5
世嗣の姿。妹の姿。
妹として見るのは久しぶりだった。だって、妹は神殿家の血を交えてしまったから。それは世嗣も了承したことだったが、どうにも俺の中で踏ん切りがつかなくて。
それは正しいことなのか。
自問自答を繰り返して。
でも、世嗣は笑っていて。
みやはを助けるには一番いい方法で、確実に助けられる方法で。
「みやはは俺たちがどうやってお前をあの屋敷から助け出したか知ってるか?」
「いや、代理人の人もそのことだけは教えてくれなかったよ」
「そっか、約束は守ってくれたんだな」
「あの時のみやはちゃんには隠しておかないといけなかったからね」
「聞いていい? 何があったのか、それを聞かないと前には進めない気がするからさ」
「それを聞いてもらうために、お前をここに来させたんだ」
今まで隠し続けなければならなかったことを、みやはに伝える時が来た。優しいみやはには心に負担がかかりすぎるのではないかと、壊れてしまうのではないかと思ったから。
でもみやはは知らなければならない。
この神殿という家、闇の中にあった優しい太陽の温かみを。
世嗣の頑張りを。
「私がなるよ」
俺たちは神殿家との仲介人が必要になった。仲介人といっても、神殿家にとっての人柱も同等なものだ。
どうしてこうなったかというと、みやはが倒れたことから始まる。
みやはが倒れ手術が必要で血も必要だということだった。だから、世嗣から出されることになったのだ。近場ですぐにみやはの型に合うのは世嗣ただ一人だったから。
しかし、世嗣はまだまだ小柄で、子供で、輸血など耐えられる体ではなかったし法律上もできなかった。だが、その輸血は強行されたのだ。それがさも当たり前かの様に。
それが神殿家の恐ろしさであり、絶対の力だった。制止する晏御家の力など握りつぶしてしまうことも容易い。世嗣は攫われ、その傲慢ゆえの手術は行われた。
俺たちはただ、世嗣とみやはの無事を願っていることしかできなかった。体が弱い世嗣に耐えられるはずもない血の量が、透明な管を赤く染めていく。家族にだけ許された静寂な観察室からただただ祈った。
どうか二人とも無事で帰ってきて、俺たちの前で笑ってくれ。
手術は終了した。みやはは無事ということらしかった。しかし世嗣は薬無しでは、生きていけない体になった。
血を抜くには堪えられなかったらしい。血液製剤を毎週一回、射ちこまなければ生きていけない体になってしまった。何でも血しょう、止血に必要なものがが急激な負荷で生成できない体になったということらしい。
だからその製剤は神殿家から出すことになったのだ。これも闇取引の一環で、無闇に血液センターから取り寄せることができなかったからだ。
しかし、型も合わないものを直接入れられると人間はアレルギー作用を起こす。神殿家の中で限りなく近いものが与えられていたためアレルギー反応は小さかったが、それでも世嗣の体は苦しんでいた。
それから幾度となくうちこまれるたびに、世嗣は神殿家のように力を手にするようになる。それが神殿家の交換条件として出されたのだ。
みやはと世嗣の交換。それがあちらの出したものだった。
晏御家全員と神殿家の老婆とその付き人で話が進められていた。
「あの子は壊れてしまったから、そちらの世嗣さんをこちらにくれないかね」
「なにを言っているんだ。世嗣は僕達の子で——」
「あら、良いのかい?」
神殿側を代表してきていた婆さんが悪態づいて笑っていた。
「私たちは知ってるんだ。影でこそこそとしていたお前たちの存在をね」
俺たちの存在がばれていたというのか。
「私たちが口添えをすればお前たちなぞ、すぐに社会的にも人間的にも潰すことができるんだよ。それをこれで手打ちにしてやると言ってるんさね」
「手打ち? ただの脅しじゃねーか」
「おうおう、小僧が威勢がいいじゃないか。ならなんだい、お前が潰れるって言うのかい?」
悪魔的に笑う老婆は、本物の悪魔のようで。霧彦たちは心から恐怖した。
「待ってください。それはこちらだって言い分がありますよ」
「おお、奥方。何かあるというのですかな」
「あの世嗣とみやはちゃんの血液の取引。あれを口外させて頂いてもよろしいと」
