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「みやはちゃんは兄さんに、箱のこと話したの?」
「……まだ。世嗣ちゃんは知ってるの?」
「神殿家の総代だからね」
みやはと世嗣は寂しく静まり返った廊下で話す。
空き教室の中からは蘇芳と霧彦が昔話をして盛り上がっていた。光の通さない曇天の黒雲が声を掻き消すように重たかった。
「話さなくてもいいの?」
「わたしは霧彦にこの箱をあげた。だからわたしは霧彦の為に箱になるつもり」
「それってみやはちゃんはみやはちゃんでいられないんだよ」
「わかってる。けれど霧彦の為に願いをかなえられるのなら、それはわたしの願いをかなえることなんだよ」
「そんなことしたら兄さんは悲しむ。だから私に預けて。この箱はもう一回しか使えない。それもみやはちゃんわかってるよね」
「うん。だからわたしは霧彦を守るために使いたい」
「このわからずや」
「知ってるでしょ? わたしは馬鹿でわからずやなんだよ」
みやはは箱を世嗣に渡す。それは運命を世嗣に預けるのと同意だった。
「私はこの箱をもう使わせない」
「わたしが使うべき時が来たのなら、その箱は使うしかないんだよ」
「そのくらいわかってるよ……」
世嗣を背にみやはは教室の中に入っていく。その背中は何とも眩しく、寂しかった。
「おう、みやは。世嗣と話は終わったのか?」
外に出ていたみやはが教室に入ってくる。後ろには世嗣がみやはの背中に隠れるようにしていた。霧彦には世嗣の顔を見ることができない。
「ごめんね。女の子同士の話だったからね」
「なんだそれ」
「霧彦、そこは突っ込んじゃいけないことなんじゃないか?」
女の話には男は入れないらしい。
まあそれはそうだろうな。
プライバシーなんちゃらにひっかかるからな。
「女の子には秘密があるんだよ。ね~世嗣ちゃん」
「う、うん」
歯切れの悪い世嗣に笑顔を向けるみやはだったが、世嗣はその笑顔から逃げるように顔をそらした。
「そうだ兄さん私、校舎を見回ってくるね」
「俺も行くぞ」
「いいよ平気だから」
「わかった。危なくなったらすぐ逃げろよ?」
「うん、わかってる……」
世嗣が踵を返して暗がりに消えていく。この場とは違う廊下は寒く暗いように見えた。
「世嗣はどうしたんだ?」
「今は考える時間が必要なんだと思う。だから霧彦、一緒にいてあげて」
「そうだな」
「行ってやれ、お兄ちゃん」
みやはに押し出されるように教室を後にする。霧彦自身何があったのかわからなかったのだが、なにか世嗣の中でよくない考えが浮かんでいることはわかった。
教室を出ると彼女は、廊下の連なりの窓を見通すような瞳でゆっくりと歩きながら眺めていた。
「どうしたんだ?」
声をかけると世嗣は驚くように振り向いた。煌びやかな黒髪、凜とした瞳、長いまつ毛、赤らめた頬、そして伝う輝く水玉。
汚染された暗い空には似合わない美しさだった。
「あ——見ないで」
「悪いっ!」
見惚れるほどの妹の顔を見続けることは許されなかった。霧彦は慌てて殺風景な廊下へ目を移す。
「なんで来たのよ」
「世嗣が暗そうな顔をしていたから」
「大丈夫だって言ったじゃない」
「大丈夫な奴の顔じゃないだろそれ」
「わかってるのなら見ないでよ」
布と肌が擦れる音がする。彼女は目を赤く腫れさせていた。
「だから見ないでって」
「兄貴の前でなら泣いていいんじゃないか? 妹ならさ」
「妹だからこそ泣けないのよ」
声は風に乗っている様だった。屋内で吹くはずのない風に乗って。
「妹は泣いちゃいけないのか?」
「そうだよ。兄さんだから、兄さんのことだから」
「俺に悪いことが起きるのか?」
なんとなくそう思った。そう思うのは妹だからなのだろう。わずかな表情の変化が伺えたから。
「どうしてそう思うの?」
「そうだな、顔がそう言ってる様だったから。俺と顔をあわせようとしてくれない」
「そんなことないよ。今だって私は兄さんの顔を見ているでしょ、ほら——」
「見てるな……でもなんで泣いているんだ?」
涙が流れる彼女の肌はみるみる赤みがかって、次第に嗚咽が混じるようになっていった。
「だってしょうがないじゃない。兄さんを救える方法が見当たらないのだもの」
「救える方法?」
「そう。このままだと兄さんはいなくなってしまう。だから私はそれを救う方法を考えて、けれど見つからなくて。私はどうしたらいいのかな……私は兄さんを救うことができないのかな」
