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朝の冷たい空気が霧彦を叩き起こす。布団にくるまってその敵を追い払おうと籠城するが、一向に出ていってくれることはなかった。
寒いものは寒い。
寒すぎて死にそうだ。
本格的な冬がやってきたのだ。霧彦はこの時期、意地でも布団からは出たくはなかった。厳しい寒さの中、別に好きでもない学校に行くことが苦痛だったからだ。
しかし今年の霧彦は一味違った。なぜなら——。
「霧彦さん──そろそろ起きてくれませんか~?」
彼女という温かい存在がいるからだ。
「おはようみやは~」
「お寝坊さんは置いていきますよ」
「ちょっと待ってくれよ、今行くから」
「お? 今日はやる気だね~」
「みやはが行かないなら俺も行かないよ」
「だ~め。学校はサボっちゃいけません」
毎朝起こしてくれる彼女。そんな存在がいることで霧彦は、堕落した生活をせずにすんでいた。
「みやはちゃん、毎日ありがとね」
部屋に笑顔の響子が入ってきた。
「この霧彦の為だったら、わたしは何度だって来るよ」
「霧彦にはもったいない、いい子だよ~」
「わたしのほうこそ、いいのかなって思うよ」
昔のことだ、と霧彦は口から出そうになったがその前に響子が口を開いた。
「この子が選んだ子だよ? もったいないことなんてないよ。だからこの馬鹿をよろしくね」
「おばさん、ありがと」
みやはは優しく笑う。
彼女にとってこの場所は、居心地がいいのだろうか。罪悪感で押し殺されていないだろうか。
彼女は俺たちがしたことを知らないはずだ。だからこの秘密は絶対にこの場所には持ってきてはいけない。
罪悪感は晏御の人間だけが抱えていればいいと思っていた。
それでもみやはは、この話を聞かなければならない。
「これからはお母さんになるかもね」
暗い顔をしていた霧彦を察したのか、響子がふざけたことを言う。
ふざけては無いのだけれど、なんかな〜。
「なに言ってるんだよ」
「え? あんたたち結婚しないの?」
「まだ早いよ。ね、霧彦」
「まだって……」
二人は顔を真っ赤にして押し黙る。
はずかしいな~。
そんな二人を見て響子は笑っていた。
「ほら霧彦も起きなさい。せっかく彼女が起こしに来てくれたんだから。みやはちゃんもご飯食べていくでしょ? 今用意するから」
そそくさと出ていく響子の姿に苦笑する。
あれはあれでちゃんと理解してくれてるから、驚きだ。
「ほら、行こうぜ」
「うん、ありがと」
みやはとの朝ごはんは、何か新鮮でゆっくりとした時間だった。
楽しく幸せな時間でもっと続けばと。
「じゃあ行ってくる」
「いってらっしゃい」
響子の見送りを背に、霧彦たちは学校へ向かった。
学校への通学路で例の話をする。これからの為だ。俺たちは何としてでも大切な親友を取り戻さないといけないから。
「蘇芳は多分怒ってるよね」
「そうだな。僕を忘れるなんて、て今頃泣いてるぞ」
「蘇芳の奴、泣き虫だからね」
「泣けるんならいいけどな」
「……蘇芳はいる、よね?」
「そんなのいるに決まってる。大体、人間が消えるなんてそんな不可解なことありえないんだよ」
「そう、だよね」
消えるなんてありえない。
そうは言っても実際人間は消えているわけで。
存在すら忘れているわけで。
けれど、それでも俺たちは希望を捨てたくはなかった。
「みやは、世嗣は覚えているか」
「うん……」
今、みやはは世嗣の記憶が断片的にしかなかった。ただ霧彦に妹がいるということと、その妹と喧嘩してしまったことだけを覚えていた。
その後に起きた出来事のせいなのだと思う。それが彼女に負担を抱えさせえていた。