「そんなのいくらでもすればいい。なんて言ったって、私ら神殿家。そんな戯言信じるやつもおるまいよ」
「これがあっても?」
「なっ⁉︎」
これまで優位に立っていた老婆が驚嘆していた。
響子が出したのは一つの封書。古びた紙束が老婆を恐怖させていた。
だが恐怖したのは老婆一人で、霧彦と誠二はもちろん、老婆の付き人すら何かはわからなかった。ただ、響子と世嗣と老婆だけが何かわかっている様だった。
「それをどこで手に入れた、この雌狐がっ! それは神殿の——」
「なにを、これは晏御の所有の物。それを甚だしい」
「お前、それが何か知っているのかっ!」
「雪木の旋律」
「——っ!」
その名前を聞いた老婆は心底驚いたようだった。それが世嗣から出たことに対しても。
「小娘が何故その名前を知っている」
「私だって神殿の血が少なからず流れている。それなら私にも力があって当然でしょう」
「この阿婆擦れが。その態度はなんなんだ」
「私は世嗣。ただそれだけの女です」
「お前はなんの力をもってその雪木の旋律を手に入れたんだい」
「私には人心を生成する力があります」
「そんな荒唐無稽な力あるわけない。代々神殿家は——」
老婆の言葉を紡ぐように世嗣が話す。
「代々神殿家は、現実世界の支配者となってきた。虚構世界と現実世界の対立。それは現代まで至る」
世嗣が何かわからないようなこと話している。あたかも虚構世界がこの世にあるみたいな話し方だった。
「神殿家は虚構世界から来た反逆者からなる家系。虚構世界内の裏切り者だ。神殿家は虚構世界の禁忌を犯した。現実世界とのまぐわり。子を孕んでしまった」
年齢に似合わない話し方。何かが憑いた様な話し方だった。
「お前はまさか……」
「虚構世界の王妃、センデルシス。この現実世界の世嗣の体を借りて顕現した」
センデルシスと名乗った世嗣は俺が知っている世嗣ではなかった。
「おい、ちょっと待て。その虚構世界って何なんだよ」
目の前で起きている意味がわからないことを説明してほしかった。
「虚構世界。そなたらがいる世界と対をなす世界。我はその世界からやってきた。そして我らの敵は目の前にいる神殿カリナという老婆だ」
「そこからわざわざ来たというわけか。それを母さんは知っていた?」
「うん、ごめんね黙っていて。世嗣が教えてくれたの」
「うぬ。我も神殿の力を有しておる。それが我らを繋げここに顕現できた。我には協力者が必要だった。だから世嗣を通じて響子に協力を仰いだのだ。もともとシンデンという名は、我ら王家の名だ」
「待て、センデルシス。何故お前が出てくるのだ」
「うるさい黙れ。そなたは黙って聞いておれ。それがそなたの役目だっ!」
センデルシスがそう言うとカリナは固まってしまった。物理的に動かなくなったのだ。
「そなたは知っておろうよ。我が一度命令すれば絶対服従。それが我の力だ」
絶対服従の力。王の力には十分すぎるほどの力だった。これがあれば、なんだってできる。それが王の特権。その力に霧彦は何か違和感を覚える。
「現実世界とまぐわってしまった罪人達の子。それが神殿みやはという子だ」
罪人達の子。そう表現されたみやは。忌み子のように扱われているみやはに霧彦は、歯がゆい感情でいっぱいになっていた。
「みやはをこの神殿家から助け出したいと言ったな。だがそれは無理だ。因果的にみやはという子は神殿家から離れられない」
「そんなのは関係ないだろ。俺たちはみやはを助けないといけないんだ」
「関係あるんだよ少年。みやはは忌み子なのだ。本来ならこの場で消さねばならん。みやはだけではない、カリナの血を持つもの全てな。けれど我らにはできない、何故ならみやはの能力は消えることだからだ」
「意味が分からん」
「そのままの意味だよ。みやはは消える定めを持って生まれた。消されることではない、自らが消える定めを持った少女なのだ」
センデルシスが言ったことは訳がわからなかった。
「みやはちゃんはね、このままだとやがて消えてしまうの。だからみやはちゃんの代わりになる人柱が必要なんだって」
響子が今置かれている状況を説明する。