彼女が霧彦に向ける感情は本物で、苦しそうで。連ねたい言葉がたくさんあった。伝えたい感情がたくさんあった。それでも今は悲しみの感情がそれを嗚咽に変えてしまう。
「救うってなんだろうな」
「え?」
霧彦は優しい兄の笑顔を世嗣に向けた。
「それってお前がやらないといけないことか?」
「そうだよ。私にはそれに相応する責任がある。私は兄さんを巻き込んだ、みやはちゃんを巻き込んだ、世界を巻き込んだ。だからすべて私が救わないといけないんだよ」
「じゃあ俺が救われて、世界が救われて、お前は救われるのか?」
世嗣が救われること。それが兄としての願いであり、家族としての役割だから。
「お前が救われないなら俺は救われないよ。俺がこれからどうなるのかはわからない。けれど救いってのは誰にでも向けられることであって、誰かの犠牲の上では成り立ってはいけない。俺はそう思う。だから俺は世嗣を犠牲に、みやはを助けたことを救いだとは一度も思ってない」
だってそれはただの犠牲の中にあった必然だから。
「救いは誰にでも平等に行われる。だから俺は、みんなが笑える世界にしたい」
「みんなにも平等に行われるのなら、兄さんも救われるべきなんだ」
「俺は救われる、救われないは関係がない。それは俺が決めることであって、世嗣が決めることじゃない」
「そんなのは自己満足でしょ?」
「そうだ。人生は自己満足でできている。自己が満足して何が悪い? そんなの自己尊重するなと言っているようなものだろ。だから俺は自己満足し続けるよ」
これまで自己を押し殺してきたからこそ、これからは自由に生きていこうと。今まで妹と他人のように接してきてしまった自分に、兄さんと呼べなかった妹に、これまでの時間を取り戻したいと。
「私は立場上、自己の満足だけじゃいられないんだよ。それでも——」
世嗣は兄の胸の中に潜り込んでくる。優しい胸に世嗣はほぐれていった。
「それでも私は兄さんに甘えたい。今まで遊べなかった時間を取り戻したい」
「ああ」
「世界なんて捨てて、私たちだけの時間を過ごしたい」
「それでもいいのなら」
「それでも私は神殿家を背負っていく。だから兄さん、このままでいて?」
世嗣を優しく抱き留めると、彼女のか細い体が細かく震えていた。震えを止めるように、兄はここにいると伝えるように強く抱きしめなおした。
「痛いよ」
「ごめん、強すぎたか?」
「いいや、少しだけだから。それにこのほうが……安心する」
兄と妹。そんな関係に戻れた時間。それは幸せな時間で、幸せだからこそ早く過ぎ去ってしまう。儚く有限。幸せな時間はそんなもの。
けれど二人の心は抱擁一つで長く隔たれた時間を取り戻していた。
「もういいよ、ありがとうね」
「もう平気か?」
霧彦は兄なりに世嗣のことを心配していた。
「うん平気。それにそろそろ離れないと、そこにいる彼女さんがかわいそうだから」
世嗣が向いている方向には今にも泣きそうなみやはが立っていた。
「ち、違うぞみやは。これはなんて言えばいいか……そう、あれだ。兄妹としてのふれあいというか、愛情っていうか」
「うん、わかってるよ。うん、わかってる……」
泣き言をいう子供のような声だった。
「なあ、みやは?」
「もう兄さん。みやはちゃんのことも抱きしめてあげて」
やれやれという感じで世嗣は霧彦の背中を押す。
勢いのままみやはに抱き着いてしまった。
「悪い、みやは」
「悪いことなんてないでしょ兄さん」
「それはそうだけど」
「兄さんはみやはちゃんの彼女なんでしょ」
「ああ」
「じゃあそれは悪いことなんかじゃない。悪いのはそんなこと考える兄さんの方だ」
そう言われてみやはのことを見ると小動物のように霧彦の胸に頭をこすりつけていた。
「みやは?」
「うん。わたしも幸せだ」
「よかったね、みやはちゃん」
昔からの関係を知っている世嗣は二人がくっついたことを知って喜ばしかった。ここがくっつけばいいなと、それなら諦めるにふさわしい相手だなと。
「この幸せ、世嗣ちゃんにも分けてあげる。たまに……たまになら霧彦を貸してあげる」
それがみやはの最大限の恩情だった。妹の甘えられる場所は兄の場所だけだから。
「世嗣ちゃんに、霧彦をほふる権利を与えます」
「それ死んじゃってない? ねえ、みやは?」
二人は笑っていた。わだかまりも、この現状も忘れて。
二人の笑う姿はこの世で一番尊い気がしていた。