「わたしが消えた時に全ての記憶が戻ってきたよ。楽しかった記憶も、嫌な記憶も……。
わたしはただ忘れて逃げていただけだ」
「それだけ、悲惨なことだった」
「忘却という手段に逃げたことの方が悲惨だよ、わたしにとっては」
それほどに彼女が世嗣にしてしまったことに罪悪感を抱えている。
彼女にも悪気があったことではない。それも世嗣はわかってるし、世嗣だって認めている。
「世嗣ちゃんはずっとそばにいたんだね」
「ああ。みやはのことを気にかけていたよ」
「それなのにわたしは何もかも忘れて。世嗣ちゃんのおかげで今もこうしていれるのに……そんなこともわからなくて」
「世嗣も承知したことだよ。俺ら、晏御の人間はみやはという少女が大好きだから、助けてあげたかったから」
彼女は泣く。晏御の人間という温かさは彼女の笑顔であり、彼女の居場所だった。だからそれを思い出した彼女は、声を殺して泣いた。
「だからそろそろあいつに頑張ったなって褒めてやってくれないか?」
彼女は忘れたんじゃないんだ。何も覚えていないと言うのも語弊がある。
彼女が何もわからなかった理由は、ただ晏御の人間をヒーローだと思った理由は。
彼女に、世嗣に隠されてしまったからだった。
俺たちはヒーローなんかじゃない。
学校に到着するとそこには誰の姿もない。それは本来の姿であり、仮初の皮がなくなったモノでしかない建物。
「霧彦……これは?」
「全部あいつがみやはの為にって」
本来、生徒の活気であふれる建物。これが学校だというにはあまりに質素で、暗くて、今にも消えそうだった。
霧彦たちが教室に入る。扉を開けるといつものようにクラスメイトが迎えてくれる。
「神殿さんおはようっ!」
皆それぞれが口にした。活気あふれる者、お調子者、読書にふけっている者、ただ寝ている者。それぞれが感情を持っているもののように見える。
けれどそれは幻想で、ただの記憶で、崩れ去ってしまう。
まるでノイズが掻き消えたかのように。
ノイズの中から本物の人間が席に座していた。
「待たせたな——世嗣」
「そうだね、兄さん。ずいぶんと長かった」
「世嗣ちゃん……」
開いた窓から冷たい空気が流れ込んでくる。冷たい風のようで、それも偽りのようで。それでも風は吹く。
「みやはちゃん、思い出したんだね」
「うん。その前に世嗣ちゃんあの時はごめんね」
「え、何が?」
「霧彦もごめんね。わたしが神殿の屋敷から追い出しちゃって。あの時わたし、世嗣ちゃんに嫉妬してた。突然現れた世嗣ちゃんに霧彦を取られるんじゃないかって」
突然の謝罪に開いた目が塞がらない二人。
「え……みやはちゃんそんなに前のこと気にしてたの?」
「うん、気にしてた。だって、わたし。霧彦が元気づけようとしてくれてたのわかってた。いつもわたしの為に、時間を割いてくれてたの知ってたのに」
「お前の為だから俺は」
「こうやっていつも霧彦はわたしの為に、自分を犠牲にする。それがわかっていたのに、わたしは霧彦を傷つけるようなことをした。それがわたしの、神殿の血が流れている証拠。平気で人のことを傷つけるんだ」
彼女は悲しく笑った。笑うなんて表現は似合わない程に悲しく。
「それは世嗣ちゃんにも同じで、だから嫉妬して。急に出てきた女の子に嫉妬して……」
「それは嬉しいな」
世嗣が嬉しそうに笑った。
「だってあのみやはちゃんが嫉妬してくれるんだよ。あの兄さんが大好きな子が私なんかに嫉妬してくれる。そんなの嬉しいじゃない。妹冥利に尽きるじゃない。だって私は、どんなに足搔いても、兄さんの隣は歩けない子なんだよ。だから──」
私は兄さんと一緒にいれれば満足だった。