その中で霧彦は嫌な想像をしてしまい、響子がその後に説明する言葉を途切れさせるように。
「人柱は俺がなる。俺がなればみやはは——」
「いやそれはできない。何故なら少年は神殿の力を有してはおらぬだろう」
「なら俺が命を懸けても——」
聞きたくないことが言われるような気がして、必死に言葉を紡いだ。子供だった。駄々をこねる子供。
「命を懸けるなど我ら虚構世界の者に意味は成さないのだよ。寿命という概念がないのでな。だから——」
「じゃあ俺はどうしたらいいんだよ……」
「静かに見送ってやってくれぬか」
そう言われた言葉は自分の頭の中で反芻していた。誰がとかは言われなくともわかっていた。人柱になれる人間はこの場に一人しかいなかったから。
「私がなるよ」
センデルシスは世嗣になっていた。自分のことを投げ出すみたいに世嗣が言葉を紡ぐ。
「私がみやはちゃんの代わりに人柱になれば、晏御家の手助けは終わる。目の前にこんなにも簡単な方法があるんだよ? じゃあわかるよね、兄さん」
「嫌だわからない。世嗣が投げ出すなんてことはないんだ。俺が始めたことだ。だから示しは俺がつけないと」
霧彦の言葉を無視するように世嗣は続けた。
「それにセンデルシスさんも言ってたんだ。人柱といっても死ぬわけではないって。虚構世界には命なんて概念はないから、ただ私は晏御の人間じゃなくなる——世嗣は霧彦兄さんの妹じゃなくなるだけだから」
「なにを言ってるんだっ! 俺は世嗣の兄さんで守ってやらないといけない妹で。それが……妹を放り出す兄なんて兄じゃなくなるだろうがっ!」
ふふっと笑う世嗣の表情はどこか満足げに笑っていた。
「兄さんはみやはちゃんを助けるんでしょ。だから私は兄さんの手助けをしたい。ねぇ兄さん、手助けをさせて?」
世嗣の心意は全くぶれなかった。これが世嗣の役目だと、役目を全うさせてほしいと。心から願う彼女に、兄として答えを出すには子供過ぎた。
そのまま押し黙ってしまう霧彦の震える肩にそっと手をやる響子。
「霧彦。世嗣が行っちゃうのそんなに嫌?」
「母さんは嫌じゃないのかよっ!」
泣きべそをかきながら響子に訴える。
「母さんだって世嗣の母さんだから嫌だよ。離れるなんて嫌だよ。考えたくもない」
響子の顔は言葉とは矛盾していた。彼女は優しく子を見守るみたいに笑っていた。
「それでも人間はね、選択しないといけない時があるんだよ。どんなに嫌なことでも選択しないといけない。理不尽だよね、神様は」
「そんな理不尽に従わないといけないのかよ」
「そんなことない。それも選択だよ霧彦。だって人間だから」
「じゃあ世嗣を助けたい」
「そうだね、できれば世嗣はこのまま私たちと仲良く暮らしたいね。でもダメなんだ。だって——世嗣が決めたことだから」
「え?」
「人間は他人に決められたから、命令されたからそれをやるなんて間違ってるんだよ。そんなのただの横暴だよ。だから人間は個々に感情があって、体があって、心があるんだ」
響子言うことは至極真っ当で、母親の慈愛に溢れていて。
「だから、私は——世嗣の親だから、世嗣を応援するよ。世嗣だって長く、本当に長い時間、考えてきて出した答えなんだ。考えて、考え出した答えを母さんは応援したい。霧彦は、どう?」
母親に背中を押される。
「ほら行ってやれ、お兄ちゃんっ!」
兄として答えを出さなければいけない。そう母親からのエールをもらって俺は——。
「世嗣本当にいいのか?」
「うん」
「これから先、兄さんはお前を守ってやれないぞ?」
「うん、大丈夫」
「俺と世嗣は他人に、なっちゃうんだぞ?」
「うん、頑張る」
二人からポロポロと涙が流れる。
「いじめられても兄さんは近くにいれないから、自分が強くなれよ?」
「うん。兄さんもみやはちゃんを大事に、しなきゃ、だめだよ?」
泣くというにはブサイクで。嗚咽も止まらなくて。
「だから、兄さん。私を、忘れないでね?」
「当たり、前だ。なんてったって、俺は、世嗣の、兄さんだからなっ!」
その言葉を聞くと世嗣は涙と鼻水でグチャグチャになった顔を、無理やりに笑わせた。
この時に約束したことは決して忘れなかった。だが、世嗣はしっかりと自分の足で立つことができていた。