意味だけじゃない。ただスポーツが強い意味じゃない。強いってことは、人が強いってことは……心が優しいってことなんじゃないのかな?」
「先輩は、どうなんですか」
「わたし? わたしはね……強いって思ってるよ」
綺麗で、子供のような笑顔。みやはは笑顔が多い。それが彼女のアイデンティティーであり、人を勇気付かせる原動力になっていた。だから彼女は好かれたのかもしれない。
「そう思わないと生きてこれなかった。霧彦が教えてくれたんだ」
「心が優しくなければ、俺たちはこうして生きてこれなかったかもしれない。凜や蘇芳、みやはとも一緒にはいられなかったと思う」
心が優しくなければ、助けてあげられなかったかもしれない。空想の話だけれど、そう思った。
ただ優しいだけじゃ、ただ強いだけじゃダメなんだ。
前を向く強さと、後ろを振り向ける優しさを持たないと。
「じゃあ先輩、私と約束してください」
凜が悲しさを振りほどくように声をかける。
「絶対、帰ってきてください。帰って、私たちに笑顔を向けてください」
「凜ちゃん……わかった。だから待ってて」
世嗣に結界を張ってもらう。二人の体が膜のようなもので覆われていった。中はなんとなく息が詰まるようだったがすぐ慣れていった。
「じゃあ二人とも。それがもつのは三十分。それまでにみやはちゃんは過去を乗り越えて今を変えて。兄さんはみやはちゃんを守ってあげてね」
淡々と事務連絡をする世嗣。世嗣自身、今すぐにでも止めたい気持ちだったが、神殿家と世界の命運の前ではそれができなかった。
「世嗣、帰ったらまた一からやり直そうな」
「一から……って?」
霧彦の口から出た言葉が世嗣にどう意味するのかは、なんとなくわかっていた。それでも世嗣は聞き返すにはいられない。
「もう一度、家族としてって意味」
「兄さん——」
「じゃあ行ってくるよ」
世嗣が話し終わる前に霧彦たちは行ってしまう。彼らの背中はとても大きく、曇天の空を晴らすほど明るく感じた。




