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私は幸せな家庭で育った。
家族三人で暮らす毎日。それが日常だった。いつからこうなってしまったのだろうか。悲しく歪んだ家族になってしまったのだろうか。
昔はこんな人ではなかったのに。
昔はお父さんと呼べる人だったのに。
私たち家族は本当に幸せだったはずだ。幸せな日々を過ごしていた。
「お父さん早く帰ってくるよね」
「ああ、凜の為に早く帰ってくるつもりだよ」
「お母さんは?」
「ごめんね凜。お母さん達、仕事ばっかりで」
「しょうがないよ。お母さん達忙しいんだもん」
その日は私の誕生日だった。けれど忙しいお母さん達はその日も仕事を休めなかった。会社でも偉かったから。だから休めないって、そう言ってた。
「その代わり、うんと大きいケーキ買ってくるから。いい子で待ってて? 約束だよ?」
小さな約束をした。それが楽しみだった。
二人が仕事へ出かける。その背中を見送り私は家に入る。一人きりの誕生日。でも楽しみな誕生日。
「どれくらい大きなケーキなんだろうな~」
本当に楽しみだった。仕事ばかりの両親だったけれど、イベントごとは本当に豪勢にやってくれていつも会えないことを忘れさせるほどに楽しかった。今回もそうなるだろうと思っていた。
飲み物を飲もうと冷蔵庫にある牛乳を取り出そうとする。まだ幼稚園に入ったばかりの私では取り出すには高すぎた。
「うんしょ——わぁっ!」
踏み台に上っていた私はやっとの思いで牛乳を取り出すとバランスを崩してしまった。その拍子に牛乳をパックごと落としてしまった。
床には白い水溜りが拡がっていく。
「お母さんに怒られちゃう」
早く掃除しなければ。
帰ってきたら謝らないと。
電話のコール音が無人の部屋に鳴り響く。凜だけの時は出てはいけないと教えられていたので私は電話に出なかった。
時計の針が進む。一時間、二時間。どんどんと時間が進む。時刻は十九時をまわっていた。母親たちがいつも帰ってくる時間だ。
私は待った。
時間は二十時。
私は待った。
時間は二十一時。
私はリビングにある椅子で待った。
時間は二十二時。
私は目をこすりながら待った。
バタンッ。
誰かが帰ってきた音だ。私は玄関に向かい走った。バタバタと電気のついていない玄関まで走った。
玄関に佇んでいるのは父親だった。
「おかえりなさいお父さん」
「……」
何も言わない父親。
「あれお母さんは?」
「……」
黙りこくる父親。そのまま自室へ向かってそのまま閉じこもってしまった。
「疲れたのかな」
私はリビングに戻った。あまりにも眠たかったので普段付けないテレビをつけて母親を待つことにした。
無機質なアナウンサーの声が聞こえた。
女性のアナウンサーだ。
何かの中継のようだった。
「今朝、雪原町で乗用車の暴走事故がありました」
無機質な声で淡々と続ける。
「その事故で一人の女性が巻き込まれ死亡しました。————二十八歳。乗用車を運転していた——」
母親の名前だった。無機質な声で。淡々と。
目に広がるのはアスファルトに広がる血痕。
大破した自動車。
大勢の野次馬や記者、カメラの数々。
まだ小さかった私には信じられなかった。
それが偽りであってほしかった。
その時からだろう壊れてしまったのは。
「かわいそうね。あんなに小さい子だっているのにね」
お葬式。
私が出るとお母さんより目立ってしまった。
母親が主役だというのに。
故人を悼む式だというのに。
私ばかりに目が向く。
父親がギュッと手を握ってくれた。
「お父様は何をしていたのかしらね」
「仕事だったそうよ」
「これからどうしていくのだろうかね」
「これから大変になるわね」
父親に寄せられるストレスも相当だったのだろう。
次の日から父親は酒を飲むようになった。ウイスキーとかいう酒だ。瓶を茶色く染めるお酒。
お父さんの会社が事業というものに失敗したらしい。倒産だと言っていた。これで無職だとも言っていた。けれどお父さんは笑っていた。その日もお酒を飲んでいた。
私は小学校に入った。その入学式。みんなお母さんと来ているのに私は独りだった。家へ帰るとまたお父さんがお酒を飲んでいた。
その日から私に暴力も振るうようになった。
でもそれは私がいい子にしてなかったからだと思った。
いい子にしていなかったからお父さんは叩いていたんだ。
だからお父さんが言うようにお酒を買ってくればいい子になれる。
そう思っていた。
助けてと言えるはずがない。
何度も振るわれる暴力。
助けてなんて言葉はいい子にしていないと言えない。
助けてもらう必要なんてない。
痛くても言えない。
わたしは悪い子だから。
いい子になるためにはお父さんの言うことを守らないといけないから。
助けてなんて……。